17.懐中に潜む虫 部屋を出る前、行尊はふと教祖に呼び止められた。 早人は既に視線を〈御尊〉に戻しており、背を向けたまま行尊に問う。 「あの娘のことはどうなっている?」 行尊は一呼吸置いた後、酷薄な微笑をその唇の端に刷いた。 「ご安心を。御真主様の御心中を煩わせるものは何もございません」 一言ずつ、ゆっくりと区切るように行尊は確信を持った声音で言った。 「彼奴等はまだ、己の犯した過ちに気づいておりませぬ」 なびきは、じっと手元を見つめていた。 辺りは今、ようやく日落ち夕暮れといったところだろうか。明るかった山中も、徐々に視界が暗く狭くなっていっている。 なびきは木の根元に尻をつき、膝を抱え込むようにして座っていた。ふと、視界の端を窺う。少し離れたところで横になって眠っている墨染めの背が見えた。 束ねた茶髪の持ち主は、寝息もなく静かに寝入っていた。 結局、話し合った結果再度の侵入決行は日が落ちるのを待ってからになった。 なびきは不服を訴えたが、忍び入るのは夜、夜陰に紛れるのが基本だという元専門家二人の言葉に渋々口を噤むしかなかった。そうして人が眠気を催し集中力が散漫になる丑の刻以降を狙って、山中に身を潜めることとなったわけである。 侵入に備え、時の来るまで雷蔵と美吉は交代で仮眠をとることにした。いくら鍛えているとはいえども、人間である。睡眠を全くとらずに元気万全に動き回れるわけではない。最低限の体力付けは必要だ。なびきはともかく、雷蔵と美吉は主戦力となる。できる時にできるだけ力を温存し補充しておくべきだった。 そして先に仮眠を取った美吉と入れ替わりに、雷蔵は今眠りに入っている。 寝るといっても、そのあたりに適当にごろ寝。 背を向ける雷蔵になびきははじめ落ち着かぬ顔をしたが、すっかり目を覚ました(寝汚くなおも睡眠を貪ろうとしたところ雷蔵に強かに蹴り起こされた)美吉は、欠伸をしながら軽い調子で言った。 「ほっとけほっとけ。俺たちみたいなのは場所とか格好とか気にしないから。とりあえず寝れりゃいいんだよ。慣れてるし」 そう言うなり、どこぞへと消えた。 「ちょっくら敵さんの様子見てくるわ」と言い残し、なびきと雷蔵をそこに置いて行ってしまったきり、帰ってくる気配がない。まさか逃げたとは思わないが、二人きりで残されて半刻も立つ。 帰ってこないのか、となびきは心中で呟いた。 気配さえもないかのように静寂を保つ背を見る目が、ふとある感情を宿して細まり、揺らいだ。両膝に顔を埋めるようにして、もう一度己の両掌を広げ、見る。 ゆっくりと閉じ、広げる。何度か繰り返した後、グッと力を込めて握りこんだ。ゆるゆると、腰を浮かせて膝を伸ばす。 辺りは薄青味がかったように暗い。 なびきは、物音を忍ばせそっと近付いた。 眼下には、静かに眠り続ける男の横顔がある。 とても実際年齢には見えぬほど、少年のように見える寝顔。仄暗く、物の輪郭が曖昧になる視界の中でも、はっきりと見取ることができる。それほどまでに自分は彼を見ていたのかと、今更ながらに胸内が疼いた。 なびきの表情に翳りが指す。昏く、深い陰。 昏く沈む瞳が、仄かに、切なげに揺れる。 様々に去来する気持ちを振り切るように、双眸を瞑った。固く掌を握り締める。はぁ―――、と静かに、深く息を吐いた。 垂らした右手を、徐に僅かに後方で振る。一瞬後には、どこから取り出したのかその手には一振りの小刀が握られていた。 それを―――ゆっくり、ゆっくりと頭上高く掲げる。双眸は、じっと相手に注がれている。眉根を寄せ、苦しげな光を宿したまま。 柄を握る手が、震える。 握る力を強めることで、なびきはなんとかそれを押さえ込もうとした。 もう、迷っている暇はないのだ。 早くしなけければ、もう一人の法師が戻ってきてしまうかもしれない。 力む下で、抑えきれずかたかたと震える指。 鋭い鉄の輝きが、青く暗い空の光に照らされ、不気味に反射する。 そこに映る、怯えの滲む自分の顔。 その下には、自分に優しく接してくれた人。柔らかく笑いかけてくれた。 いやだ。いやだ。 瞼を閉じかけ、しかしひとつの決意を以って、寸前で押し上げる。 ―――だが、やらなければ。 緊張に、知らず浅くなる呼吸。唾を飲み込む音が、妙に生々しく、大きく響く。 間合いに、息を詰める。 長い、沈黙の葛藤。そして、 「―――ッ!!」 顔を苦痛に歪ませ、息を詰めて、思いを断ち切るように勢い良く刃を振り下ろした。 風を切る鋭い音が耳を過ぎる。 