18.夕ぼらけにあらわれわたる水下の思惑 「私の父は、正確には医学者じゃない。忍び……それも、里を脱走した抜け忍だった」 訥々と、なびきは語り始めた。 音もなく、辺りに薄暗い紗が重なりゆく中で、美吉と雷蔵は各々耳を傾けている。 「まぁ忍びである傍ら、医術も研究していたんだけどね。脱走はいつの頃だったのか。私は小さかったから、よく覚えてない。でも、父が抜けようとした切っ掛けは多分、母の死だったんだと思う―――母は、自分が殺したと言っていたから」 遠くを見つめるように、なびきは顔を上げ目を眇めた。 「きっと、私に同じ道を―――同じ枷を背負わせたくなかったんだね。だから私を連れて逃げた。父は忍びには向いていなかった……命を救う研究をしていたからかもしれない。逃げて逃げて、ようやくここへ流れ着いた。襄偕和尚は、実は父の友人なんだ。忍びではないけれど、以前命を救ってもらったんだと父は言っていた。何かあっても自分で身を守れるように、私は父から忍びの技を教えてもらっていたの」 ふと、俯く。 「本当に、父は忍びにあるまじく情に深くてね。道すがら、孤児を拾ってしまったり……襄偕和尚の計らいで、死んだ僧の籍を上手い具合にこっそり貰って、私たちは身を隠した。そんな時にあいつらが来たんだ」 なびきの声色が、憎々しげに響いた。あいつらとは、あの四ツ輪衆のことだろう。 「父はすぐに彼らの正体に気づいたよ。きっと貴方達と同様、四ツ輪衆のことを知っていたんだね。町の人々が妄信的に夢中になりはじめると、いよいよ危ぶみはじめた。父はとことんお人好しだったから、私たちを受け入れてくれた町の人々を放っておけなかったの。和尚さまや私が止めるのを聞かず、忍び入って調べた。そして」 雷蔵と美吉の視線が注がれる。低く声を潜めたなびきの双眸に、鋭く光るものがあった。 「知ったんだ―――年寄屋敷に〈寺院〉を立てて活動する四ツ輪衆。あいつらは、年寄横溝に取り入ったの。横溝は主の大江氏への反目を狙っている。下克上を起こし、己が松川城主にならんとする野心があった。四ツ輪衆はその後ろ盾を願い出た。いわく、『神託により』ってね。横溝は四ツ輪衆の教えにのめり込んだわ。己に都合のいいことを嘯く彼らに……」 奥歯を噛み締め、ゆっくりと頭を振る。 込み上げてくるものを堪えるように、なびきはひとつ、ほうっと吐息を零した。 「まえ訊かれた時に『知らない』と答えたのは嘘。本当はすべて知っていた。父は消える寸前、和尚様にすべてを記した文を残していてね。私も和尚様もこのことを秘密にすることに決めた。だから慶太達は事実何も知らない。すべて私の独断だよ」 声音が落ちる。なびきは瞑目し、悔しげに、苦しげに顔を歪めた。 「行尊たちから父が奪ったものまでは本当に知らないけど、弟達を人質に取られて、命じられるがままになっていた。逃げようと何度も思った。でも忍びの掟は厳しい。娘とは言っても、抜け忍を父に持つ私が見逃されるはずがない。私一人の力では、二人を守りながら逃亡生活を送ることはできない……できれば、あのままあそこで平穏に暮らしたかったの」 ごめんなさい、と消え入るようになびきは言った。謝って済むことではないという自覚はある。もとより許してもらえるとは思っていないし、覚悟もしていた。でも言わずにはいれない。 しかし、選択に迫られてその道を取ったことに、雷蔵達に対して申し訳ないという気持ちはあっても、それを悔いることだけは、なびきはできなかった。 だが雷蔵も美吉も、別段何を言うでもなければ怒るでもなく、むしろそのことに関しては特に意に介さなかった。二人にはなびきの取った行動にとやかく言う権利も資格もなければ、その気も無い。縁もゆかりもない赤の他人の自分達よりも、己や家族こそを優先し守りたいと思うのは、人として当然だ。問題は、他人の死の上に築かれた己達の生をどう捉え、その現実をどう背負っていくかだけで。 よほどの聖人か勇者でもない限り、異なる道を採ろうとは思えまい。それをすべての人間に要求するのは酷というものだ。 そういう意味でなびきの選択は、決して褒められたことでも良かったともいえないが、責めるところではない。なびきの性格を見る限り、彼女が全く葛藤しなかったはずはないのだから。 忍びの世界は世の闇に潜む。渡世、人の心の裏や汚い部分を見続けてきた彼らには最早「まあそんなものだ」程度のことだし、裏切られただなんだと喚き立てるほど今更無知でも感情的でもない。 