崩れ落ちる天井。焼け落ちる材木を避けながら、残り僅かな活路に身を捩じりこませるようにして脱出する。 ぎりぎりで外に抜け出した直後、大きな音を立てて入口が潰れた。 天守閣が天を赤く染め佇む。炎上する城から徐々に遠ざかりながら、虎一太は城に取り残された朱鷺次や、与市や、その他の京里忍城の忍びを思った。ふと横を伺う。隣を走る少年の横顔はいつも通りで、何も読みとらせない。朱鷺次たちの救出が困難であることを冷静に判断し、早々に見切りをつけた彼は、虎一太よりも年少であるのにもかかわらず表情一つ変えていない。 虎一太とてまだ齢二十三だ。藤浮一族の当主として、影梟衆の棟梁として、厳しい修行に耐え、迷いを棄てる覚悟を持った。それでも生きながらに炎に焼かれる朱鷺次達を思えば、今も動揺せずにはいられない。父に付いて、あるいは仲間に付いて幾度も任務をこなしてきた。任務中に仲間が命を落とすことも少なからず見て来た。実際、父の一郎太は任務の最中、仲間を逃すために文字通り血路を開き、その傷がもとで落命していた。けれど今回のように、まだ命のある仲間を前に任務を優先して切り捨てるようなことは経験したことはなかった。 敵には容赦なくとも、味方については完全に感情を切り捨てることなどできない。忍びとしてまだまだ未熟な証だ。 それに対して、敵にも味方にも忍びとしての態度を変えない雷蔵は、もしかしたら自分よりもずっと公平なのかもしれないと、虎一太は思った。僅か十六にして、その決断力と冷淡さは、どこから養われるのだろう。それとも、冷酷無情になりきれぬのは、自分が義を重んじることを信条とする故なのか。 「こっちだ」 直進しかけた虎一太を遮るように、雷蔵が先に径を右折した。虎一太もはっとして後に続く。道順は頭に叩き込んでいるのだから、わざわざ声に出して示唆する必要はないはずだった。うわの空でぼんやりしていたところを見透かされていたのかもしれない。いつの間にか第一の合流地点に到達していたことさえ気づかなかった。時が来ても戻らなければ先へ行けと指示してある。この程度の遅れならば、第二の合流地点には追い付くと思われた。 ホーウ、と先の闇で法螺貝の響きに似た鳴き声がした。虎一太も口元に拳を当てがって同じ声を返した。影梟衆の仲間内の合図であった。 だが何かが琴線に引っかかった。 「―――伏せろ!」 突然隣を走駆していた雷蔵が声を発した。襲いかかる殺気。殆ど条件反射で、虎一太は身体を横へ倒した。仰向けになった耳の上を、風切り刃の音が通り過ぎる。手から、持っていた刀が弾かれた。後ろに従っていた者の一人の首が飛ぶのを、視界の端に捉えた。そして闇を舞う湾曲した刃と、それを引き戻す鎖。 身を返して第二撃に備え臨戦態勢をとる。反対側へ逃れた雷蔵も既に小刀を手に構えていた。 「今の鎖鎌……」 虎一太の口から短い句が零れた。思わずといった呟きだった。おぼろげな声音の中に滲んだ緊張と驚愕を聞きとった雷蔵が、瞳だけで一瞥する。 虎一太は信じられぬものを見たように、ただ先の闇をみつめていた。 そこから現われた姿を見ても、まだ表情は固まったままであった。 そう。鎖鎌と、伝家の宝刀を手にした朱鷺次を目にしても。 「朱鷺次」 「すまねえな、御頭。いや……もう仲間でも部下でもねえから、こう呼ぶのは適当じゃねえか」 なあ太一―――と懐かしい呼びかけとともに、朱鷺次は皮肉気な笑みを片方の口角に刷いた。