19.常闇の(はざま)に揺れる過去



 辺りの気配に神経を研ぎ澄ませながら、雷蔵は樹林の向こうに見える屋敷と〈寺院〉を注意深く観察した。
 闇深くに息を殺し、幹の陰に背を預けながら肩越しに眼下を見下ろす。今や敷地内の灯は以前に増して煌々と燈されており、真昼のような明るさの中に武装した者たちが忙しく行き来している。炎に照らされ地表に落ちる影が、無数に動き揺らめき、踊る。
 雷蔵はいま、美吉となびきから離れ、単独で斥候に来ていた。侵入の機を窺うためである。
 だが幾重にも張り巡らされた人海の陣形を見定めて、億劫そうな色を瞳に宿した。あの警戒態勢と布陣の敷き方は、信徒達だけでは決して為しえない。それは一目見て明瞭なほど、実戦に富んだ玄人の手によるものだった。

(影梟衆が相手か……さすがに気が滅入るな)

 さして滅入ってもなさそうに、顔の先を筒闇に戻して嘆息する。
 欝蒼と茂る闇の上空では、梟がほぅほぅと寒々しく鳴いている。月は十八夜の立待。朧のため明るさはさほどでもないが、あそこまで明かりを焚かれてはそんなもの意味がない。闇に乗じる戦法はできそうにもなかった。こうなれば一思いに正面から強行突破しかあるまい。
 だが、いくら美吉もいるとはいっても、かの影梟衆を相手にたった二人で対するのは少々骨が折れる―――特にそれが、〈秘伝〉を使わずに、となると。

(でも〈秘伝〉の存在を知る者の前で〈秘伝〉の力はあんまり見せたくはないし)

 誰へともなく雷蔵はぼやいて軽く首を傾ける。別に〈秘伝〉の術を見せてはいけないという決まりはないのだが、後にひどく面倒で厄介なことになる―――成りうるのは確かだった。「紀伊の某という場所で〈秘伝〉が使われたらしい」。万が一にもそんな噂が近隣諸国に伝わったら、折角苦労して撒いてきた追っ手や刺客がこぞってまた襲いに来かねない。
 雷蔵としては、寝食を省いてまで、入れ替わり立ち代り来る大勢の刺客にいちいち相手をしてやるほど奉仕精神旺盛ではない。

(さてさて、どう攻めるかな)

 とりあえず当面の状況を美吉に伝えるべく、来た道に向かい身を翻した。
 錫杖の音すら立てずに、林中を駆ける。
 闇を突き進んでいくらかのところで、雷蔵はふと丹田に息を溜めた。弾けるように後方へ跳び退く。
 すると、僅差で上方より掠め落ちてくるものがあった。それを認めた瞬間、退いた足首に何かが引っかかった。反射的に半身を捩る。遅れて、背後の樹幹に刺さる刃の音が微かに聞こえた。
 動きを止め、ふ、と雷蔵は微笑する。低く身を構え暗闇の向こうを注視したまま、口を開いた。

「……随分小細工が上手くなったものだね」

 不知火、と呼べば、黒く塗りつぶされた空間から現われた長身の男は、雷蔵を睨みつけながらも不穏に笑みを刷いた。

「よく気づいたな。結構巧く気配は隠していたつもりだが?」
「あんな明るい人里近くで鳴く梟なんかいないよ」
「ふん。道理だな」

 詰まらなそうに言い、クイッと軽く右手首を引く。
 視界には捉えられぬ細い糸が、闇の中でゆらりと落ちた。
 先程足に引っ掛けたのはどうやらこれのようだ。

「それで何? 大した用じゃないならまた後にしてもらいたいんだけど。こちらとら忙しくてね」
「随分つれねぇじゃねえか、あぁ? 十余年ぶりの再会なのによォ」

 砕けた口調とは裏腹に、その身は硬く冷たい殺気を漂わせている。既視感を覚えて、そういえば佐介と再会した時も似たような状況だったことを思い出した。ただし、佐介の場合は元々親しい同胞だったが、目の前の男は全く正反対である。
 臨戦態勢に入ろうとする不知火の動きに集中しながら、俺は会いたくなかったけどね、と雷蔵は小さく呟いた。それから確信めいた口調で、