そんなことよりも、いま優先して考えなければならない問題はむしろ――― 「四ツ輪衆の狙いは自分達の宗派の再興だな」 ふと呟かれた美吉の言葉に、なびきは躊躇いがちに、しかししっかりと頷いた。 「横溝の後ろで謀反のための金や人間の援助を行う。代わりに謀反が成功した暁には、自分達の活動を保証しろと―――大方そういた利害一致の約定でも交わしているんだろう」 「その通りだよ」 なびきの話だと、あの坑道の内側で秘密裏に行なわれていたのは、やはり鉱石の採取と武器の製造。どうやらそれは刀槍に留まらず、 ともかく、隠し鉱山の存在と、無断の武器製造の事実は、横溝の反逆心の動かぬ証拠となる。 禁教四ツ輪衆の活動、その後ろにいる松川城年寄の横溝、そして横溝が陰で着々と進めている不穏な動きを、万が一にも外に知られてはならない。外から来る者たちを片っ端から捕らえていたのは、そういう理由から。 微かに嗅いだ不穏な香り。きな臭い戦火の気配は、謀反の香りか。 あーあ、えげつねぇ話なことだな―――と美吉はぼやき、髪を掻き上げる。だが、考え込むように押し黙ったままの雷蔵に横目で気づき、怪訝そうに片眼を眇めた。 「どうした?」 「いや……」 しばらく言葉を切り、それからゆっくりと、雷蔵は言った。 「いくら神託だと言っても、正体も怪しい謎の集団の言う事など、年寄殿がそうそう簡単に受け入れたものかな」 「まあ、通常の感覚の持ち主なら笑い飛すか一蹴するかのどっちかだろうけど」 「特にこんな手を込んだことをして謀反計画を行なっている人間だ。頭がいいとは思わないけど、判断力が鈍いとも思えない。何か、横溝にそれを信じ込ませられるような手札を、彼らは持っていた」 慎重に呟く雷蔵に、美吉はますます訝りの色を濃くした。 「手札? 何だそれ」 「さぁ、それは分からない。ただこれは勘だけど、多分それはきっと町の人々をもあそこまで盲信させえたものと通じるんじゃないかな」 言いながらなびきを見やる。その視線に、なびきはハッと首を向けた。 「もしかして、〈御酒〉―――?」 「関係はあるんじゃないかと思うけど」 ああそうか、と美吉は腕を組んだまま思考をめぐらすように天を仰ぐ。 「つーことは何か? その〈御酒〉とやらは似非とかパチモンとかじゃなく、ホンモノっつーことか?」 「でも〈永遠の命〉を授ける力なんて……」 なびきは胡乱気に眉を顰める。なびきは町人達と違って、一所から離れて世間を見てきている。広い外界を知っている。そのような都合の良いもの、本当に存在するとはどうしたって信じがたい。怪しすぎるのもいいところだ。 だが美吉は、「どうだろうな」とポツリと漏らした。なびきが意外そうに目を瞠って、見つめる。 「実際絶対無いとは言い切れない。俺たちもこの世の理のすべてを解しているわけじゃないしな。それこそ仙人の術ならばそういうのも可能なのかもしれんし、或いは何らかの神通力が働いてるっていうのかもしれない。見てみないことにゃ何とも言えないが、世の中には俺たちの予想もつかない事象なんて数え切れんくらいある」 その台詞には、何かそう思わせるような重みがあった。雷蔵もあとに続く。 「まあ、そんな大それたものとは思えないけど、確かに何らかの力を宿している可能性は高いね。ある意味でそれこそが四ツ輪衆の源であり要でもある。でなければ―――」 “あんなもの”なんかに手を出そうとするはずがないと、心中で呟きながら瞳を細めた。 なびきの父が持ち出したものはどうやら彼らにとってひどく大切なものであったらしい。何が何でも取り戻さなければならぬような。〈御酒〉と関係があるものなのか。 そこで、ふと何かが引っかかった。今のは何だろう、と雷蔵は胸の奥で首を傾げる。奇妙な違和感。 ゆっくりとその姿を追い求めると、ひとつの疑問が浮上してきた。 雷蔵はなびきを見て、おもむろに尋ねた。 「君がさっき俺を殺そうとしたのは、行尊の命令―――ということだよね」 はっとして、なびきは躊躇いがちに俯き、小さく頷いた。肩を縮ませるようにして申し訳なさそうにしているのは、心の内に未だに後ろめたい気持ちが消えず残っているからか。実際それだけではないのだが、雷蔵はそこに隠されたなびきの気持ちにまでは気づかない。 今更責めるつもりはない。