春季は気づけば涙を流していた。 広間はしんと鎮まっている。ある者は茫然とし、ある者は泣いている。 あまりに胸を締めつける歌声に、音色に、旋律に、響きに、今も心が打ち震え止まらない。 天井に光の花びらが煌めき舞ったように見えたが、瞬きの後には消えていた。まるで白昼夢を見ているようだった。 唄い終ると同時に、惣之助は座ったまま立ちくらみを覚えた。まるで重石を乗せられたかのように、身体の奥底から急激に疲労が溢れだす。 思わず体勢を崩しかけたところを、雷蔵が傍らから支えた。 「お疲れ様」 「ああ……」 眩暈を追い払うように目頭を押さえるが、閉じた眼裏でも光が明滅し、頭から血が退いて寒い。 「何だかひどく……頭が重い」 「初めてで一度にこれだけを浄化したからね。消耗しているんだ」 雷蔵は周りに聞かれぬよう潜め声で囁く。 「人の魂の負荷を昇華するには、請け負う方にも相当の負担がかかる。俺だけでは三人分を同時に浄化することはできなかった。君が半分請け負ってくれたおかげだよ」 そう微笑む雷蔵に、すべて成功したことを惣之助は悟り、弱々しくも頬を緩めた。 「それじゃあ」 雷蔵が頷くのを見て惣之助がほっと胸をなでおろした瞬間、正面でカタリと音が立つ。 皆が息を飲み、几帳を注視した。 彩り鮮やかな衣の陰から、一人の女がゆっくりと進み出る。衣が畳を擦る音がさやさやと鳴った。 現れた姿に、瞼を上げた惣之助は軽く息を飲んだ。 醜く恐ろしげな面がこちらに向けられている。 「妾は」 内に籠もる声からは、しかし先ほどの薄ら寒さはかき消えていた。 「道を違えていることに気づいていた……」 静かな独白に、そこにいる者達は黙って耳を傾ける。 「妾は父上様より大事なお役目を頂いた。けれどもこの身にこの座はあまりにも重く、ただ辛さばかりが募る。まるで首を絞められるかのごとく息苦しくなった。苦しさから逃げたくとも、妾にはそれができなかった」 「御前……」 惣之助は戸惑い気味に隣の法師を見やり、「これは一体」と目で訴える。しかし雷蔵はただ唇に指をあてただけだった。 これは歌の力。浄化の呪歌は、穢れと闇に染まった魂を浄め、本来のまっさらな己に立ち返らせる。 〈祝い直し〉だ。 「何よりも苦しゅうてならなかったのは、病より得たこの醜い姿であった……」 その場に膝と手を突き、項垂れる。肩が震えていた。 「妾も領主である前に一人の女。しかしこのような姿を人前に晒す恥辱など、誰も解さぬ。陰で囁かれる痛みを知る者など。愛しい者に振り向いてもらえぬ悲しみなど」 辛くて苦しくて寂しくて耐えがたくて、ひたすら誰かにここから救い出して欲しかった。 「しかし今、そなたの歌を聴いて、ようやく己に返ることができた」 御前はゆっくりと上体を上げ、端坐した。手を袖内にしまい両膝に添え、衣を正し、凛然と姿勢を正す。 「惣之助殿。そなたには謝らねばならぬ。無辜のそなたを人に追わせ、謂われなき抑圧を加えてしまったこと。そして城内の臣と領内の民にも。妾の我儘に付き合わせ、要らぬ混乱を招いてしまったこと。断罪を受ける覚悟はできておる。―――実治殿」 無表情であった実治が唐突な指名にふと目を上げた。 御前の面は真っすぐに実治へ注がれる。 「楠木家の当主として、今ここに宣下いたす。領主の位と全権を我が従兄殿たる源一郎実治に委譲したい。受けるや否や」 周りの誰もが息を飲んだ。まさかの家督の譲渡である。このような交代劇など前代未聞だ。 春季は己の念願が思わぬ形で転がり出たことに驚愕している。 惣之助も、口出しできぬ出来事なだけに、当惑気味に前後ろを見比べる。雷蔵に至っては一人冷静に行く末を見守るばかり。 その他の家臣たちは動揺しながらも、固唾を飲んで実治の答えを待った。 「……某が受ければ、御前を処断せねばなりませぬが」 重々しく口を切った実治は、あくまで落ち着いていた。いっそ冷淡とも言える無感情さで、ただ二つの眼を向けている。 「本望です」 憑きものの落ちた御前は、いっそすっきりした様子ではっきりと応じた。 「妾はお役目を疎かにした。最早領主たる資格はありませぬ。処断は当然のこと」 覚悟の上であると、言下に再度強調する。 