16.酒呑む白紙の泉 飛び交う声、行き交う足音。 それが自分を目にするなりピタリと留まり、皆一様に頭を下げる。 それらを一瞥することなく脇に背にしながら、行尊は幅広い廊下を悠然と歩み進んでいた。 目指す先はこの廊下の突き当たり。限られた者しか出入りを許されていない一間―――〈神御坐〉と呼ばれる本堂である。 其処の奥の間には〈御尊〉を安置している。そして普段四ツ輪衆の教祖が守人として在しているため、同時に教祖の執務室を兼ねていた。 部屋全体に呪術を施して力の“場”を為しているという話だが、実際そういった不可視のものを察知する能力に疎い行尊には、それが本当にあるのかどうかなど分からない。 本堂の入口際に至った行尊は、観音開き式の木戸を前に正座し、深く平伏した。 「早人真主様。行尊にございます。恐れながら御真主様にご報告したき儀あって参上いたしました」 「……入れ」 やや間があって、木戸の内より促す声があった。行尊は一度更に深く礼をし、立ち上がって木戸をゆっくりと手前に引く。軋んだ音を立てて開いた扉の内から、明るい光が目に入り込んでくる。 少し開いた隙間より身を入れて、閉ざす。 畳幾十分はあろうかという広間が眼前に広がっていた。 板張りの堂には、窓はない。全く外の光の入らぬこの部屋は、しかし無数の灯が点され、木肌を照らして昼間の如く明るかった。寺のように、古木の色に相まった薄暗い堂とは異なり、清潔で新鮮な印象を抱かせる。本堂というよりはむしろ武術の道場のようだ。 燦々といっていいほどの明るさに包まれる堂の中心に、その人物はいた。 真白い上下の袴に、白髪交じりの髪を髷結いにせず肩あたりで切りそろえた壮年の男は、やはり武術の師範といった雰囲気だ。それが厳めつらしい面構えの所為なのかは定かではないが、いかにも教祖然としたその姿は、ある意味で怪しいといえば怪しい。だが不思議な風格を湛えていた。 その男は今、部屋の中央に設けられた正方の壇の前に佇み、こちらに背を向けていた。 〈真主〉とは四輪では教祖の意であり、〈早人〉は真主となる者に与えられる号だ。早は即ち神である。 「御真主様」 呼べば、短く応じる声が返ってくる。しかし行尊を振り返りはせず、ただじっと腰ほどの高さの壇に目を注いでいた。行尊はそれに特に何も思わず、静かに近寄る。ここのところ早人は決まってこうして居り、疑問を抱くこともなかった。 壇上の表面には天文八卦図を複雑に組み合わせた円状の暦盤のようなものが描かれている。 その円盤の中心に、一つの巻物が僅かに開かれた状態で置かれていた。薄汚れた深緑の巻物の中は白紙だ。かなり古いものなのか、あちらこちら端の方が傷んでいる。それはしかし、よく見れば仄かな燐光を立ち上らせていた。 しかもこの巻物は、不思議なことに時折震える。まるで巻物自体に意思があるかのように、身動ぐ。だがそのたびに、四隅に穿たれた四針の間に青白い雷光が走り、それを阻む。結界だと以前早人は言っていた。 そして今、巻物は一面の水に浸されている。 いや、水ではない。立ち込めるのは酒の匂いだった。 酒は、まさにこの巻物の、白紙の中心から溢れ出てきているのだ。 壇上に満ちた酒は、床に零れ落ちる前に中途に設けられた溝を通って一箇所に集まり、酒壺の中に流れ落ちるようになっていた。 その様を行尊は凝視する。この堂には何度も足を運んだことはあるが、こうして間近で目にするのは初めてである。 湧き水のように酒を生み出す〈神血〉の源泉――― 「……それが、〈秘伝〉と呼ばれるものですか」 「そのようだ」 酒の流れを見据えながら、真主と呼ばれる男はボソリと言った。 「これからはそれを例の物に替えて〈御尊〉と為すのですか」 「仕方あるまい。代わりになるのであれば何でも構いはせぬ。不運にも〈御尊〉を失ったことは相当な痛手であったが、代わりにこのような神器を得ることができたのだ。むしろ幸いというべきだな」 含み笑う早人に、行尊は再び目を巻物へ戻した。 本来ならばここにあるのは、もっと異なり、もっと相応しい形をした物だった。しかしそのあるべき物はある時に失われ、行方知れずとなった。 ところがつい先だって、その居場所が判明した。早速取りに行かせたのだが、なんとその遣した者が帰りの道中で肝心のそれを失くしてしまったのだ。しかもそのことに気づかず、慌てて帰って来たところで荷物を開いてみれば、全く異なるものが入っていた。 途中で荷物をすり違えてしまったらしいと、その僧は真っ青になり震える声音で言った。 