そしてその夜、元凶たる男は己の 「危うく殺されるところでしたのよ」 「すまないことをした」 「やっぱり別れましょう、私たち」 「そう言うな。いずれ必ずけじめをつけるから」 「なら奥さんと別れてくれるのかしら」 「俺にも世間体というものがあってだな」 「私と世間、どっちが大切なんです」 「色々と事情があるんだ、分かってくれ」 「なら大切にして下さる?」 「もちろん一生面倒を見るとも」 「……駄目だ。全然笑えない」 ひとしきり愛憎ごっこを棒読みで遊んでから、雷蔵はにわかに真顔になった。「全くだ」とこちらも至って真面目に虎一太が答える。その割にかなり戯れに乗っていた様子ではあったが。 「君がいつまでたってもそうしてるからうっかり下らない茶番劇までやっちゃったよ。いい加減見飽きたしそろそろ顔上げたら?」 「だが妻が勝手な行動をしたというのに、合わせる顔が」 「そう思うなら早いところ現状をどうにかして欲しいね」 「尽力する」 そう言って、虎一太はようやく上体を上げた。ついでに凝ったとばかりに肩を揉んでいる。あまりに平然としているから、本当に申し訳なく思っているのか甚だ疑わしいが、正直どうでもいいので雷蔵はさっさと次の話題に移った。 「これから敷地の周囲に結界を張ることにするよ」 「結界?」 「ああ。簡単なものだけど、誰かが入ってきたら分かるようにね」 あまりにも侵入者が多いから、と雷蔵は肩を竦める。今朝感じた視線のことについては言わなかった。 「面目ない」 虎一太は雲居に謹慎を申し渡したことを告げた。本来ならば厳罰ものだろうが、表沙汰になることを好まなかったためこの程度で済んだ。まあ相手が相手だとどうしても処罰に限度があるのだろう。 「で、君は今晩もここに泊る羽目になったのかい」 「ああ。今度は雲居にまで追い立てられてしまってな」 きらきらと瞳を輝かせ、「さあさ、私のことはお気にせずお勤めを果たしに行かれて下さいまし」と誤解を招くような勢いで言われた虎一太はなんとも複雑な気分である。 「おかげで周囲には『囲い女にもこの寛大なお心遣い、誠に夫思いの賢妻で』と感心される始末だ」 声音に悄然とした響きが微かに滲む。思いのほか参っているらしい。 「何なら別れてくださっても結構ですのよ」 「なんだ、焼き餅か?」 「あいにく餅は煮餅派でして。寝言は寝てから言え、冗談は顔だけにせよと世間では申します」 「前者はともかく、後者のは酷くないか」 寝ぼけた調子で虎一太は顎を撫でてみる。それほど奇抜な風貌だとは思わないのだが。 「冗談はここまでにして、今日は実はお前に尋ねたいことがあって来た」 一変して表情を改めた虎一太に、輪王坐の姿勢で雷蔵は首を傾ける。 「信長が〈秘伝〉に固執する理由についてだ」 雷蔵の眼差しが不意に鋭く光った。 「〈秘伝〉は確かに強力な武器だろう。だが他の大名はその存在を知り、あるいは狙ってはいても、実際には半信半疑である場合がほとんどだ。何故ならそのものを目にしたことがない、噂だけのものだからな。甲斐の虎は半ば本気のようだが……だが信長はそれともどこか違う。お前たちの難攻不落の里でさえあの男は滅ぼしてみせた」 瞳を脇に向けながら、己の考えていたことを述べる。 「ずっと解せぬでな。それほどまでにあの男が執着するのは何故なのか―――何か心当たりはあるか?」 「……」 雷蔵は視線をすいと滑らせた。手元を見つめるようにして黙り込む。伸びた前髪が目元にかかり、その表情は読めない。虎一太はただその横顔と沈黙を見守り、静かに待った。 どれほどしてからか、ようやくその唇が動いた。 「あの男がかつて〈秘伝〉を目にしているからだよ」 「何?」 「目の当たりにしているんだ。〈秘伝〉の力をね」 雷蔵の目が細められた。相変わらず感情の読めぬ瞳は、過ぎ去りし記憶を見据えて淡い光を宿す。 「〈秘伝〉は―――京里忍城は、過去に一度だけ信長に力添えをしたことがある」 「……初耳だな」 「そりゃあ当然だよ。里内でも俺しか知らなかった極秘中の極秘事項だからね。