3.儚き蝶は夢に舞い、空ろなる蝉(うつつ)に鳴く



 話を聞き終わって、佐介は呆れた顔をした。

「そんであいつに付き合って甲斐まで行くつもりなのか? 随分物好きになったもんじゃねえか」

 雷蔵は首をかしげながら、「まぁ気紛れだよ」と言った。実際自分でもこれといって大きな理由があったわけではない。ただ、きっかけを強いて言うならば、惣之助の唄を聴いたからだ。たとえ歌うものは異なっていても、同じ唄い手として思うところはあったのかもしれない。

「俺のことはともかく、今度はそっちの番だよ」
「ああ……」

 佐介はどこから話したもんかと、頭を捻った。

「まぁ、ぶっちゃけて言えば甲斐の虎と相模の獅子のことだ」

 甲斐の虎。それはこの戦国の世で知らぬ者はいない、甲斐の国主にして戦巧者武田信玄の二つ名だ。同じように越後の龍と呼ばれている佐介の主君とは、それこそ犬猿ならぬ竜虎の仲というのは有名な話である。一方の相模の獅子とは相州を治める北条氏の現主新九郎氏康の通称で、こちらもまた信玄に劣らぬ腕利きの国主だった。

「ここんところ足下あたりで気になる動きがあってな」

 足下の地名を聞いて、雷蔵は問いかけた。

「獅子と虎が仲間割れしはじめてるってことかい?」
「ご名答」

 皆まで言う暇もなかった佐介は少しばかり物足りなそうに鼻の横を掻いた。
 足下郡といえば、多少現在の世相に詳しい者ならすぐ察しがつく。かの地は獅子の住まう小田原城の膝元だ。
 氏康はなかなかの駆け引き上手である。国力を強大化させた手腕だけでなく、甲斐の武田や駿河の今川といった巨頭の大名たちと隣接しながらも巧みに渡り合う、切れ者の政治家であった。
 この甲斐、相模、そして駿河は隣同士なだけに度々緊張状態にあり、小競り合いを起こしていたものだったが、十五年前ほどであったか、武田信玄、北条氏康、今川義元の三者の間で婚姻による同盟が結ばれた。まずは今川義元の娘嶺松院が武田信玄の子義信に、その翌年武田信玄の娘黄梅院が北条氏康の子氏政に、そして更に翌年に北条氏康の娘早川殿が今川義元の子氏真に、それぞれ嫁いだ。

 信濃を抑えた後、本腰を入れて長尾氏との対立に専念したい武田と、上杉を追い出し関東支配を目論む北条、その両者に挟まれ敵対を避けたい今川。こうしてできた甲相駿の三国の同盟は、背景にはもちろんそれぞれに政治的思惑と利害があった。しかし最近になってその関係に亀裂が入り始めているという。戦乱の世の常であり、元々危うい糸の上に成り立っていた同盟である。長く持たないのは明らかであった。長尾氏にしてみれば、この両者のいがみ合いは歓迎すべきものである。三国同盟が破綻し、相模および駿河が南で睨みを利かせるようになれば、甲斐は迂闊に北の越後や上野に軍を差し向けることができない。逆もまた然りである。もしも武田が南を攻めれば、がら空きになった背後を突くことができる。
 三者間の関係の動揺は、長尾氏としては見過ごせない流れであろう。

「それで探りを入れに来たってわけか。―――まさかあわよくば獅子か虎かを暗殺せよなんて指令じゃないだろうね」

 物騒なことを平然と口にする。だが実際冗談でも何でもなかった。佐介も雷蔵も、忍びの負う闇の深さを知っている。
 しかし佐介は首を横に振る。

「んな命令を下すような方じゃねえよ。元々卑怯な真似を嫌うような変わり者だ。忍びを使うのだって、甲斐から度々放たれてくる乱波者に対抗させるくらいだしな。俺も、あくまで様子を探るだけで、真偽がいかなるものであろうと、早まった行動は決してするなと釘刺された」

 それを聞いて、雷蔵は小さく笑った。やはり佐介の選んだ相手は間違いではない。

「そうか―――でも、偵察をするならもっと小田原の近くがいいんじゃないのかい? ここも確かに足下の境内だけど、大分外れの方だろ」
「実は任務はもう完遂しているんだ。そんで折角だから戻る前に周辺の情勢も見ていこうと偶然ここに寄ったんだが、どうにも妙な動きがあるもんだから気になってさ。女城主というのも変わっているしな」