ちなみにその者は今、部屋の隅に控えており、行尊たちの話に怯えた様子で肩を竦めている。 だが、意に反して遣いは思わぬ拾い物をした。 医学書や墨染めの法衣などの常用品の中から出てきた、一本の巻物。 「世に聞く、森羅の理を綴った忍びの奥義書―――真のものとお思いなのですか」 「この様を目の当たりにすれば、そうとしか言えまい」 行尊は口を噤む。 正直、行尊には噂に囁かれる〈秘伝〉の存在などただの絵空事だとしか思っていない。事実そのようなものがあれば、どこぞの大名なり所有者がとっくにこの国を乗っ取り、頂きに君臨しているだろう―――そう、信じ込んでいた。 それを得れば、あらゆる世の理を解し、自然を操り、覇権を得ることができるという。そのような都合の良いものが、本当にあるはずがないと。 この摩訶不思議な現象を目の当たりにしても、行尊にはやはり信じることが出来なかった。 (そのようなもの―――) そのようなものがあれば、自分がこのような所にいるはずがない。 あんな悲惨な経験と、屈辱的な思いを味わうはずなどなかった。 昏い記憶の淵に沈みかけ、行尊は脳裏から翳りを振り払った。自嘲気味な微笑を口端に僅かに乗せる。 今更思っても栓のないことだ。時は戻りはしない。過去もまた。 僅かなりとも「若しも」と思った自分の愚かさを嘲笑する。 だが、と行尊は双眸を眇める。 行尊がより〈秘伝〉を信じられぬ理由。それは、これが〈秘伝〉であると嘯いた者だ。 その者とは、あの影梟衆の不知火という忍び。 この本堂で風呂敷包みを開いたときに、共に控えていた忍び達の中であの男が、この巻物を目にした途端口走ったのだ。秘伝だ、と。 「確かに初めて見たときから、甚大な神力を宿しているのは分かっていた。よもや〈秘伝〉そのものだとは思わなかったがな」 独りごちるように早人が低く漏らす。 不知火は言った。中身が白紙ならば、まず間違いないと。 行尊は真っ白な紙面に目をあてる。今もなお酒の溢れ続ける中心部分は、薄墨に滲んでいる。 「私は、あの者たちが信用できませぬ」 「影梟衆をか」 「特にあの男―――棟梁は、信が置けませぬ」 行尊は切れ長の双眸を鋭く光らせる。 あの時。〈秘伝〉だと言った不知火に対し、棟梁である忍びは教祖に向かってこう言ったのだ。 「『〈秘伝〉は然るべき者が然るべく持つもの。他者が安易に利用するのは賛同いたしかねる。在るべきところに戻すべきです』―――あの男は恐れ多くも御真主様にそう提言した」 「そう言うな。あれは義侠心に厚い男なのだ。仕事に差し障りはない。それに、あれ以来何も言って来ぬであろう」 「だからより信用できぬと申しているのです」 行尊はやや強い口調で主張する。 行尊の脳裏には、あの棟梁の双眸がある。己の信ずるものに迷いがなく、闇に生きる者のくせに妙に澄んだ眼をしていた。 こちらの内心を無言で見透かしているような。何の感情も乗せてはいないのに、否が応にも自分のやっていることを突きつけられる、あの瞳――― 忌々しい男だ、と心中で吐き捨てる。不知火も気に障るが、あの男はもっと気に食わない。 際立って強硬な姿勢をとる行尊に、早人は嘆息した。話題を変えるように切り出す。 「報告をしろ」 行尊はハッとなって、恥じ入るように首を垂れた。知らず熱の上っていた感情を冷やす。 そうだ、今はそれどころではない。 「捕えていた〈秘伝〉の継承者と思しき法師と、例の物の所在を握っていると思われる法師ともどもが、牢から抜け出しました。今追捕をさせているところですが」 「まだ捕えられぬか」 「はい。影梟衆にも追わせておりますが、恐らくはすでに山中へ逃亡したものと」 「大事はない。〈秘伝〉はまだ我が手中にある。どうせ取り戻しに戻ってくるだろう。そこを捕えればよい」 早人の言葉に、は……と行尊は瞼を伏せる。 軽く溜息をつき、早人は壇上から目を上げ、天を仰いだ。 「“然るべき者”が、秘伝を取り戻しに来たか―――」 呟きを耳にして、行尊は早人の背を見やる。 解せないのは、あの法師達の正体だ。 不知火によれば、片方はかつて忍び界に名を馳せた忍びであり、〈秘伝〉の持ち主らしい。 しかし背後に控えている僧に言わせれば、巻物を持っていたのはもう一方の怠惰な風貌の法師の方のようだ。例の〈御尊〉を持っているのも、そちらだという。 そして、あの二人は互いに知己らしい。 これは一体どういうことなのか。 己達の進む先に、不意に漂い始めた謎の霧に、計画を撹乱されそうな予感を覚えて、行尊は厭わしげに瞑目した。 |