翌朝、雷蔵は起きてすぐ、邸の裏手にある井戸に向かった。虎一太はまだ空の薄暗い頃に出て行った。 透き通った清水を頭からかぶる。飛び散った飛沫や、先から伝い落ちる雫が、陽光にきらきらと瞬いた。 空になった井戸桶を置いて、ふうと一呼吸つく。熱い風呂もいいが、朝はこうして冷水を浴びる方が身が引き締まる。 濡れた夜着のまま、井戸端で呆けたように空を見上げる。張りついた衣の上を東風が撫でる。 天気は満ち、地気も濃い。春になって、種々のものが芽吹き、生命が息吹き始める。冬の終わりは新たな始まりである。すべてが一斉に蠢き始め、息苦しいほどだ。いや、この息苦しさは、『別の方』から来ているのか。 瞳を閉じ、気を集中させる。〈秘伝〉の書は室内に置いて来ているが、身につけずともその理を操ることはできる。 中でもこれは簡単な術だ。ただ意識を天高く駆り、『上』から見晴かすだけ。周囲の様子を窺おうと思った。 ふわりと浮かび上がるような感覚を覚えた瞬間、ゾクリと全身が総毛立った。 「―――!」 意識を強引に引き戻し、閉じていた目を大きく瞠る。思わず胸元を抑え、身を折る。どっと体中から冷や汗が滲んだ。 (何だ、今のは) 浅く息を切らしながら、片腕を掴む。心臓が不穏に跳ね、悪寒が脊髄を走る。まるで極度の立ち眩みに見舞われたかのようだった。 一瞬だった。ほんの一瞬だけであったが感じた。 確かに誰かに「見られて」いた。 (これは前触れなのか、それとも) 戦慄は、視線の毒気に中てられたものか。 何とも嫌な感じだ。 井戸の柱に腕をつき、重心を預けるように額をあてる。急に身体が冷えた。血の気が引いたのか、身の内から寒さに襲われる。 あの視線の主は一体何者だ。何を視ていた。少なくとも徒者でも、まともな目的でもないだろう。 今からでもこの場を離れるべきか。 (『逃れられぬ』、か……) ようやく落ち着いてきた呼吸の下で、じっと双眸を伏せ諦観の吐息を零した。 あまりのことに恐らく注意を取られすぎたのだろう。 己の背後に近付く影にも、全く気が向かなかった。 「!」 直前で鳴った空気の音に、雷蔵はサッと身を翻した。殆ど反射的な動きだった。側で硬い響きが立ち、髪が幾筋か切り取られる。視界の隅に、柱に食い込む煌めく刃を捕えた。あと少し遅れていたら、頸動脈を切られていた。 (殺気―――) 他のことに気を取られすぎて、この程度を気取れなかったとは。己の油断に舌打ちをする。 「死ねっ!」 嵌まり込んだ小刀をもぎ取り、逆手に持って襲いかかって来たのは、若い女であった。 「? だ」 れ、と尋ねかけたところに、風を切って剣閃が舞う。一度に幾陣も放たれる太刀筋を、正確に見極め危うげなく躱しながら、雷蔵は胸のうちで小首を傾げた。 女は村娘にしてはいくらか上質の(といっても豪族や大名家と比べれば格段に質素ではあるが)小袖を纏っており、色白の面立ちは決して卑しくない。今は溢れんばかりの憎悪に彩られて般若の形相だが、それでもなお燃えるような魅力が引き立っている。素直に美しいと分類される容貌だろう。 しかし生憎、そのような美女に殺されかかる所以に、雷蔵は心当たりがない。そもそもこの里の者とは、十年前の来訪を数に含めてもほとんど接触がないのだ。 ほかに考えられるとすればせいぜい不知火と同じ理由くらいであるが、そうだとしても現時点で女が雷蔵の素性を知っているとは思えない。 「あの、ちょっと待って」 雷蔵は困惑しながらも、咄嗟に幻術をかけるのは忘れなかった。単衣、それもずぶ濡れの恰好ではさすがに体つきで性別が悟られてしまう。 ただし、今回は呪力ではなく催眠を用いた術なので、己の姿形そのものを女体に変化させるわけではなく、相手が錯覚を起こすよう、その人間の“無意識”に仕掛けをほどこす。 一方そんなことに気づかぬ女は、雷蔵の制止など聞く耳も持たずに、手加減のない攻撃をしかけてくる。器量に加え、これほどの腕前ならば、女は大方くノ一だろう。