「街に入る直前―――あの夜潜んでいたのは君だろ」
「なんだ、バレていたのか」

 不知火は喉の奥で笑う。
 スッと、黒鋼の刃を横に構えた。

「俺もさすがにお前を見た時は驚いたがな―――思わず神仏とやらに感謝したぜ」

 ギッと双眸が鋭くなる。

「この手でもう一度、お前と闘りあう機会を与えてくれたことにな」
「そりゃあ良かったね」

 気のない返事を返す相手に、不知火の殺気が増す。

「ずっとこの時を待っていたんだ。よもや忘れたとは言わねぇ―――あの日の恨み、今こそ晴らさせてもらう!」

 否や、溜めに溜めていた不知火の気迫が弾けた。瞬きの間に、現われたのは背後。掛け声と共に振り下ろされた肘打ちが雷蔵の首元に入る。
 手応えあり―――と思った時には、それは切取られた丸太に替わっていた。

―――そこだ!」

 惑うことなく、すぐさま不知火は上を仰ぎ見て腕を切った。
 高い音が鳴り響き、十字手裏剣のいくつかが弾き落とされる。
 音もなく着地したところを狙って放たれた蹴りを身軽に躱し、雷蔵は地に片手を付き、素早く後ろ返りを繰り返して間合いを取った。
 一呼吸置き、双方睨みあう。どちらとも息も乱れていない。
 手始めの様子見というところだった。

「なるほど、少しは腕を上げたみたいだね」

 ふむ、と頷く雷蔵の全く動じていない様子に腹立ったのか、不知火は歯を軋ませた。

「余裕ぶっていられるのも今のうちだ」

 短刀の柄を握り直し、逆手に構える。すっかり戦闘で頭が一杯になっている不知火に対し、雷蔵は冷めた声音で言った。

「忍びは決して私情で闘ってはならない。そう棟梁から習わなかったかい?」
「うるせえ! 俺は、てめえにあん時の借りを返さなけりゃ気がすまねぇんだよ!」
「……全く」

 こりゃだめだ、と天を仰ぐ。こうなればあとは力で物を言わせるしかない。

「死にやがれ薬叉!!」

 文字通り目にも止まらぬ速さで繰り出された剣技を、雷蔵は錫杖で防ぐ。ジャラン、と六つの遊鐶が耳障りな音を立てた。
 十合、二十合と袈裟切りを弾き返し、逆薙ぎの一閃を長い柄で受ける。強烈な打ち合いに火花が散り、激しい金属音が鳴り響く。
 不知火の猛烈な連撃に、雷蔵は反撃の隙を見出せず防戦一本に甘んじていた。
 闘う時は長兵よりも短兵の方が有利だ。間合いが長い分、一般的には長い武器の方が有利とされるが、それは正攻法の場合であり、変則的な忍びの闘いには通じない。体術と暗殺を得意とする忍びは、徒手空拳と短刀を応用した戦法に慣れている。長くともせいぜい刀程度。槍のように小回りの利かない得物は、逆にその長さに動きを制限され、更には懐に入り込まれてしまうと防げないために、ひどく扱いづらい。それを分かった上で、雷蔵は錫杖を使う。柄は表向き木製だが、内部は鉄仕込み。当然重さもそれだけある。
 薬は使えなかった。不知火は巧妙に風上に回りながら闘っており、更には毒に対する耐性も常人より鍛えられている。
 それらの不利条件を背負いつつも、至って平然と対戦する元同業者に、不知火は舌打ちした。

「そのむかつく余裕面、引ん剥いてやる」

 一歩引いて間合いをはかった雷蔵に向けて、地を強く蹴る。先程よりも更に速い。だが増したのは速さだけではない。常人には捉えられぬ刹那の剣閃。身体の脇合いから迫る鋭い気配に素早く応じて構えた錫杖へと、鋼が食い込んだ。
 先程とは比べ物にならない重量に、雷蔵は顔をかすかに顰めた。それで、僅かに後の対応が遅れる。
 その隙を逃さず、不知火はおもむろに錫杖の穂先を片手で掴んだ。