頬に煤をつけ、身体に疵を負ってはいたが、二つ足でしっかり立っている。 死んだはずだと思った。今頃城とともに、生きながら焼き殺されていると。虎一太には己の目に映るのが夢か幻にしか思えなかった。それほどに動揺していた。 「それで、どうして君がここにいるのかい?」 そんな虎一太を現実に引き戻したのは、平淡な声音だった。 朱鷺次はさして驚いている様子のない雷蔵を見やり、肩をすくめた。 「全くお前には恐れ入るよ、薬叉。まさか気づいていて、仕掛けまで残していっていたとはな。その年齢で、どうしてそこまで切れるものかねえ」 「最初に気づいたのは与市さんだよ」 元々雷蔵たちや虎一太たちの動きの一部が敵方に漏れている節があった。となれば情報提供者―――端的にいうと、間者がいる可能性が高い。しかしその時までは、まだ誰がそうなのか掴めてはいなかった。捉えた敵方の忍びを催眠で尋問したが、結局内通者の正体を知らなかったのだ。 影梟衆と京里忍城のどちらに入りこんでいるのか特定できない以上、ひとまず雷蔵は影梟衆をそれぞれ組に一人ずつ分散させ配した。これは万一影梟衆側に裏切り者が潜んでいた場合に監視するためである。 恐らく朱鷺次はあの牢から抜け出す手段を持っており、頃合いを見計らって京里忍城の忍びを殺して、一人逃げるつもりだったのだろう。 「与市さんは止めきれなかったようだね」 雷蔵は朱鷺次の傷を見ながら、淡々と確認した。与市は最初から朱鷺次を疑っていた。自分を彼と同じ組に配するよう、密かに雷蔵に打診してきたのは他でもなく与市自身だったのである。 「手強かったが、煙で相当やられていたからな。辛うじてやりかえしてやったよ。牢は内側の隠しからくりから跳ね上げることができるんだ。本当ならそのまま刀を持ってとんずらするつもりが、お前が鉄を溶かすとかふざけたモン持っていやがるから予定が狂っちまった」 周囲を取り囲む複数の気配。小根澤の透波者だった。 「朱鷺次、何故なんだ」 虎一太はいっそ静かなまでに、そう問うた。 「俺の兄であり、親友でもあったお前が……すべて偽りだったのか」 「俺ばかり責めるのはお門違いだぜ、太一」 朱鷺次は愛称で虎一太を呼んだ。 「俺は言ったはずだ。もう大昔とは違う、時代は替わったんだ。義忍なんてものは流行らない。忍びの世界も勢力分化が進み、複雑を極めてきているんだ。影梟衆は何故こんなにも数を減じた。義を貫き通して、どれだけの仲間が死んでいった? 非情になれないのなら、いっそ忍び衆なんて廃めちまうべきだってな」 「だから裏切ったのか」 「ああそうだ。見限ったんだよ、お前らを。俺は忍びとしてもっと高みを目指したい。こんなところで終わりたくなどない」 虎一太を射ぬく朱鷺次の瞳は本気だった。 「成功の暁には、“彼ら”から何らかの見返りがあるわけかな」 押し黙ってしまった虎一太の後を引き継いで、雷蔵が四方を囲む黒装束を見回しながら訊く。朱鷺次は不貞腐れたように片目を瞑った。 「なんでそこで“小根澤の城主”とはならないんかね」 「確実に死ぬことが分かっている城主を相手に、どんな取引が成り立つと? そこまで君は愚かではないと思うけど」 「可愛くない餓鬼だな」 鼻を鳴らし、「ああそうだよ」と鎖を揺らした。 「手柄を立てれば仲間にしてもらえる約束でな。里抜けとなると面倒だから、手っ取り早く死んだことにして、無難に済まそうと思ったんだがな」 だからそれとなく乾組を仕掛けのある部屋へ誘導した。 すべては初めから仕組まれていた罠。 