なかなかに鋭い太刀筋と、女ならではのしなやかな身のこなしだった。だが真剣に本気を出さなければ勝ちを取れぬという相手でもない。 「だから待ってってば」 調子を取り戻し、流れを得た雷蔵は、女の隙を見抜くやすかさず手刀で小手を打った。返す手で、女が思わず取りこぼした凶器を掴み、あっさり取り上げる。 「ぅ……」 手首を抑え、女はキッと雷蔵を睨み上げた。そしてにわかに片手を後ろに回すや、勢いつけて振った。 小刀を持った雷蔵の左手首に細長い布が巻きついた。それは女が身に着けていた帯であった。 女は瞬く間に小袖を脱ぎ捨てると、忍び装束姿になった。間髪入れず今度は帯を握る手とは逆の手を振り切る。 空中に光条が煌めき、雷蔵の首に絡みつく。 僅かに眉を寄せて、自由な方の手で力任せに糸をほどこうとするも、一向に外れない。女が汗を浮かべながら、ふっと笑った。 「無駄よ。この絡新婦の糸は鋼を特殊な製法で練ってつくられている。頑丈にして柔軟で、どれだけもがこうと、決して切れることはない―――ついでに、人の身体を骨ごと切り刻むこともできるんだから」 グッとその手に力が込められると、首筋が薄く切れ、赤い血が滲んだ。 しかし雷蔵はと言えば、されるがままになりながら、なお落ち着き払っていた。己の首が危ういというのに、まるで他人事の風情で、女と糸を見比べている。 一向に怯えも焦りもせぬ相手に、女は口詰まり、カッとなった。 「死ぬがいい!」 憤りにまかせ、鋼糸を思い切り引き絞った。手応えとともに、首が落ち、ゴトンと音を立てる。はあはあと息を乱しながら、女は手応えの違和感に気づいた。はっとして瞬けば、 「空蝉の術!? そんな、いつの間に……」 無造作に転がっていたのは二つに切れた薪。 慌てて首を巡らしたところで、強い力で腕を引っ張られ後ろ手に関節を極められた。 「痛っ!」 「やれやれ、これでようやく落ち着いて話ができる」 背後からした声に、女は目を大きく開く。直前まで何も感じなかった。それはつまり実力の差を表している。 「普段だったらこんな回りくどいことしないんだけど、まあ朧殿の手前もあるしね。さて君はどこのどちら様? 何で俺……じゃなかった私を狙うのかな」 緊張感なく言い直して問いかける雷蔵に、女は顔を憤りに染めながら歯ぎしりをする。 「答えてくれないと、これ以上温情はかけられないよ。君は私を殺そうとしたわけだし、そもそも此処への立ち入りは禁じられているはず。本来なら即座に斬捨御免となるところだ」 この言葉に、拘束している身体が抵抗を止め、ふるふると小刻みに震え始めた。観念したのかと俯いた顔を軽く覗いたところで、紅を塗った唇が動くのを見た。 「この……泥棒猫が!!」 鼓膜を劈いた怒号に、雷蔵は面喰ってポカンとする。 その一声を皮切りに箍が外れた女は次々と罵倒を浴びせる。 「どこの馬の骨とも分からぬ女狐めが、夫ばかりか息子まで誑かして!」 思いもよらぬどころか聞き慣れぬ言葉の羅列に、雷蔵は脳の理解が追い付かない。ひとまず狐には馬の骨はないだろうな、と思う。 「ええっと?」 とりあえず何が起きているのか事態を整理しようと試みていると、 「母上!!」 今度は別のところから別の叫びが上がった。 聞き覚えのある声音に雷蔵が目を向ければ、顔面蒼白の千之助が物凄い勢いで飛んで来た。 「千之助!」 もがく感触に、雷蔵も捕えていた手を離した。解放された女は真っ直ぐに千之助に駆け寄る。その様子をぽやんと見つめながら、雷蔵はようやく合点がいった。 「母上」。 ということはつまり。 「は、母上、一体此処で何をなされているのですっ」 「千之助……」 「此処は禁足区だと父上が申されましたでしょう! 母上とて例外は許されませぬ。それにその恰好、よもやお客人に無礼を」 「千之助、あなた、母を責めるの……?」 衣を掴み、怒り気味で問い詰める息子の姿に、女が声を震わせた。その目が潤んでいることに千之助も気づいたか、ぎくっとして口を噤む。 