そうではなく、確認するように雷蔵は言った。 「それはいつ命じられた? 俺が来たときには殺すというより捕らえるって感じだったと思うけど」 「はじめからじゃないよ。私はただ貴方を誘い込むように言われただけ。さゆらに感冒草を飲ませて、私がどうにしかして貴方を寺に連れてくる予定だったの。貴方は医者の真似事もするからって……。その口実を考えていた時に、私より先に慶太が貴方を連れてきた時はさすがに驚いたけど、慶太がスリを仕掛けたのは全くの偶然だよ。それで行尊が来て、捕われた。計画ではここで私の役目は終了のはずだった。でも、いきなりあそこに連れて行かれて、行尊に言われたの。貴方達をわざと牢から逃がし、頃合を見て殺せって」 わざわざ逃がすのは恐らく油断させるため。雷蔵が正攻法では殺すのが難しいと踏んだからだろう。しかし。 「『達』―――それって、俺だけじゃなく美吉もってことだよね」 「うん。行尊は確かに二人と言った」 なびきの話に、雷蔵は考え込むように顎に手を当てた。 「妙だね……」 「ああ、確かにな」 美吉も低く同意を示す。「何が?」と怪訝そうになびきが目を瞬いた。 雷蔵は顔を向ける。 「美吉の命を狙う理由が分からない」 「それは……元忍びだし、計画を邪魔するかもしれないから?」 「俺に関してはそうだろうけど、美吉が忍びの者だってことまでは知られていなかった」 「仲間だからじゃないの?」 「俺たちが旧知だってことも知らなかったはずだよ。影梟衆ですらね。なのに何故美吉までが暗殺対象となっていたのか」 「“あれ”を持っていたのが俺だから、か」 「でも“あれ”の所有者が別にいることは世に知られていない。むしろ中途半端に片方だけ存在を知っている影梟衆がいたのなら、余計に俺の方だけに目がいくはずだ。それは俺が来るまでは、君の牢に呪がかかっていなかったことからも裏付けられる。君には君で、別に彼らに狙われる理由があった―――そう考えるべきじゃない?」 「俺に?」 美吉は信じられん、とばかりに声を上げる。グイッと眉根を寄せ、思案する。 「思い当たる節がないんだが」 「君が四ツ輪衆に接触したのは一回だけだ」 「……あの時か?」 地蔵の立つ道端で、走り来た僧と激しくぶつかったのを美吉は回想する。それからハッと目を見開いた。 「風呂敷?」 「それだ」 美吉はそっぽを向いて頭を抱え、雷蔵へ掌を向けて制止しを示した。 「ちょっとまて訳分かんなくなってきた。待てよ、整理するから。つまり俺が四ツ輪衆の僧にぶつかって、荷物を取り替えちまって、それで狙われている……狙われるほど大切なものが入っていたってことだよな。でも風呂敷の中にあったのは着替えと食料と、厳重に包まれていたあの盃だけだぞ」 そこで美吉は自分の言葉に引っかかる。―――厳重? 狙われるほど大切なもの…… 「何故そんなにも厳重だったのか。それは、そのものこそが彼らが強く欲しているものだったからじゃないか?」 「欲しているもの……」 なびきが呆然と呟く。今、物凄い速さで、謎という名の薄幕が捲られていっている。その幕に映るぼんやりとした影が、徐々に濃く、はっきりと見えてくる。 雷蔵は強く視線を向けたまま、言った。 「もしも、その盃こそが彼等の探していたものだとしたら?」 美吉の脳裏に、ひどく急いた様子の僧の姿が思いだされる。何故にも彼はあんなに急いでいたのか。 「俺が奴らの“要”を握っている……ってことか?」 唖然と、美吉は呟いた。まさか。 あの盃こそが、なびきの父が持ち去ったもの。美吉は図らずも、それを掌中にしていたのだ。 だが雷蔵の表情は緩まない。 「話はそれだけじゃないと思う。美吉が知らず、彼らの手札を握っていた。在り処を知っているのは君だけ、ということになる。なのに、殺そうとしている。盃の所在が分からなくなってもいい、ということだ」 「在り処を知る必要が無くなったってこと?」 なびきが恐る恐る訊く。 「半分は当たっていると思う。知る必要がなくなったというよりは、むしろその盃そのものが必要がなくなった―――ということじゃないかな」 「盃が要らなくなった―――なくても困らない状況になった……代わりになるものが手に入った?」 「多分」 「もしかしてそれって……」 「ああ」 あることに思い至った美吉の問いかけに、雷蔵は確信を持った表情で頷いた。 そう、代わりとなるもの―――それは、美吉の〈秘伝〉だと。 |