「!」

 何かが、琴線に触れた。
 雷蔵は錫杖を引いて取り戻すことよりも、咄嗟に手を放すことを選んだ。と同時に背後へと跳ぶ。
 力任せに引かれた錫杖と入れ替わるように、不知火の懐あたりから鋭い煌きが放たれる。
 それが、墨染めの腹部に届き―――僅差。
 寸前で雷蔵は身を捻った。地を蹴って方向転換をし、横合いへと跳ぶ。そこを、更なる銀色の光が紙一重で掠めた。

「ちっ―――

 仕留め損ね、不知火は忌々しげに舌打ちをする。

―――暗器か」
 足を止めて対峙しつつ、雷蔵は双眸を細めて呟いた。
 暗器とは内に忍ばせる暗殺器具のこと。僅かに切れた袂を瞳だけで見やる。もしも錫杖を手放して後方に逃れていなければ、あるいは少しでも反応が遅れていれば、今頃袂だけでは済まなかった。
 あの時の雷蔵の判断は、理屈ではなくもはや直感―――歴戦の経験による本能だった。一歩でも選択を誤れば命を落としていただろう。

「大方帯辺りに仕込んだ暗器を接近すると同時に放ち、それで仕留められなくても、敵に一瞬隙を作らせたところに別の暗器で狙う二段構えの戦法―――といったところかな」
「ふん、ご名答だ」

 忌々しげに鼻を鳴らし、不知火は未だに手に持っていた錫杖を遠く暗中へ放る。これで完全に雷蔵は丸腰になったことになる。

「折角対薬叉用に熊をも即死させる猛毒の針を用意したってのによ、全く無駄だったな」

 そもそもこのような樹の多い場所は飛び道具には向いていない。だが雷蔵は妙なところで感心していた。なるほど、ついに熊扱いか。

「やっぱ俺にはこんなチマチマしたやり方より、こっちの方が性にあってる」

 にやりと口角を上げ、不知火はおもむろに短刀を側の樹の幹に突き立てる。そうして後ろに手を回したかと思えば、後ろ帯に挟んでいた棒状のものを掴み取った。手馴れた動作で一振りする。と、にわかに棒が伸び、側面から歪曲した刃が現われ、更に石突から鎖が伸びる。
 じゃらり、と音を立てて構えたのは鎖鎌。
 ―――不知火はこれを得手とする使い手であった。

「さて、此処からが本番だぜ」

 これまでの応酬はほんの前座―――とばかりの台詞である。
 しかし雷蔵は特に焦りもせず、逃げる様子もない。迎撃する気はあるようだ。
 それを見て取り、不知火は挑発的に言葉を吐いた。

「もうお前の得物はないぞ。手ぶらで、どう闘う気だ?」
「……」

 雷蔵は答えない。ただ黙り、淡々と不知火を見据えていた。その無言の態度に、不知火は意味深に笑みを濃くした。

「よう薬叉よ―――〈秘伝〉はどうした」

 秘伝という語句に、ぴくりと雷蔵の表情が反応する。
 不知火はさも可笑しげに嗤っている。

「……やっぱりね。彼らに余計なことを言ってくれたのは君か」
「俺のせいじゃないさ。そんな大切なもんを落とした方が悪いってやつだろ」

 嘲るように言い放ち、ふと眼光を鋭くした。

「だが解せねえことがある。何故〈秘伝〉をてめえじゃなくあの野郎が持っていた? あいつも、ただの臭れ坊主じゃねぇだろう―――何者だ」
「さぁね」

 とぼけた態度で、雷蔵は肩をすくめる。

「へっ―――まあいい。そいつはお前を斃したあとで直接奴にじっくり聞かせてもらう。〈秘伝〉のない薬叉など、最早敵じゃねぇ」

 その台詞に、はぁ、と軽く息をつき、雷蔵は無型の構えを解いた。

「なるほど、それでそんなに自信満々なわけだ」
「負け惜しみか? 武器はなく、得意の薬は風下に封じられている。頼みの〈秘伝〉もないときた。そんなお前に勝機があるか」