「母はただ……最近あの人は忙しくて寂しい思いをしているのに、何だか余所余所しいしと思ったら妾を連れて帰ったとかいうし、千之助までお世話をするとかで入り浸ってるし、昨日なんて夜帰って来なかったし」 支離滅裂に言い放ってわっと顔を覆ってしまった女に、千之助は一転しておろおろと無意味に両手を動かす。おいおい慟哭する母に戸惑いながら、眉をハの字にして申し訳なさそうに雷蔵を窺う少年は、相当憐れな様子だった。 雷蔵は大きく溜息をついた。この歳まで数多くの修羅場を経験し、その都度掻い潜って来たが、こんな修羅場は初めてである。むしろ経験などしたくなかった。大体それは勘弁願うと言っただろうあの朴念仁、と心中に浮かべた男へ盛大に毒づいた。 「ええっと、雲居さん?」 「気安く呼ばないで!」 キッと涙と鼻水に濡れた顔に睨みつけられる。雷蔵は頭を掻いた。そして蹲って泣き伏す雲居の側に膝をつき、優しく言った。 「勘違いしているようなので言っておくけど、私とご主人は何でもないんだよ」 気味の悪い科白だ、と心裡で渋面になる。 千之助がえっと物言いたげな顔をしたが、唇に人差し指を当ててみせ、その発言を封じる。 「嘘よ、そんな言い訳」 「嘘じゃないよ。これはね、周りの目を欺くための茶番なんだ」 雲居は訳が分かっていない表情で、きょとんと雷蔵を見上げてきた。 「いささか複雑な事情があってね。棟梁殿の任務に関わることだから詳しくは他言はできないけど、私は彼の計らいで一時的に此処に厄介になっているだけなんだ。とりあえず目晦ましのために表向きそういうことにしているだけで、実際には何もないし、私もすぐに出て行く身だから」 「ほ…・・本当? それは本当なのね? 嘘じゃないのね?」 「本当本当」 雷蔵は相手を安心させるよう、屈託なく笑ってみせた。まあ大筋では嘘ではない。肝心なことを言っていないだけだ。 「棟梁殿は義にとても厚い方だからね」 仕事以外では野暮天の唐変木だけどね、とは心の中だけで付け加えておく。 「こうして世話になってるけど、不義なことは一切ないから安心して欲しい」 「そうなのよ、あの人はとても優しいんだもの」 ほろほろと涙しながら、雲居は胸の前で両手を組みうんうん頷いている。瞳は夢見る乙女そのものだ。 「ただ、仕事上の秘密で、本当はこれは口外しちゃいけないことなわけ。だから黙っててね」 これも棟梁殿の任務の一環だから、彼を思うなら他言無用だよ、とつぼを抑えつつ念を押せば、雲居はあっさり納得して何度も頷いた。 「ええ、ええ。決して言わないわ。よかったわ。信じてたわ私」 「うん、そうだね」 信じてたけど殺しかけてたんだね、とはこれも心の声。 千之助だけは釈然としない面持ちながら、雷蔵の判断が恐らく最も事を荒立てずに収めるものだと理解してか、何も言わずに母へ笑いかけた。 「そういうことだから母上、人目に触れぬうちに屋敷に帰りましょう」 「そうね。千之助も父上のお仕事をお手伝いしていたのね」 「たとえ身内でも、任務については他言無用でございますから」 「そうね。ああ、全く私ったら、早とちりをして恥ずかしい……」 紅くなった頬を抑え、雲居はそっと瞼を伏せる。 「貴方にも迷惑をかけてしまってごめんなさいね」 「いえいえ、全然気にしてませんから」 雷蔵はにっこりして手を振った。 千之助は何度も振り返って頭を下げながら、母親に寄り添うようにして屋敷を後にした。 仲のよさそうな親子の姿を見て、恐らく夫婦間も仲睦まじいものなのだろうと思う。あの茫洋とした男がどう睦まじくしているかは想像できないが、あの男なりに思いやっているはずだ。あるいは恐妻家なのかもしれないが。雲居もきっと、過激な反面、普段はきっとたおやかで、可愛らしい女性なのだろう。しかしその線の細さ、神経の細やかさは、どこか危うさを感じさせた。 所帯を持つというのもなかなか大変だな、と同情する反面、雷蔵は己が身に降りかかった災難を思い返して嘆息を禁じ得なかった。 |