灯りもつけずに、服も替えずに春季は畳の上に片胡坐をかいていた。目の前にはあの白瓶子がある。開け放たれた障子から入る月の光に、磁肌が青白く滑らかに煌めいていた。 もう一刻ほどこうしている。まさかという思いと、何故という疑問が脳裏をぐるぐると巡っていた。立てた膝に額を埋め、疲れたようにはぁと溜息を吐く。一体なんだっていうんだ、と誰へともなく悪態づいた。 「いつまでそうしているおつもりで」 にわかに後ろからした声に、春季は文字通り飛び上がった。冗談抜きにそのまま心臓も飛び出すのではないかと思った。 大きな叫びを上げて腰やら足やらを浮かし身を反転させる。 一体何時の間に入って来たのか、背後の離れた部屋の隅に端坐していたのは雷蔵であった。月明かりの下浮かび上がる姿の中で、双眸だけが不思議な光を宿して春季を見ている。 「な、な……」 何か言おうとするが、言葉にならない。息を荒くしながら抑えた胸はどきどきと激しく動悸していた。普通ならここで「夜這いかい」と冗談の一つでも飛ばすところだが、今は生憎そんな余裕はなく、またそんな雰囲気でもなかった。 「ううう空蝉? 何だい、全く脅かさないでくれよ……」 ようやく思考に血が巡り始めたか、春季は詰めた息を肺から出す。そのままへなへなと脱力して後ろ手をついた。 「あのさ、お願いだから普通に入ってきてくれない?」 「普通に入って来ましたよ」 そう言っておよそ娘らしからぬ(娘ではないからしようがないが)仕草で親指を入口の襖に向ける。 「……そういうことじゃなくて」 雷蔵は「何か問題でも?」とばかりに小首を傾げてみせる。春季は諦めたようにがっくり項垂れた。調子が狂う。 「いつからいたのさ」 「少し前から」 別に気配は消していない。果たしてどれくらいで気づくものかと待ってみていたが、一向に気づきそうもなかったので声をかけたのだ。 「私が刺客なら死んでいましたね」 皮肉というには嫌味がなく、警告というには淡白すぎる声音だった。 これではいつでも背後を獲られると暗に含んだ言い方に、春季は渋い表情をした。 珍しく軽口の一つも叩かず元のように座り直す。 「……折角なのに悪いけど、考えたいことがあるから今は一人にしてくれるかな」 語調は丁寧だったが、背には明らかに拒絶があった。 しかし雷蔵は気にした風もなく、静かに言う。 「どれだけお見合いしたところで、そこに真相は書かれていませんよ」 麻模様の袖を翻し、ガバッと振り向く。淡々と凪いだ、奥の見えぬ瞳を睨む。 「君は、何を知っているんだ?」 「何も」 雷蔵は面をわずかに伏せた。 「ただ、状況からまず考えられることを思うだけです」 「考えられること?」 「狙われたのは誰なのか。一体何故狙われなければならなかったのか。そして下手人は誰なのか」 すっと瞼が上がる。 春季は息を呑みこみ、そして目を逸らす。心当たりのある仕草だった。 「……君には関係ないことだよ」 「残念ながらそうとも言えない状況になりました」 顔はそむけたまま、怪訝そうに横眼だけで見やる。 「そもそもあなたが命を狙われたのはこれが初めてではない。そして奇しくも私はその現場に二度居合わせている」 「もしかして心配してくれてるの? 何だ意外だな、空蝉がそんなに俺のこと気にかけてくれてるなんてさ」 可笑しそうに笑みを含ませる男は、どこかわざと軽い調子を装っているようだった。 「そういえば今は琵琶は持ってないんだね。てっきり慰めに来てくれたのかと思ったのに」 それともこんな時刻に訪うということは、別の意味合いがあるのかな――― わざと話を逸らそうとしているのか、艶を帯びる春季の言い方に対し、応じる声音はあくまで平淡であった。 「今回は必要ありません。なくとも聞きたいことは聞けそうですから」 春季の眉根が怪訝そうに顰められるのを目にしながら、どうでもよさ気に雷蔵は瞬き、首を傾けた。 「今の口ぶりだと、自分の命を狙われることに疑問はないようですね」 「―――藪蛇だったかな。それとも誘導した?」 闇の中仄かに浮かび上がる春季はどこか投げやりに、自嘲気味な笑みを唇に刷いた。 「気づいているんだろう。そうだよ。すべては俺が御前様に叛意を抱いているからさ」 「源様を領主に祭り上げるためですか」 「その方がこの地のためだからね」 それより、と春季は畳を這うようにして身をにじり寄せた。 「君のことが聞きたいな」 傍らの床に手をつき、息の触れそうな間近から囁く。 しかし二つ眼に宿るのは醒めた光りだ。 「一体本当に何者なんだい?」 「見たままですよ」 全く微動だにしない雷蔵に春季は僅かに顔を引き、鼻白む。 「忍びが薬に詳しく毒に耐性があっては変ですか?」 「いや、まあ」 微笑みながら言えば、気まずそうに、しかしなおも探る風に上目遣いで見やってくる。 「その私の経験から、一つご忠告しましょう」 目の前で眉が顰められるのを冷静に見据えながら、雷蔵は告げた。 「毒を送って暗殺を目論む場合、送り主は分からぬよう細工するのが常道です」 春季は目を見張った。 「何らかの事故で暗殺対象が口にする前に明るみになった際、疑いが己の身に及ぶのを避けるためです。もっとも、そこまで智恵の回らぬ者というのなら話は別ですが」 雷蔵の言葉に、春季は何も言わず、ただ愕然とした面持ちで、ゆっくりと身を離した。 背後に置かれたままの瓶子を振り返った。 春季には葛城尚匡が自分を殺そうとするとはどうしても信じられなかった。目付役を仰せ付かっているあの男はそこまで頭の悪くはない。 「あるいはこう考えましょう。もしも送り手がはっきりしている場合、まず間違いなく最初に疑いの目が行くのはその者です。暗殺が成功していればすぐさま召し取られ尋問にかけられるでしょう。また、もし暗殺に失敗すれば、殺されかけた方としてはその後心穏やかではいられません。特にそれが懇意としていた相手ともなれば」 「……仲間ごと消すか、仲間割れを誘える」 ぼんやり引き継いだ春季に雷蔵はうなずいた。 「どちらに転んでも真の凶手にしてみれば万々歳。さて、得をするのは一体誰でしょうか」 「けれど、わざと自分に疑いが行くように装っているってことは」 「これは知人の受け売りですが」と前置きし、雷蔵は言葉を紡ぐ。 「真に策を弄する者はわざわざ自らそのような面倒を選びません。一歩間違えば自滅に至るような賭けは」 僅かに首を障子の向こうへ向けた。気のせいか、月光が先程より増したかのようだった。冬の冷たい風が吹き込む。 考え込む風に色の深まった瞳を、ふと春季に戻した。 「そうですね、もしも気になるというのであれば、確かめる方法が一つあります」 |