……恐らく、信長自身でさえ思わぬことだっただろう」 「どういうことだ」 「京里忍城はその時何の依頼も受けていなかった。仕事ではなく、自らの意思で、あの男に味方したんだよ。それも里長隠洽自らね」 雷蔵は語った。 「当時〈秘伝〉の継承者だった長は、何を思ったか、単身里を離れある場所に向かったんだ」 「ある場所?」 「桶狭間だよ」 その名に、虎一太の面に戦慄にも似た衝撃が走った。桶狭間。その意味するところは。 「織田の大うつけが今川義元を討ったあの一戦。当初劣勢だった織田軍を救ったのは、数々の偶然だったといわれている。その中でも最たるものが、突然の豪雨」 「豪雨……」 まさか、と顰めていた眉間を広げた虎一太に、頷き返す。 「そう、あれを起こしたのは隠洽だ」 雷蔵は衣の上から、懐の巻物に触れた。どことなく熱を帯びている気がした。 「天ノ巻の極意は天にまつわる理を己のものとすること。信長はどこからか長が〈秘伝〉の力を振うのを見ていたんだろう。いや、案外長自身が伝えたのかもね。実際のところはよく分からない。何故彼に肩入れをしたのか、あの人は俺にも教えてはくれなかったから。ただ」 「ただ?」 「俺が思うに……長はあの男にこの国の未来を賭けたのかもしれない」 乱れゆく時勢の中で、隠洽は世の和を望む人だった。忍びという闇の生業を背負ったのも、すべては世の秩序を保つ歯車とならんがためだった。温和と冷厳の両面を兼ねたその人柄の、裏にあった素顔を知るのは、恐らく〈秘伝〉を直伝された雷蔵だけだっただろう。洽は、信長こそがこの戦乱に終止符を打ちうる人物と見なしたのかもしれなかった。だからこそ力を貸した。 洽の目は正確ではあった。けれど、結局それは仇となった。 「隠洽の読み誤りは、信長が予想以上に欲深かったことだ。あの男は何よりも力を渇望していた。そこで〈秘伝〉に目をつけたんだろう。〈秘伝〉というのはね、天ノ巻も地ノ巻も、特定の条件に見合った人間にしか会得することはできないんだ。その第一が呪力。第二が感受性。逆に言えばこれが揃ってさえいれば、基本的に資格者にはなれる。ただし当代継承者がそこから更に相応しい人柄を厳選するから、その二つが揃っているからといって誰でも伝授してもらえるってわけではない。要するに、厳格慎重な人格審査があるからこそ、〈秘伝〉はこれまで大きな害もなく継承され続けてこられたというわけ」 ところが織田信長という男は異端だった。血筋の特殊さゆえなのか、生まれながらに非常に強力かつ純粋な呪力を持っていたのである。当人もいくらか心得があったようで、下手をすれば〈秘伝〉を継承権なしに強引に我が物にしかねないほどの異能の才があった。もしこれで人格も優れているのであれば問題はなかったのだが、生憎とそうではなかった。 「彼は別に、直接〈秘伝〉を渡せとは言ってこなかったよ。頼んでも無駄だという自覚くらいはあったんだろうね。だから武力に訴えた。内応者を得て京里忍城に攻め入り、俺は〈秘伝〉を持ち出し逃げた」 「そしてあの日、風早の門を叩いたのだな」 虎一太の科白に、雷蔵は頷いた。そうだ。脱出の直後、数々の追手を退け、満身創痍の体で辿りついた先は影梟衆の里だった。意図したわけではないと思うが、無意識のうちに最も安全であろう場所を選んだのかもしれなかった。実際、そこへ至るまでの記憶は曖昧で、雷蔵はあまり確かなことを覚えていない。 「思い返せばあれこそ神業だったな。あれだけの怪我を負いながら僅か一日足らずで山城から播磨まで走ったのだから」 感心した風の虎一太に、雷蔵はそうだったっけとあえてとぼけてみせた。確か途中から夜闇にまぎれて播磨まで一足飛びに逃げ伸びたのだ。〈秘伝〉に宿るモノの背に乗って。 雷蔵が影梟衆の風早の里を知っていたのは、これが二度目の来訪であったからだった。 「それにしても、今になって信長公がまた〈秘伝〉を求めるなんてね」 雷蔵は口許を指で覆い、ボソリとごちた。 「どうかしたか」 不意の低い呟きを聞き咎め、虎一太が視線を向けた。 雷蔵は遠くを見るようにして、目を細める。 