どれだけそうしていただろうか。 太陽はとうに姿を消し、空は山向こう隅に夕焼けを残しながら、太陰に位を譲ろうとしている。 闇に暮れつつある中で、不意に薄っすらとした影が顔にかかった。 (さて、要注意人物のお出ましだ) 他人事のように思いながら伏せていた瞼を開いた。 「やぁ」 隣に腰かけ、にこやかに笑みを浮かべている面へ、とりあえずこちらもにこやかに返してみる。世間知らずの娘らしく怯えてみせるか、はたまた驚いてみせるか。逡巡は一瞬。しかし下手に装うよりも自然体で接する方が勘ぐられないと判断した。 「どうも」 「部屋に運んでもらってると思ったけど、いつの間にこんなところに来てたのかなぁ」 「厠を探して迷ってしまったもので」 ひらりとさり気ない所作で立ち上がる。あとには手が宙で所在なげに浮いていた。春季は空を切った己の腕を見て少し悲しそうな顔をする。 「怖くないの?」 「何がでしょう」 「いきなり見も知らぬ屋敷に連れてこられたっていうのに、随分落ち着いているからさ」 春季の目が好奇心に光っている。 雷蔵は小首をかしげた。本当は肩を竦めたいところが、残念ながら女の仕草ではない。 「不安と思えば不安だし、そうでないと思えばそうでもないものですよ」 「……禅問答か何か?」 「残念ながらうちは一向宗です」 現在の名目上はね、というのは心の中で付け加える。 廂に座ったまま、毒気を抜かれた風に春季が見上げてくる。 「ねえ君さ、変わってるって言われない?」 「よく言われます」 本人も充分変わり者であるはずの親友や相棒に再三言われるほどに。 衣擦れの音が立つ。春季が起ちあがって、庭に下りた。何故か脇差しか差していない。 さり気なさを装いながら、歩を退く。じりじりと一定の距離を保った。 「そんな警戒しないでよ」 若干傷ついた表情で春季が言う。 「無差別婦女誘拐魔を警戒するなと言われても」 「その無粋な呼称はやめてくれない? 一応俺、女子に手荒な真似はしない主義だし」 「思いきり手荒なやり方で拉致されたような気がするんですが」 「花盗みは男の浪漫じゃないか」 佐介がこの場に居れば全身に寒疣をこさえて嫌悪の絶叫を上げていたところだろう。幸い、神経は雷蔵の方が数倍図太かった。これしきのことで狼狽えていては忍びは務まらない。 「なるほど、頭の螺子が一二本足らぬというのはどうやら本当のようだ」 淡々と述べられた内容に、春季の顔がぴしりと音を立てて引きつる。 「君、見かけによらず毒舌だねぇ」 「よく言われます」 朗らかに笑んでみせた。 瞬間、閃光が走った。 翻る刃が脇差のものだと、一目で見極める。むしろ雷蔵の目は鞘から放たれるその瞬間から捉えていた。剣先に殺気は感じられない。避けようと思えば紙一重で躱せるし、更に後の先を取って攻め手に移ることもできる。だが相手にこちらの力量を量られることの方を雷蔵は避けたかった。まだ様子を見た方がいい。と、一瞬のうちにこれらのことを計算する。 だから敢えて光に恐れを為したように大きく退いてみせた。踵が何かに引っかかる。 よろけた背中に当たる樹の感触。今のは土の上に張り出した根だったか。 ヒュッと頬を風が切る。左耳に幹をざくりと削る音が生々しく響いた。 視界の左端に見える短刀をちらりと一瞥し、柄を握り締めている青年の顔に視線を移した。―――できるかぎりの驚愕を浮かべながら。 「化けの皮が剥がれたね」 剥がれたのではなく、実際は別の皮を“被り直した”の間違いだが。雷蔵は心の中だけで訂正した。むしろあと何枚剥けば素顔が現われるのか、己でさえ分からない。 「これは一体どういうことでしょう。婦女に手荒な真似はしないはずでは?」 「棘も毒もない、ただのか弱い娘ならね」 「棘も毒も持ってなんていませんよ」 いけしゃあしゃあと言ってのける。 「でも爪と牙は隠し持ってる。でしょ?」 雷蔵はそっと脱出方法を模索した。後ろには樹、左には刃、右は腕をしっかり取られていて、完全に閉じ込められている状態。 「花のことなら俺鼻が利くんだよね。ねぇ君さ」 顔を近づけるようにして囁く。 「どこから派遣されてきたの、草のお嬢さん」 沈黙、そして睨み合い―――と春季は思っているかもしれない。実際は雷蔵は内心脱力していた。頭が万年常春のわりに予想以上に目の付け所は良かったものだから、多少は構えて待っていたのだが、至った結論が 「……二つほどお訊きしたいのですが」 「何?」 「そんなに近くで話さなくても聞こえるし、そもそもこの体勢話しづらくありませんか?」 「……本当に君って色気ないねえ」 一度ならず二度までも毒気を抜かれて、春季はがっくり項垂れた。「あーあ雰囲気台無し」と言いながら身を離す気配はない。 「こんな若い身空で、くノ一だなんて血腥いことしないでも」 雷蔵はそれについて肯定も否定もせず、 「年齢性別に関係なく、誰かがしなければ立ち回らない仕事というのも、世にはあるのですよ」 他人事のようにそう言った。実際、くの一について言えば他人事だ。ただし雷蔵は女の身を武器に、時に男以上の働きをする彼女たちを軽視したことはなかった。常に仲間として礼節をもって接していたし、彼女たちも己の仕事に誇りを持っていた。 |