あの部屋で絶命したふりをして、一人刀を持ち逃げするつもりだったのだ。そこを、予想外にも刀は雷蔵の手に渡されたものだから、朱鷺次もそのまま遁走するわけにはいかなくなった。宝刀が“取引”の条件だったからだ。 「こうなった以上しょうがねえ。てめえらの首も手土産にすりゃあ、今後の待遇も上がるってモンだろ!」 ひゅん、と錘つきの鎖が唸る。不意打ちにも似た先攻の手に、雷蔵は紙一重で膝つくことで対応する。が、 「遅ぇ」 背後に気配を感じた時には、鋭い蹴りが放たれていた。 「薬叉!」 離れた樹に衝突した雷蔵に、虎一太は焦燥を露わにした。足を向けようにも、同時に襲いかかって来た他の透波に邪魔だった。 ところが、状況に舌打ちを放ったのは朱鷺次の方だった。素早く上方を仰ぐ。そこには忍び刀を振り下ろす雷蔵の姿があった。吹き飛ばされたと思われた先にあったのは変わり身の丸太だ。 幾度か刃を合わせて打ち合い、弾けるように距離を取る。間髪入れず朱鷺次の鎌が風を切って迫った。闇の中高速で飛来する凶器を、雷蔵は正確な目測で避け、次の瞬間瞠目した。鎌に隠れるように、手裏剣が平行に走っていた。それが鎌とは逆の軌道を描いて向かってきたのだ。しかし躱した勢いをにわかには殺すことはできない。雷蔵は無理やり身体を捻り、腕を上げた。手裏剣は袖を裂き、掌中に突き刺さったが、致命傷は避けられた。 しかし、朱鷺次はニヤリと笑った。 「王手だ」 避けたはずの鎌。しかし、中空にはまだ、別の方角から刺し迫る、もう一つの鎌があった。 手裏剣を受け流した体勢から、更に左から襲いかかる三段目の攻撃を躱すのは、どう考えても無理があった。右手に持つ忍び刀で応じるには間に合わない。 逃れることはできない。これまでにこの影蟷螂を躱せた者はいないのだ、と朱鷺次は確信を込めて其の時を待った。 そして瞬きの後に、雷蔵の取った行動に大きく目を剥く。 雷蔵は迷わず手裏剣の刺さったままの掌を差し出した。 鎌が上空に舞った。 雷蔵は刺さった四方手裏剣を五指で掴みこみ、握り込みの武器のようにして、鎌の柄を打ち軌道を上へ弾き変えたのだった。 反動で更に深く食い込んだ手裏剣に、掌の肉が裂け、血が噴き出し、散る。 だが雷蔵は眉ひとつ動かさず、立ち止まることもなく、地を蹴って朱鷺次と間合いを詰めた。 あまりの壮絶さと速さに、朱鷺次は一瞬呑まれそうになりながらも、歯を食いしばって戻って来た鎌の柄を握り絞めた。 「ちぃ!」 力任せに腕を振った。意思を持ったもののごとく、鎖がうねる。 後頭部を狙った錘は、しかし別の苦無によって弾き飛ばされた。それよりも一呼吸早く横へ飛んで逃れた雷蔵は、体勢を立て直しながら軽く双眸を瞬いた。 対峙する二人の間に立ちふさがるように佇んでいたのは虎一太だった。 「薬叉。すまないがこれは影梟衆の問題だ。手下の始末は俺につけさせてほしい」 背中で告げる虎一太を数拍見つめて、雷蔵は無言で引き下がった。あれだけいた透波達は半分が打ち倒され、京里忍城の二人が引き続き応戦に回っている。雷蔵は死角から斬りかかって来た敵忍を一瞥も向けず忍刀で突いた。 「チッ、やっぱり上忍四人を相手するのはきつかったか」 分かっていたことのように、朱鷺次は歪んだ笑みを浮かべた。そして正面の男を鋭く睨み据える。 「それで、お前にできるのか? 俺を始末する覚悟が」 「できるか否かではなく、やらねばならない。