 どこかに上手く付け入れられそうな隙があるなら、ついでに探っておこうということだろう。上手くいけばそこを突いて、三者の間の亀裂を更に決定的なものにできる。
 そこであっと思い出したように佐介が声を上げる。どうしたのかと怪訝そうにする雷蔵をまじまじと見やった。
 
「そういや訊きたかったんだけどよ、何でお前俺の主が分かったんだ?」

 前に訊こうとした時にはすでに別れた後だった。また再会できたら訊いてみようと思っていたのだ。

「ああ、そのこと」

 雷蔵は何だとばかりに瞬きをした。

「少し考えればすぐ分かるよ。まず出家している大名なんて数えるほどもいないし、その中で〈秘伝〉の噂に踊らされていない人なんて限られてくるじゃないか」
「何でそんなことが分かるんだよ」

 「だって」と雷蔵が笑う。

「〈秘伝〉を手に入れたいなんて思うような主君に君が仕えるわけがないからね」

 そう言われ、佐介は呆気と憮然がない交ぜになった顔で黙りこんだ。図星であるがゆえに非常に面白くない。
 いつの頃からか大名達の間に実しやかに流れるようになった忍びの里の〈秘伝〉の噂。誰が言い出したかは分からないが、実態を知る一人である佐介には、そのような超常を求める者についていく気が到底しなかった。
 だが正直に認めるのも腹立たしいので、咳払いをして話題を変える。

「それはそうと、それでこれからお前はどうするんだよ」

 雷蔵は顎に手をやり、思案顔をした。一通り考えを巡らしたところで、首を上げ同胞の顔を見る。

「俺もしばらくここに留まろうかと思う」
「何だってぇ?」

 佐介が素頓狂に声を上げた。はたとして左右を見やりながら、声量を落とし、しかし恐ろしげな面持ちで囁く。

「おい雷蔵よ、冗談じゃねえぞ。いてどうする気なんだ。今自分がどういう状況でここにいるか分からないわけじゃねえだろ」
「よくわかってるよ。地侍の家来に攫われて貞操の危機寸前」

 ヒィッと佐介が大仰に身を引いた。全身の毛を逆立て、両手で頭を挟み悶える。

「耳にするだけでも怖気が走るからやめてくれ!」
「君ね、さっきから言ってるけど被害者は俺なんだけど」
「だから余計に鳥肌もんなんだろ!」

 酷い言い草である。
 ひとしきり罵倒を口にしたあと、「まぁいい」と木に手をつき、佐介は深呼吸をして何とか感情を落ち着かせた。
 そして振り向きざまビシリと元同胞に指差す。

「ひとまずあの頭のネジが一、二本緩んだ気障野郎は無体はしないというのが信条らしいから、ひたすら逃げときゃ問題はない。お前ならお手のもんだろ」
「へぇ、それはいいことを聞いたね」
「けどな」

 佐介の声音がふと低くなる。双眸も若干座っていた。

「あいつ、お前が只者じゃないことにどこかで勘付いているぜ。猛犬野郎もだ。完全に正体に気づいているわけじゃなかろうが、油断はできん。特に実治の嗅覚はまさに動物並だからな。せいぜい気をつけろよ」

 それはそれは。雷蔵はわずかに目を眇め笑んだ。やはり久々で女になりすますのは些か無理があったかもしれない。

「何が目的か知らんがさっさと用を済ましてこっからオサラバしろ」

 でなきゃこっちの身が持たん、というのは佐介の心の声だ。それが聞こえているはずもないが、雷蔵はのほほんと聞いている。

「はいはい、用が済んだら、ね」
「癇に障る野郎だな……」

 半眼で口元をひくつかせる佐介の顔は、いよいよ諦めの境地に入っている。
 と、不意に風に乗って佐介の偽名を呼ぶ声が聞こえてきた。佐介はあわてたようにそちらを見やりつつ、

「いいな、くれぐれも長居なんざするんじゃねぇぞ! 俺も援護しきれないからな!」

 最後振り向き様に釘を刺し、見る間に去っていった。何だかんだ言って面倒見の良い男である。
 さて、と手持無沙汰になった雷蔵はひとまずその辺りの廂に腰かけることにした。女物の着物なので胡坐をかいたりできないのが不便である。後ろ手をついて空を仰いだ。暮れゆく空が鮮やかな黄金色に輝いている。美しかった。

(惣之助殿は果たして甲斐を目指しただろうか)

 「入った」ではなく「目指した」と思うあたりに、雷蔵の予感があった。
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