刹那の後には、手応えが有るはずだった。 だが、予想していたそれは、空を切っていた。 「―――そこまでだな」 振り下ろしたはずの刀を持つ手の首は、己のものではない別の手に掴まれていた。 ギクリッと目を斜め横に仰がせれば、間近に美吉の姿があった。なびきの手首を掴んだまま、彼は感情の読み取り難いいつもの眠たげな目を向けている。 なびきは瞠目する。酷く動揺し、焦り、恐慌に陥った。脳髄から腰まで、冷涼としたものがさぁっと走った。身体が、柄を掴む手が、瘧にかかったように震える。掴まれたところから伝わる体温がまるで他人事のようで、手首から先が自分のものではないような錯覚さえ起こしていた。 「な……なん、で」 引きつりながら呟くなびきの視界の下端で、気配が身動ぐ。 「やっぱりとは思ったけど」 ハッとしてなびきが声がしたの方に視線を落とす。 雷蔵は上体を起こしながら、目を閉じたまま肩を揉みほぐしていた。そして瞼を上げ、つい今己を殺そうとした少女を見る。その瞳には怒りも悲しみもなく、ただ予想通りの出来事に対する事実確認の色だけがあった。 「『やっぱり』って……気づいてたの?」 なびきの呆然とした囁きが、空気を振るわせた。 「殺気は上手く隠していたようだが、まだまだだな。あんたは人を殺すのに躊躇しすぎ」 美吉が応える。 「一体どうして……!」 「勘ってやつか。忍びっていうのは同業者の『匂い』に敏感だからな。訓練された癖までは隠しきれなかったということだ」 何と言うことはない、あっさりとした美吉の台詞に、なびきの全身に戦慄が走った。 美吉は気づいていた。では、雷蔵も気づいていたのか。 いつから。一体、どこでバレたのか。完璧に装っていた筈だった。自分のどこかに、失態があったのだろうか。 愕然とするなびきの顔を見上げながら、雷蔵は普段と寸毫変わらぬ風情で言った。 「はじめは弟君。貧素な様相の割には、手には似合わぬ硬い胼胝があった。独特の肉刺の位置からしても何を使ってどれだけ鍛えたかは大体分かる。到底ただの孤児とは思えなかった」 さらに大きく、なびきは目を見開いた。 雷蔵は首を傾け、淡々とした調子で続けた。 「そして次に妹君。舌に現われていた斑ですぐに気づいたけど、あれはタガネヤスギの作用だ。別名感冒草とも言う。飲むと風邪のような症状を起こす薬の一種だね」 なびきの反応は、それが正しいと如実に答えていた。彼女は最早言葉も無く立ち尽くしている。まさに―――すべてその通りだったから。 「タガネヤスギはちょっと薬草知識がある者なら知っているものだ。でも高山でしか採れない。このあたりに自生してそうな高い山はないから、大方誰かに渡されたものだろうけど、大目に飲ませたね。あれは僅かならばそれこそ風邪と似た症状を起こすだけで何ら支障はないけれど、服用しすぎると死にいたる毒草でもある」 雷蔵の言葉に、なびきの表情がサッと変わった。 美吉の手を振りほどくほどの勢いで、叫ぶ。 「そんなはずは……! 行尊に言われたとおりの量で飲ませたはずなのに、致死量だったなんて!」 「恐らく故意にだろうね」 冷静に雷蔵は言う。行尊がなびきやその義弟妹の存在を煩わしく思い、口封じついでにひとり殺そうとしたところで不思議ではない。どうせ彼らにしてみれば役割さえ果たしてもらえば用済みなのだから。 そのことに思い至り、なびきの表情から血の気が失せる。 「そんな―――さゆらっ!」 空気を裂くように叫び、なびきは踵を返そうとしてもがいた。その先を美吉が更に阻む。 「おっと、待てよ。話は済んでない」 「放してよ!」 じたばたと暴れるなびきの後ろから、雷蔵の静かな声音が掛かる。 「安心していい。弟君に風邪薬と言って渡したのは中和薬だよ。解毒薬なら一発だけど、少々強すぎてあの歳の子にはむしろ毒だからね。今頃効いて熱も引いている頃じゃないかな」 ピタリと、なびきの動きが止まった。 「え……?」 力なく、緩々と振り返る。 「確かに普通の風邪と感冒草の効果を見分けるのは、通常の薬師には至難の技だけど―――行尊の失敗の一つは、俺が薬草に“非常に”精通していることを、正しく理解していなかったところだね」 にこりと笑い言う雷蔵に、なびきの表情が揺れ、泣きそうに歪んだ。 力の抜けた手から、戦闘意思を失ったと判断した美吉が、その華奢な身体を解放する。崩れ落ちるように座り込んだなびきを上から見やりながら、やる気のない声音で言った。 「さぁ、次はそちらの話を聞こうか」 |