それが俺の務めならば」 朧の中に芯を湛えた表情でそう答える声音は、どこか寂寥さを宿していた。 朱鷺次は笑った。 「その覚悟があるってわけだな。いいだろう。俺が残るかお前が残るか―――勝負と行こうじゃないか」 音が空気を割く。闘気が衝突し渦を巻いた。 鐡がぶつかり合う。鎌がまさしく風の物の怪のごとく自在に躍り、対象を追跡して、巧みに翻弄する。虎一太はそれを僅差で躱しながら、隙をかいくぐっては反撃に転じるも、寸でのところで返される。間合いを制す機を窺うが、朱鷺次はなかなかそれを許さない。ほんの一呼吸の差で相次いで左右から現われた鎌を避ければ、いつの間にか周囲で鎖が螺旋を描いていた。しかし虎一太の姿が幻影のように揺れ消え、絞られた鎖は虚しく空を切る。朱鷺次は片目を瞠って飛び退った。その場を手裏剣が虚空を切り裂く。立ち位置を大幅に変えた朱鷺次の左頬に、赤い筋が走っていた。 「陽炎か」 傷口を無造作に拭いつつ、朱鷺次は呟いた。鎌の柄を、手応えを確かめるように取り直す。汗の粒が浮かんでいた。ふう、と息をひとつ吐く。 相手の疲れを見てとったか、今度は虎一太が先に動く。しかし、藤浮流の秘技である『陽炎』は独特の動きで相手の視覚を翻弄するものだが、虎一太は伝授を受けて間もなく先代が没したこともあり、まだ使いこなすまでに至っていない。その弱点を朱鷺次は正確に突いてくる。 草を蹴り、樹の幹を踏み、高く跳躍する。闇に溶け込んだ姿に、朱鷺次は迷わずある方角へ鎌を投じる。一つに見える鎌は、宙で二つに分かれる。朱鷺次の操る二本鎌は操り手の気分によって自在に分裂し、手先の微妙な力加減で望んだ方角から斬り込む。だから先を読むのは困難だった。辛くも避けた虎一太は、しかし計算された地点に飛来した分銅に腕を打たれた。小さく呻く。ぎりぎりで直撃は外したものの、骨が僅かにいってしまったようだった。まともに食らえば砕けていただろう重さだった。折れなかっただけでも僥倖ではあったが、痛みに僅かに動きが鈍る。 そこに追い打ちをかけんと、朱鷺次が一足で間合いを詰めて来た。相手の隙を見ての追撃であったが、それは無謀にも近い攻め方であった。鎖鎌を振りかざす朱鷺次の一挙一動を見ながら、虎一太は咄嗟に悟った。獲れる、と。躱し、後の先を取るまでのすべてが脳裏に再現される。だが、ほんの一刹那、踏み出すまでに躊躇いが走った。 「貰った!」 虎一太は肝心なところでの己の失態を芒洋と眺めていた。それでも攻撃の腕は止めない。相打ちを覚悟した。 その瞬間に、朱鷺次に奇妙な緊張が走った。その視界に掠めたのは、二の腕に迫る極小さな針の切っ先だった。 朱鷺次の焦点が、虎一太を通り越しその後方を映す。そこには丁度斬り倒した敵の忍び越しに、真っすぐ朱鷺次に向かい、唇に手筒を当てるようにしている雷蔵の姿があった。 軌道を見極め、ぎりぎりで姿勢を左へ反らす。僅か毛一本ほどの差で、正確に避けた。そう、避けたはずだった。 朱鷺次の双眸が愕然と見開かれた。針先がにわかに動いたのだ。まるで朱鷺次の動きに引きつけられるように、皮を破り肉を貫く。途端に患部が石化したようにずんと重くなり、瞬く間に全身に広がって、気道を圧迫した。 何かに抗おうともがいた朱鷺次は、為すすべもなく体勢を崩し、得物もろとも地面に横転する。それを見て、雷蔵が大きく息を吐いた。 虎一太はただ呆然と己の手を見ていた。そこには血に濡れた得物。肉を断った感触もあった。だが己の身に傷はなかった。 