「実は、俺にもずっと解せないことがあってさ」 「何だ」 「まず〈秘伝〉の存在が国中に知れ渡っていたこと。信長が知っているのはともかくとして、何故これほどまでに広まったのかと思ってね」 「昔から噂自体はあったと思うが」 京里忍城には奇しく妙なる忍びの術を収めた秘伝の書がある。それは忍びの間では有名な話であったから、虎一太は特に不思議と思ったことはなかった。 しかし雷蔵は首を横に振った。 「噂の内容が明らかに違うんだ」 「内容?」 「これまでは単に『忍びの奥義』とだけ言われてきていたはずだ。それも知っているのはその道の人間のみ。なのにいつの間にか風聞は大名たちに膾炙され、『森羅万象の理が記されていて、得れば天下を手に入れることができる』なんて話に肥大していた」 「しかし口遊に尾ひれはつきものじゃないか? 第一、大名ともなれば透波と少なからず関係を持っているものだろう」 「そういう可能性もあるけど……尾ひれにしては、より正確なのが引っかかる。間合いも気に食わない」 まるで―――宙に据えられた双眸が鋭い光を帯びる。 「誰かが意図的に広めたみたいで、どうもね」 「―――……」 虎一太は眉根を顰めた。『誰かが意図的に』。それは妙な信憑性を持って響いた。 「思い当たるところがあるのか」 ただの直感にしては確信がありそうな口ぶりに、問いを重ねる。 雷蔵は一度だけ瞳だけで見返した。 「地ノ巻のことがある」 声を潜めてそう言えば、虎一太の表情にも微かに変化があった。 「話してはいなかったけど、美吉が持つ地ノ巻は元々天ノ巻とは一つの書だったんだ。それを〈秘伝〉を創った術師が二つにわけ、それぞれ別系統に伝えた。天ノ巻は知名度は高いが難攻不落である忍びの里に、そして地ノ巻は誰にも知られぬ無名の流れ透波に。そうすることで、どちらかだけでも確実に継承され続けることを望んだのだと、そう長から聞いている」 「世に〈秘伝〉がお前の持つ方しか知られていないのはそういう理由か」 露出が多い分、名が知れる。それを見越し、あえてその術師は京里忍城に預けたのだろう。片方を囮にすることで、もう片方から人々の目を逸らさせるために。 ああ、と肯定してから、雷蔵は核心を口にした。 「ところが、地ノ巻の先代継承者は何者かに殺されているんだ。それも、ご丁寧に天の継承者の仕業に見せかけるという土産つきでね」 虎一太の瞼が僅かに開かれる。 誰にも知られていないはずの地の継承者。先代は美吉の師である紫香という女忍びであった。それが殺された。やり口からして、決して不慮のことではなく、凶手は最初から彼女を地義書の主だと承知の上で襲っている。 雷蔵は片膝を両腕で抱えるようにし、上に顎を載せた。 「おかげで美吉に初めて会った時には、有無を言わさず刃を向けられたものだから、参ったよ。でもどうにもおかしい。本来知られるはずのない地ノ巻の継承者が、明らかな意図をもって狙われただけでなく、襲撃者はわざわざ小細工を残していった。まるで天の継承者と地の継承者を互いに憎み合わせ闘わせようとしたみたいに」 「……〈秘伝〉のことを正確に知り、漁夫の利を狙った者がいる。そういうことか」 「あくまで可能性の話だけどね。でもそう考えれば、京里忍城の返り忠にしろ、〈秘伝〉の噂のことにしろ、そして今回信長に俺の情報を流して唆した者にしろ、話がつながる気がする」 何者かが、裏で糸を引き、〈秘伝〉を狙っている。数々の罠を仕掛け、獲物が引っかかるのを待ち構えている。雷蔵にはその狩猟者の視線が感じられるようだった。すべての出来事に、不可視の蜘蛛の糸が網の目に張り巡らされている気がしてならないのだ。 「もし仮にその人物がいたとして、正体に心当たりはあるのか?」 雷蔵は首を横に振った。 「全く。ただ……どんな人物であったとしても、腹に良からぬ考えを抱えていることは間違いないね」 こんなものを欲しがり、手段を選ばぬ人間に、碌な者はいない。少なくとも「まとも」とは言えないだろう。 「それには同感だな」と虎一太も呟き、考え込む。眉間の皺が深刻な影を落としている。 雷蔵は心持ち物憂げに、開け放った外を眺めやった。 |