 嘲笑と憐憫を含めた眼差しで、不知火は問う。

「本当に、俺が〈秘伝〉を持っていないと思う?」

 笑みと共に、放たれた低い声音。
 目を剥いて、不知火は対峙する相手を食い入るように見つめた。夜目に浮かぶ表情は、前にもまして読めない微笑を湛えている。知らぬ者が見れば、ただの優顔の法師だ。
 だが、半ばまで下した双眸の奥に宿る鋭い光と、表情に掛かる陰は、“その道”に属する人間にしか持ちえぬもの。決して寒くはないはずなのに、剥き出した二の腕が粟立つ。身体の底から、凍えるような冷たさが這い上がってくる。不知火はごくりと唾を飲んだ。
 先程の“お遊び”とは、明らかに違う。格というよりも、人間そのものが。
 眼光だけで、発せられる気だけで、射すくめられる―――
 戦慄き、硬直しそうになる背筋を、しかし辛うじて我と気合で引き締める。

(ハッタリだ)

 確かに、この目で見た。あれは〈秘伝〉だった。どんな事情があったのか分からないが、たとえ持っていた人間が違うにせよ、あれはかつて見た〈秘伝〉の書そのものだった。
 こめかみを伝う冷たい感触を誤魔化すように、不知火は汗の滲む手で扱い慣れた鎌の柄を固く握り、鎖を回す。
 腰を低く落とし、じっと不知火が睨み据える間も、雷蔵はただ薄く笑っているのみ。
 ジリジリと、焼ける導火線を不知火は己の中に想像した。限界まで気を切り詰め切り詰めていく。引き絞られた弓弦の緊張にも似た、張り詰めた空気が一帯を支配する。
 そして。
 不知火が動く刹那の呼吸を読んで、雷蔵も手を動かし―――突如ピタリと止めた。
 と、俄かに不知火の頭上から何かが凄まじい速さで落ちてきて、その後部を強かに打った。

―――!?」

 思いもよらぬ事態に、不知火は声もなくその場に昏倒する。
 ドサッという音と入れ替わりに、闇の中でゆっくりと立ち上がった人影。
 新たな人物の登場に一瞬身構えた雷蔵は、その風貌を見て、すぐさま全身の緊張を緩めた。
 相手もそんな雷蔵の方を見やり、茫洋とした顔に緩く笑みを浮かべる。

「すまない、うちの者が世話をかけたな」

 いいや、と雷蔵は息をつき、ようやく臨戦態勢を解いた。軽く肩を揉みながら、凝った筋肉をほぐす。
 唐突に現われた人物は、不知火と似た着衣を纏った男だった。
 不知火もかなり上背がある方だったが、彼は更に少しだけ高い。背中まで伸びた、日に焼け色抜けしたざんばらの髪が、風に揺れている。着痩せする引き締まった体躯が相まって、一見山賊風でもある。だが、容姿に漂う存在感が、男を決して粗野には見せない。まだ三十五ほどかと思ったが、妙に年寄りじみた落ち着きがあるせいかもしれない。
 そう、どちらかといえば義侠然とした男。どことなく茫洋とした表情に、よもや彼こそが精鋭の忍び集団影梟衆を束ねる首領だとは誰も思うまい。
 だが雷蔵は、その曖昧な雰囲気の中にもなお色濃く漂う、闇に生きる人間の臭い―――それも上に立つ者の風格を確実に嗅ぎ取っていた。 

「久しぶりだな、薬叉の」

 まさに古い友人に対するように、彼はのんびりと声をかける。
 影梟衆棟梁―――名を藤浮(ふじうき)虎一太(こいちた)。だが他人は、呼びにくいその名を捩って太一と呼ぶ。又の名を朧の太一―――専らその異名で通っていた。
 一見すれば朧に霞む月のような人柄。しかしその実、雲の陰に隠された光は鋭い。

「棟梁殿自らお出ましか」

 世話の焼ける部下を持つと大変だ―――雷蔵は呑気にも同情を口にする。先程まで死闘を繰り広げていた人間とは思えない緊張感のなさだ。
 それに虎一太はまたひとつ笑ってから、

