翌日、日が高まってから春季は出かけた。 戻って来たのは昼過ぎだ。真っすぐ西の間に向かった彼を迎えたのは、いつも通り琵琶を抱える空蝉だった。 急いで戻って来たためかやや頬を上気させる春季を見上げ、「いかがでしたか」と問いかける。もう分かり切っているだろうにあえて質問してくる相手に対し、春季は苦笑して、一部始終を事細かに語って聞かせた。 雷蔵が彼に授けた秘策は、酒の送り主である葛城尚匡に再び会い、酒の席を設け、その場で実際に貰った酒を振る舞うことだった。当然中身は正常な酒に入れ替えてであるが。 「このようなところでですか」 昨日の今日での呼び出しに、葛城はいささか困惑気であった。こんな日の高いうちからであるし、おまけに場所が出会い茶屋の二階であったものだから当然の反応ともいえる。 春季はいたっていたってにこやかに 「いえ、昨夜屋敷に戻ってからまた色々考えましてね」 と誤魔化しつつ、 「そうだ、折角ですから酒でもどうですか」 昼間ではからと葛城は断ったが、春季はあくまで笑みを絶やさぬまま「昨日の礼ですから」と有無を言わせぬ強さで押し切り、用意させた。 最初こそ渋っていた葛城だが、一口飲んでから驚いて目を瞬き、「これは美味い」と感嘆した。当然である、何せかなりの高級な酒を用意したのだから。 しきりに舌鼓を打つ葛城へ、春季はさらっと告げた。 「いや全くですな。実はこれは昨日葛城殿から頂いた酒なのですよ」 「え?」 杯を手に、葛城が一瞬きょとんとした。春季は不自然にならぬよう、その様子を慎重に見つめていた。 「それは……」 葛城は言葉を切り、数拍したのち鷹揚に破顔した。 「然様でしたか。いや、まさかこれほどとは」 「あれはどう見ても毒のことなんかこれっぽっちも知らなそうだったよ」 と春季は言う。もしも毒を仕込んだのが葛城であれば、春季が酒の正体を明かした時点で何かしら反応があったはずである。しかし葛城は酒の味を褒めるばかりで、動揺など微塵も見せなかった。 「やはり葛城は白だね」 「はっきりして宜しゅうございましたね」 雷蔵は相変わらず見た目だけはたおやかな微笑を浮かべ答えた。まあね、と春季もはにかんだ風に鼻を掻く。 「けれど……」 僅かに言葉を濁らせた。その眉間も曇っている。 葛城はあのあとこうとも言ったのだ。 「いやはや、しかしこれほど美味い酒だったとはなぁ。全く平野殿も人が悪い」 「平野殿?」 ああ、と葛城は口走ったことに気づいて一瞬ハッとしたが、次の瞬間には苦笑した。 「実はこの酒は平野殿からお預かりしたものだったのですよ。ぜひ仙台殿へ、と」 春季は零れんばかりに瞠った。脳裏に厳格な面立ちの初老の男が過ぎる。 「平野殿が私に?」 妙に粘つく唾液をごくりと飲みながら、春季は訊き返した。そのおかしな様子に気づかぬ葛城はにこにこと答える。 「ええ、普段から中心となって身を粉にし、計画に心血を注いでいる仙台殿をお労りしたいと仰られて」 「何故黙っておられたのですか」 「平野殿に『恩着せがましくなりたくない』と口止めされまして。何分ほら、平野殿は几帳面な方ですから」 その後の葛城の話は、春季はほとんど聞いていなかった。 「その平野というのは?」 「平野謙次。奉行衆の蔵方で、先祖代々楠木に仕える重臣だよ」 そしてまた、春季の計画に初期から積極的に賛同と支持を表した同胞でもあった。地へ落とした春季の目元に陰が差す。 「葛城の場合と同じ論理でいって、平野殿もまた犯人ではないということにはならないんだろうか」 微かな希望を籠めた台詞は、横に振られた雷蔵の頭によって無情にも否定された。 「首謀者か実行者か不明ではあれど、毒入りであったことを知らなかった可能性は低い。間接的に毒殺するのなら、それほど間に人は介せません。