「おい春季」 背後からの聞き馴染みある声色に、春季は振り返って笑顔を浮かべた。 「あ、ハルちゃん」 行き帰りは他の家来衆がいるし、日中実治は城にいるし、夜は夜で春季も頻繁に外出したりしているしで、こうして二人だけで会話する機会は実際は少ない。それ以上にここ最近の目まぐるしさに、春季は随分長いこと実治と膝を差していないような気がした。 「どうかした?」 何の前置きもなくいきなり脳天に手刀が落ちる。「いったあ!!」と春季が騒がしく悲鳴を上げて蹲った。 「な、何するんだよう、いきなり」 目玉が飛び出すのではないかという衝撃であった。ちかちか星のチラつくのを瞬きで宥め、頭を押さえながら睨み上げる。 実治はしばらく感情の読めぬ眼差しを注いでいたが、何故だか深々溜息をついただけだった。 「なんとなくだ」 「……君はなんとなくで出会い頭に人の頭を殴るのかい」 「そういうこともあるよな」 「あのね……」 わけのわからなさに春季は若干胡乱気だった。そんな曖昧な理由でいきなり暴力を振われたとあっては割に合わない。だが実治は実際そういう斑気のある性質なので、よく知る春季は「ま、いいけど」とあっさり流して立ち上がった。 「何だか久しぶりだね、こうして話すの」 「そうだな」 「ハルちゃん最近忙しそうだしね」 「ああ」 いつになく言葉少なの実治を春季は怪訝そうに見やる。こちらを見てはいるのに、視線はどこか上の空だった。 「何だか元気ないねぇ。疲れてるんじゃない?」 「疲れている、か……」 実治は渡り廊下から闇に沈む庭へと目を滑らせる。その口端が嘲るようにつりあがった。 「そうかもしれねえな」 春季が眉を顰める。 「本当に変だよハルちゃん。ていうか言動がらしくなさすぎて怖い。明日槍が降っても困るし、やっぱり早く休んだ方がいいよ」 酷い言いぶりだが、その声音には真摯な心配が滲んでおり、実治は悪態に対して反駁もせず「そうだな」と応じた。 軽く就寝前の挨拶を交して、互いに踵を返した時だった。 不意に背を向けたままで、実治が声をかけた。 「春季」 春季は足を止め、半身を返した。 廊下に佇む実治の背が視界に入る。 「お前、妙なこと考えてねぇな」 何を、とは言わない。春季の双眸は静かに瞬く。 「……」 間に落ちる数拍の沈黙。 そして春季は笑った。 「嫌だな、何も考えてないよ」 明るい調子だった。しかし、 「ねえ、ハルちゃん」 不自然に淡然とした声が夜闇に溶ける。 「俺はさ、ハルちゃんのためにならないことは、絶対にやらないから」 それは、聞く者をはっとさせるほど冷めた声音だった。 実治は振りかえらなかった。ただしばらくしてから、そうか、と小さく漏らす。 「……雨、降らなかったな」 唐突な話に、春季は一瞬きょとんと瞬きをしたが、何となくそこに含まれる深い響きを感じ取って、あえて何も返さない。 ふと実治が首を巡らす。何の感慨も浮かばぬ横顔は、外に向けられている。 「今宵も梅の香りが強い」と誰へともなく呟いた。 短い邂逅の後、部屋に戻った春季を待ち構えていたのは、柔らかい布団でも暖かい女の肌でもなく、冷たく光る凶器だった。 襖を開けた目の前に、刃渡りが長く横たわっている。高さは丁度春季の首と身体を両断できる位置。あと一歩踏み出していたらどうなっていたことやら。 喉仏すれすれの刀身に、背中を流れる冷や汗を感じながら、春季は唇を開いた。 「これは随分と刺激的なお出迎えだね、空蝉。ていうかハルちゃんとこの床の間の刀じゃないか? これ」 怒られる……と、実治の刀蒐集癖を知る春季は気が気でなかった。 「よくお分かりで」 軽く笑みを含んだ声が空気を震わす。人の正体を当てたことか刀の出処を当てたことか、どちらに対する感想なのかは分からない。 空蝉といえば、今日の昼時、佐藤の助言に従って薬種問屋で買い求めた高価な高麗人参を贈ったところ、いつもの味気なさとは若干違う反応があって、春季は実に晴れやかな、胸躍る心地になった。今までの手管が人参ごときに負けたという感がなくもなかったが、そこはあえて考えない。ともかくも少し足がかりをつかめたような気で有頂天になっていたところなのだが―――この仕打ちは、一体どんな報いなのだろうか。 「こういう猟奇的趣向も悪くないけどさ、そろそろ外してくれないかなあ?」 これでは部屋に入りたくとも入れない。 「そこでそのまま聞いて下されば結構」 当惑する春季をそっちのけで、声だけが続く。どうやら襖の向こう側にいるようで、姿は見えない。部屋の主を追いだしておいて話とは、随分な態度である。 だがそのことに怒るよりも、次の内容の方に春季は耳を傾けた。 「御前様と対面する段取りをつけてください」 「ということは、準備が?」 「万端―――というほどでもありませんが、まあほぼ問題なく」 「決行はいつ?」 「明日午の刻」 「え、えぇ?」 明昼とは、あまりにも突然すぎる。 「そんな、せめて3日待ってよ」 「死にたければ構いませんが」 キラリと刃先が光った―――気がした。 「命が惜しければ、言う通りにすることです」 「脅す気かい?」 「まさか」 殺気の欠片もない、いけしゃあしゃあとした即答が返ってきた。 「忠告です。貴方のために言ってさしあげているんですよ」 昼間のお礼にね、と付け加わわる。 「それはどうも」 こんな状態で忠告も礼もあったものではない。春季は思わず半眼になる。 「でも現実的に考えて、明日ってのは無理だよ。まずは根回しから……」 春季は葛城に渡りをつける気でいた。葛城は仲間の中で平野の息がかかっていないことが分かっていて信用できるし、春季が言えばきっと内から入城の手引きを引き受けてくれるはずだ。しかし時刻からして、今から葛城の屋敷に行って頼むことなどできない。大体にして御前を謁見の間に引き出すにはそれなりの準備が必要なのだ。 「必要ありませんよ。まあ、一種の鶴の声というやつで」 「は?」 「こう言えばいいだけです。『御所望の流れの謡曲師が、御前様の御為に謡いを献上仕ります』と」 春季はハッと大きく瞠目し、瞳だけを声の方に向けた。今何と言った? 「流れの、謡曲師……だって?」 「ええ」 「それは―――……」 「そういうことですよ」 春季の問いかけを封じるように言が重なる。 「正面から行ってもいいんですが、そうすると色々と余計な邪魔が入りそうだし、牢屋にご案内されても困るのでね。だからこの札はギリギリまで切らないでください」 ではよろしく頼みましたよ、と一言残すや、不意に襖を挟んだ気配が掻き消える。 慌てた春季が、依然動かぬ刃の下を潜って襖の裏を覗いた時には、すでにそこに人の影はなかった。刀は、襖を填める木枠に食い込ませられているだけであった。 |