「礼を言う」
「何が?」

 首を傾げる雷蔵に、彼は足元に倒れ伏す不知火を見やりながら

「殺さない程度に力加減してやってくれただろう。お前が本気だったら、勝敗はとうに決していた」

 ああ―――と雷蔵は気のない様子で後ろ首を掻く。

「昔のお前だったら、向かってくる人間は一も二もなく息の根を止めていた。……随分変わったな」
「どうだったかな」
「まあそのおかげで助かったが」

 虎一太は不知火を軽々と肩に担ぎ上げる。完全に意識を失っている己の部下を数拍見やり、それから改めて雷蔵の方に顔を向けた。

「お前も難儀な男だな。そろそろ誤解を解いてもいい頃じゃないか?」

 笑みを消し、真摯な表情で発せられた声は、穏やかに闇夜に溶け込む。
 間を置いて、さわりと木擦れの音が走った。
 ひとしきり風そよぐ沈黙を味わってから、雷蔵は特に感慨もなさ気に呟いた。

「あえて藪の中の蛇を突く必要はないよ。今後顔を合わせることもそうないだろ」

 虎一太は口を開きかけ、しかし噤む。
 だが何を言いかけたか雷蔵には察しがついた。
 微笑を浮かべ、

「君が気に病むことはない。過ぎ去ったことは過ぎ去ったことだ」
「……結局お前ひとりに憎まれ役を負わせてしまうことになった」
「誰かが怒りの捌け口にならなければならなかった。そうでなければ事が回らなかった、ただそれだけのことだよ。俺自身が構ってないのだし捨て置けばいい」
「……」

 虎一太はじっと、何かしらの心情を湛えた顔で雷蔵を見つめていた。
 かつて、彼ら影梟衆と京里忍城は共同で任務を遂行したことがあった。その時、彼等の間で起こった出来事は今もなお当事者の記憶深くに刻みついている。ただ虎一太には虎一太の、雷蔵には雷蔵の思いと考えがそれぞれあった。それだけのことだと、割り切られれば楽なのだが。
 そんなことを思い、棟梁たる男は苦笑する。
 だが、そこに生じた歪みは、今もなお不知火の内に燻る怨憎に繋がっている。それでもあくまで今のままを保つ心算の雷蔵に、これ以上は余計とばかりに虎一太は瞳を伏せ、ゆっくりと踵を返した。
 これに、雷蔵は目を瞬かせた。

「いいの? このまま俺を放っておいて」
「今のお前は忍びではない。堅気の人間だ。別に俺たちの仕事を邪魔しているわけでもないしな」

 彼らが受けた依頼は、あくまで反乱までの『内部の守り』と『情報漏洩の防止』『外部勢力の諜報および排除』。それ以外の仕事は管轄外だ。よもや、四ツ輪衆のご神体など。

「見逃してくれるってわけだ」
「手加減の礼だ」

 虎一太は肩越しに雷蔵へ双眸を向けて笑む。そして、

「あと一つ。〈秘伝〉は〈寺院〉の北―――最奥の間に安置されている」
「……いいのかい、そんなことまで教えちゃって」

 思わず呆れて雷蔵が問うのに、虎一太はぼんやりとした眼差しのまま、

「あれのことは他言無用という約束だったしな。不知火が口を滑らした上、利用されるのを防ぎきれなかったせめてもの侘びだ。それに……」

 俺も、あれは世俗の争いに関わらせない方がいいと思う。
 そう言って、虎一太は視線を外し言葉を切る。思いをどこかへ彷徨わすようにしてから、再び雷蔵に目を当てた。

「代わりと言っちゃなんだが、一つ教えて欲しい」
「何を?」
「〈秘伝〉は、二つ在るのか?」
「……」

 雷蔵は黙り込む。瞳は虎一太を見据えている。
 虎一太もまた、じっと待ったまま、見返していた。
 やがて、ようよう雷蔵は唇を動かした。

「ああ」

 軽く双眸を伏せる。

「天地でニ書だ」
「そうか―――それが分かればいい」

 満足げに頷き、重く深く虎一太は応えた。

「不知火には、二度と〈秘伝〉について口外させない。万が一もう一つの存在に気づいても、だ」
「頼んだよ」

 淡く笑う雷蔵に向けて虎一太も微笑み返し、そして最早何も言わずスッと背を向け―――瞬く間に闇に溶け込んだ。
 柱立つ木々の筒闇の向こうに消え行く残影をぼんやりと見送りつつ雷蔵はひとつ、相変わらず読めない男だ、と心の内でぼやいた。
 それと全く同じことをその時かの棟梁も零していたことには、知る由もない。
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