失敗の危険が高くなりますから」 「けれど、もしも俺が毒酒を飲んだとして、陥れられた葛城はきっと平野殿を疑うはずだろう?」 「訴えられたとしても、その平野という御仁の身分を考えれば『苦し紛れの戯言を』と一笑に附して終わりです。あるいはいざとなれば貴方がたの計画を暴露してもいい」 また逆に春季が毒に気づいて葛城に詰め寄り、葛城が平野から渡されたのだと白状したところで、疑心暗鬼になった間柄ではどこまで信じられたものか分からない。 「けれど信じられない。何故平野殿が……あんなに正義感に強く、誰よりもハルちゃんを領主にと望んでいた人なのに」 春季は柳眉をきつく寄せ、苦しげに吐き出す。雷蔵はただ黙するのみだ。 人の心は表から見える部分だけでは分からぬもの。平野が一体どのようなつもりで毒を送りつけたのか、真実は彼のみぞ知ることだ。 だが、表向きからでも判断できることはある。 「物事は一方面からでは語れません」 静謐さを湛えた雷蔵の声音に、春季はふと顔を上げた。途方に暮れたような、随分と情けない表情を浮かべている。 「狙われたのは間違いなく貴方です。けれどもし計画そのものに反対しているのだとすれば、恐らく源様も狙われたはず。ところが実際はどうでしたか?」 そこで春季がさっと頬を強張らせる。実際はどうだったか。葛城は言わなかったか? 『源殿にはどうぞ御内密に』 その時春季は大して疑問には思わなかった。ただ謀反人の関連性を漏らさぬようにするためだけだと。だがもしもそれが、葛城自身、平野から念を入れて釘をさされていたことだとすれば? 「もしかして……狙われているのは俺だけってこと?」 「あくまで可能性の問題ですが」 確実ではないと言われても、春季にはむしろそちらこそ真であるような気がしてきた。考えれば考えるほど奇妙にしっくりくる。 「でも、なんで俺だけ?」 動揺を隠せぬ春季を、雷蔵は双眸を眇めて見る。それからふと視線を外し、嫋と弦を振わせた。その音に、思考の坩堝にはまりかけた春季は我に返る。 「知る術はなくもありません」 自分に向けられる双眸に希望の光が差すのを、空気で察しながら、雷蔵は撥を止めた。 「望むならば、協力してさしあげなくもありませんが」 春季はじっと注視したまま、訝しげな色を浮かべる。 「どうしてなんだい? 君がそこまでするのは―――」 「貴方のためではありませんよ」 雷蔵は謎めいた微笑を浮かべた。春季が傷ついた顔をしたがお構いなしだ。 「いい加減厭き厭きしているんです、これ以上面倒事に巻き込まれるのは」 すべては因果だ。別々のものと思われた点は、線につなぐと実は一本に集約される。自分はそこにたまたま紛れ込み、絡めとられたに過ぎない。 弦をビンと弾く。空気が震え、余韻が宙空に溶けた。 「すべてを根本から解決してさしあげましょう。その代わり、条件があります」 「条件」 ぼんやりと春季がその単語を舌の上で転がす。 「御前様に会わせて下さい」 「え?」 「下剋上を起こそうが暗殺しようがどうぞご自由に。ただし、その前にまず私と―――爺様が、御前様にお見えする席を設けて下さい」 雷蔵は突っ立ったままの男を、首を伸ばして真っすぐ見上げた。 「それさえ叶うならば、すべては収まるところに収まるでしょう」 歌うような予言めいた科白に、春季はそれは一体どういうことなのかと問いかけたかった。茫洋と、まだ年端のいかぬ少女の姿を見下ろしている。結局、口にしたのは別のことがらだった。 「……分かったよ、何とかしてみる」 殿上はできぬ春季だが、反乱計画のために作り上げた人脈を使えば、無理できなくはない。 よろしくお願いします、とそれで会話は終わりとばかりに、雷蔵はもう春季を顧みず、いつものように龍弦琵琶を奏で始めた。 風が揺らすその髪や衣や楽の音を、春季はやはり朴訥と佇んだまま見つめていた。 |