「く……そが」 細かく痙攣しながら、朱鷺次が呻く。震える腕を伸ばして土を掴む。 気づいた虎一太が咄嗟に立ちあがる。 「朱鷺次!」 「寄るな!!」 駆け寄ろうとした虎一太に、朱鷺次が血を吐きながら叫んだ。喉がひゅうひゅうと細い音を立てている。 「寄るんじゃねえ、よ、太一」 「朱鷺、」 「いいか、こいつが裏切り者の末路ってやつだ。影梟衆の頭ァ張るなら、情けなんてかけちゃいけねえ。『誰がどこで見ているか分からねえからな』」 自分で言ったことが可笑しかったか、朱鷺次は身を震わせて、ごろりと仰向けになった。腹が一文字に切り裂かれていた。億劫そうに手を掲げ、べっとりとついた血を観察する。 「朱鷺次、一体何故なんだ……何故お前が裏切りなど」 朱鷺次とは虎一太が幼いころからの付き合いだった。兄として、親友として、腹心として、誰よりも信頼していた。なのに。 へっと朱鷺次の血を零す口端が緩く上がった。 「幼馴染つっても、おめえに会ったのは俺が十三のころだ。俺は里の生まれ育ちじゃねえ。影梟衆の一員になる前に何をしていたか―――おめえ知らねえだろ」 「―――……」 朱鷺次が元々里の者ではないことなら虎一太とて知ってはいた。確かある日門の前に行き倒れていたのだと、そう里の者が話すのを耳に挟んだことがある。 だがそんなことは関係なかった。朱鷺次はよく働いたし、初めは手裏剣ひとつまともに投げられなかったのだって、文字通り血の滲む努力でここまでになった。腕を上げてからは数々の戦功を上げて里を助けてくれた。里の中に確たる地位を築いた朱鷺次には、誰もが一目と全幅の信頼をおいていたのだ。 「そこで疑問に思わねえあたりがお前のおめでたさだな」 苦しげな息の下朱鷺次は皮肉気に吐き捨てた。 「まさか……」 思い当たった一つのことがらに、虎一太は愕然となった。 その予想を肯定するように、朱鷺次が嗤う。 「ああそうだ、俺は“草”だよ。といっても、こいつらともまた違う方面のだがな。裏切り者の振りしてこいつらに情報を流すよう指示されていた」 第三の勢力。敵は一人ではなかったのか。 では影梟衆と雷蔵の落ち合いの場所を突き止め、刺客を送って来た一連の妨害工作も。 「俺は影梟衆に長期潜伏し、おめえらの信用を得ることが仕事だった。必要な情報を流し、時がきたら動くよう最初から言われていたのさ。草と言うより根だな。……もっとも、“あいつら”の目的は別に影梟衆じゃなかったみたいだけどな」 ぼそりと呟き、ちらりと眼だけで負傷した腕を抑え傍観している雷蔵を見やる。 「だが情報を流したことでちと俺自身がヤバくなったからな。ひとまず身を隠そうと、こいつらに協力するふりをしててめえらを欺き、そのままトンズラこくつもりだった。あとは知っての通りだ」 本来朱鷺次には奪われた宝刀などどうでもよかったのだろう。しかし小根澤城主に雇われていた忍び衆もそこは警戒しており、条件の宝刀を持ち帰らねば、身が危うい。だからやむを得ずこうして取り返しに来た。 「そしてこの様さ」 自嘲した途端、激しく咳き込む。ごぽりと嫌な音がした。永くはないと、誰もが悟っていた。 虎一太は近寄ることもできず、微妙な距離を保ったままで、問いかけた。 「朱鷺次……ならば何故、お前はこうしてすべてを明かした」 茫洋とした中に、深い悲哀が揺れていた。 朱鷺次が心底元の勢力に忠誠を誓っているのならば、こうして種明かしなどせず死ぬべきだった。 あるいはこれも罠なのだろうか? すべてが虚構なのか。 