実治は瞑目し、一つ重く溜息をついた。 「では、謹んでお受けいたす」 実治が礼をし、衣を捌いて素早く立ち上がった。 はっきりとした是の答えに、ざわついていた広間はそれで再びしんとする。 実治はそのままスタスタと歩き、惣之助の横をすり抜けて御前の前に赴く。 「源殿!」 今度は別の意味で家臣群が沸き立った。「よもやこの場で今すぐ処断なさるわけでは……」 「御前様については日を改めて討議すべきこと、早まった真似は許されませぬぞ!」 さすがに慌てたように幾人かが声を上げ腰を上げなどするが、実治は一瞥を向け言う。 「新たな城主として最初の仕事をするまでだ」 そうして何の躊躇いも見せず、御前に向き直る。 惣之助は止めに入ろうとした。いくら彼女から迷惑を被ったからといって、このような結果を望んでいたわけではない。 しかし立とうとしたその肩を押さえたのは、雷蔵だった。 肩越しに振り向く惣之助に小さく囁く。 「心配ない。見ていてごらん」 その言葉に、内心ハラハラしながら惣之助は再び二人を見やる。 丁度実治が刀を抜いたところだった。 すらりと鞘擦れが鳴り、刀紋が光る。 「お覚悟、確かに承った」 罪状を下す奉行のごとく申し渡し、あとは一息であった。 その瞬間、春季は思わず顔を逸らした。 しかし、あっと上がった誰かの声で、そろそろと目を開けそちらを向く。 御前は依然としてそこに座っていた。 しかしその膝元には、見事に両断された面。 御前ははじめ瞳をきつく瞑っていたが、やがて異変に気づいて開かれ、落ちている面を見てから、驚きに染まりつつ上を見上げた。 晒された顔立ちは、美しくも醜くもない。十人並みと言えばそれまでであるが、垂れた目尻は素朴で純真そうであった。しかしその右側半分は、醜く赤く爛れ、瞼が目を覆うように垂れている。 「これで終いだ」 絶句している御前へ、実治はぶっきらぼうに吐き捨てた。 「それがお前の素顔か」 「な、何故」 御前の左の瞳からじわりと雫が溢れ、頬を伝う。 「妾は殺してくれと願ったのに……こ、このような」 ついに両手で顔を覆った。 「このような姿、貴方には見られとうなかった。見られぬまま死にたかったのに」 わあっと泣き咽ぶ御前の様子に、広間に集った者たちは訳が分からず反応に困っている。 「もういいだろ、節」 本名を呼ばれ、御前の肩が震えた。 実治は無造作に刀を板床へ突き立てると、片膝をついた。 「十分だ。すべて初めから仕切り直しといこう」 「今更何を。少しでも憐れと思うならば、余計な情けなどかけずけじめをつけて下され!」 「けじめはつけた。今ので帳消しだ」 節は顎を上げ、キッと睨みつけた。 「それでは収まりがつきませぬ!」 「いいや? 意外とそうでもねえぜ」 にやりと実治は口角を上げた。 「節、嫁にならねえか?」 その瞬間、広間中の何かが抜け落ちた。すこん、とそれはそれは気持ちよく。 それまでの緊張など、塵のごとく霧散していく。 皆一様にあんぐりと口を開けて、この予想外の展開に我を失している。 ぽかんと実治を見上げていた御前も、はっとして憤った。 「た……戯れを!」 「ふざけてなんかねえ。一世一代の大真面目だ」 「なんという」 「是か否かはっきりしろよ」 実治はいささか憮然と眉根を寄せ、それから真面目な表情をした。 「大体、俺とお前が 委譲や下剋上などという不祥事を起こすことなく、実治は正式に領主を継げ、同時に楠木家の血筋は絶えることもない。 「……」 節の頭の中は動揺で一杯となり、嵐吹き荒れるほどに混乱していた。 震える手で面に触れる。 「だ、だって、私はこんなに醜くて、でも貴方は美しい だからこそこの後遺症を得た時に絶望のどん底に落ちたのだ。実治に、汚らわしいものを見るような目で見られるのではないかと、それだけを怯え、面で顔を隠した。 信じられぬと、呟き続ける節に、実治はついに憤然となった。 「ぐだぐだうるせえな。これでも俺の方は意外と気に入ってたんだ。不満か」 両手でグッと涙にぬれるその頬を挟み、面を合わせる。 「楠木節、受けるか否か」 節は一度息を飲んだ後、はっと意を決したように瞬いた。 その目尻から最後の一滴が筋を描く様が美しいと、その時春季は芒洋と思った。 |