「最期くらい」 殆ど漏れ出でる空気のような声音に、虎一太はハッとなった。 「最期くらいは、てめえで選びたいじゃないか。てめえが属する所くらい、さ」 どれだけ願おうと、生きている間はそんな自由は許されない。それが朱鷺次の選んだ道だった。 しかし、どこへ行っても自分にとっては仮宿だった。どれだけ心動かされようと、自らの意思で選ぶことなど叶わなかった。 ようやくその柵から解き放たれる。 「俺もとんだ甘ちゃんだぜ、ホント……」 でもな、と囁く。その瞳は、すでに焦点を失いながらも、どこか穏やかに微笑っていた。 視界の見えなくなった耳に、かさりと草の音がする。 「俺にとって、おめえや不知火たちとつるんでいる時間は、たとえ俺にとっちゃ偽りであったとしても、それでも楽しかったよ」 側から覗きこんでいるだろう顔に、朱鷺次はあてずっぽうに笑いかけた。 「遺言は二度は言わねえ。その代わり―――気をつけろ」 お前たち、“見られて”いるぞ。 耳元で囁くように、極めて静かに告げた。 そして朱鷺次は息を引き取った。 虎一太は傍らに膝をついたまま、その笑っている死に顔を見つめた。そっと開いた両目を塞いでやる。 彼が最後に思ったのは何だったのだろう。最後に色を失った唇が何かいうように動いて見えたのは、ただの断末の瘧だったのかもしれない。 「朱鷺次……今度こそ、地獄で会おう」 虎一太は瞑目しそっと囁く。 少しして立ちあがり振り返れば、京里忍城の忍びたちが無表情にそこで佇んでいた。物言いた気な、とても好意的とはいえぬ視線を、敢えて受けながら、虎一太は黙然と雷蔵を見る。 「悪いけど、手段は選ばせてもらわなかったよ」 そこに含められたもう一つの意味を虎一太は察した。 あの時、虎一太も雷蔵が放った針の常ならぬ動きを見止めていた。 虎一太は雷蔵が次期〈秘伝〉継承者と目されていることを知っている。要するに“あれ”もその一つなのだろう。だから雷蔵は助太刀したことについてだけでなく、暗に見なかったことにせよと釘を刺してきたわけである。 だが虎一太としては、そんなことよりも何の感慨も宿さぬ雷蔵の態度にどこかホッとした。 「……いいや、それでいい」 そう首を振った。虎一太の左腕には斜め一文字の裂傷がある。あのままであれば虎一太は致命傷を負っていただろう。それは京里忍城としては体裁上避けるべき事態だっただろう。雷蔵の判断は妥当であったし、そうやって割り切れる冷静さが、虎一太には心底うらやましく思えた。 と、不意に雷蔵が不思議な言を口に登らせた。 「まだ未熟だったってことだね。君も、俺も」 慰めとも反省ともつかぬそれを虎一太はぼんやりと聞いていた。 雷蔵の放った含み針を、朱鷺次は確かに避けていた。そのままであれば彼は事無きを得ただろう。だがあの一瞬、雷蔵は風を動かす呪を使い、軌道をずらしたのだ。しかし習ったばかりの術であり、実戦に使うのは初めてであったから、操作がひどく鈍重で、動かせたのもほんの僅かばかりであった。雷蔵が未熟と評したのは、そういう己の術遣いの拙さであり、虎一太の『陽炎』の手慣れなさであった。 そこまでの真実を知りえたわけではなかったが、虎一太も雷蔵の言わんとしている真意はなんとなく理解できる気がした。だからだろうか、その言葉は心の底深くに刻みつけられた。 もう一度だけ、長年来の親友を見下ろし、黙祷するように一旦瞑目してから、顔を上げた。 「大分時間を無駄にしてしまった。急ごう」 |