11.逃げ影に追い影あり、忍び病に妙薬なし たゆたう。聞こえる音の流れに身を任せながら、どこか遠くをゆっくりと舞う。楽器、謡、旋律、声、そして香。 曲に乗って意識を遊ばせる惣之助を、雷蔵は弾く手を止めぬまま見据えながら、そろそろか、とひっそり声なく漏らした。 埃だらけで帰って来た佐藤こと佐介を厩の裏に導いたのは、実に懐かしい音だった。知らぬ者にはただの啼鳥の声にしか聞こえないだろう。しかし鳥の声に模したそれは、忍びだけが用いる合図だ。よく耳を凝らすと決められた規則に沿って音程と長短が組まれている。 相変わらず変装姿のまま待っていた雷蔵は、ひとしきり佐介の有様を見て両目を瞬いた。 「これはまた男振りが上がったね」 「だろ。我ながら男前すぎて惚れ惚れするぜ」 揶揄に、佐介は口をへの字に曲げて答える。しかし軽口が言える余裕はあるようだ。 「帰りがいつもより遅かったところを見ると、相当手強かった?」 「いや、別にそういうわけじゃないんだが」 歯切れ悪く応じる佐介の様子は心持ち疲れ果てていた。 「今度はどんな手で来たんだい」 大体何があったかは予測がつくが、とりあえず尋ねる。 「街中で肩がぶつかったかなんだかで、いちゃもん付けて来たのさ。五人ほどで破落戸のフリしてな。分かりやすいったらありゃしねえ」 「お約束だねぇ」 「お約束すぎて眼もあてらんねーから加勢したらこれだよ」 あげく春季から大変に感激され、二度目ということもあってか妙な仲間意識を持った目で見られる羽目となり、甚だありがたくない心地だった。 佐介はあちこちについて土の汚れを叩き落そうと躍起だった。しかし乾いた土は布の上で伸びるだけで、落ちるどころか余計被害を拡大しているようだった。 「全く、とんだ骨折りだ」 「ご苦労さん」 ちっとも悪びれていない雷蔵を半眼で見つつ、しかし鼻を鳴らして「いいさ」と顎を逸らす。 「その代わり銀一枚儲けたし」 大切な下賜刀も奪われずに済んだというものである。ついでに大いに活躍の目をみれた。久々に長刀を思い切り振り回せて大興奮だったのだが、嬉々とする佐介に色んな意味で恐れをなした敵方たちは士気を失い、最後には尻を捲いて逃げてしまった。情けない奴らだぜ、とぷりぷり憤慨している佐介に雷蔵はあえて何も突っ込まないことにした。 「で、そっちの首尾はどうよ」 「ぼちぼちってところだね」 「はっきりしねぇなあ」 佐介が壁に背を凭れさせながら不満げに鼻を鳴らす。だがよ、とにわかに真面目な表情をして声を潜めた。 「急いだ方がいいかもしれないぜ。あちらさんは最終手段に出るつもりだ」 雷蔵は首を巡らし、視線で無言で先を促す。 「影の尾を引いたら 破落戸に扮した刺客が逃げる最中、佐介は視界の端でそっと走り去る影を捉えた。これを尾行したところ城に至り、ついでに黒星―――佐介隠語によるところの親玉のことだが―――と接触したので、そのまま天井裏に身を顰めて会話を盗み聞いたのだというわけである。 敵は大将自ら直接標的に接触し、油断しているところを狙うつもりだ。 雷蔵はその大胆な計画よりもむしろ、そこまで大胆な動きをしてなお見破られぬ佐介の働きに感心した。 「君は本当に優秀だねえ」 「当たり前だい」 佐介が胸を逸らした。これでも元 「そうなると確かにこっちも愚図愚図してられないかな」 口元に手をやり、雷蔵は独り語ちる。実際、惣之助の方はもうほとんど問題がないのだ。元々専門的な技術に支障はなく、惣之助が自ら封じているだけなのである。まっさらな状態で一から教えるわけでも、五割の技能を十割に引き上げるという手間もなく、有からそのまま有を取り出すだけなのだから大量の時間を要するというわけではなかった。今の惣之助は梅香のために、もう一度謡うことに向き合う覚悟をつけ、前向きに勘を取り戻そうとしている。それにさすが神歌唄いと言うべきか、通常は難解な呪歌の唄法を、予想以上の速さで習得してみせた。 あと必要なのは、本人の決心。 雷蔵の瞳は何事かを思い、静かに光っている。それを横目で見ながら、はたと佐介は別のあることに思い至った。 しかし何故だかすぐに言いだすのには逡巡を見せ、視線をぐるりと彷徨わせたあと、 「あとよ」 「何?」 思考を中断した雷蔵は、いつにない佐介の様子に軽く小首を傾げる。 「あの綿菓子野郎のことだが」 どこか気まずそうな切り出しである。 「そのー、ちと気をつけた方がいいかも、なんだぜ」 「何が?」 おかしな言語を使う友人をいよいよ訝った。 佐介は回顧しつつ訥々と語る。 昼のことである。 城から抜け出した後、佐介は屋敷に着いてすぐに雷蔵に街での一件を伝えるつもりであった。ところが門の所でうっかり春季に掴まった。しきりに浴びせかけられる礼の言葉を適当に流して退散せんとした佐介であったが、春季から「このままでは収まりがつかない」とがっちり腕を掴まれた。 そのまま固辞するのも構わずずるずると引っ張られ、街中の料理屋で(昼間だと言うのに)散々酒と肴を振る舞われたわけである。帰りの遅さはこのせいだったが、まあそれはいい。その後街中を色々連れまわされたことも、今は置いておくとしよう。 問題は、帰途に訪れた。 くたくたになっていたところにふと春季が立ち止まった。訝んで振り向けば、彼は簪屋の前でじいっと佇んでいる。 佐介としては余程そのまま置きざりにして先にトンズラしたい心地だったが、そういうわけにもいかない。声をかけようとしたところで、先に春季が口を開いた。熱心に並ぶ商品を見つめながら、 「ねえ佐藤殿、女子って一体何を貰うと喜ぶものなのかな」 妙なことを口走る。こいつ酔ってんのか?と佐介は怪しんだ。一応見たところ春季は正気のようだが。 まあ年中酔狂に耽っているようなものだというのが佐介の春季に対する見たてであったから、その時は深く考えなかった。 「そのようなこと某に聞かれても……その手のことは、仙台殿の方がよほど精通されておろう」 「うーん、そうなんだけどさあ、残念ながら普通の女子じゃないからなぁこれが」 「ああー……」 あの、と佐介の視線がそこはかとなく泳いでいることには気づかず、春季は品物台を前にしゃがみこみ、睨むように双眸を眇めつ顎を撫でる。 「草花も駄目、装飾も駄目、着物も駄目、書物も駄目、動物も駄目、極めつけは飲食の類も駄目となると、他に何があるのやら」 そんなに試したのか、と佐介は最早呆れを通り越して憐れみさえ浮かんだ。否、やはり呆れて物が言えなかった。命狙われた後に行きつくことがそこなのか。もっと他にあるだろう、と声を大にして言いたかった。この能天気さはある意味大物かもしれない。否、やはりただの馬鹿だ。 阿呆ここに極まれりと、心身とも疲れていた佐介は「やってらんねー」とばかりに、げっそりしながら言った。 「さあ……珍しい薬とか毒でも贈れば喜ぶんじゃないっすか」 うっかり素の口調まで出た。しかし春季は内容の方に気を取られたらしい。 「薬か毒って君ね」 「いや、人間、専門分野になると案外食いついてくるものではないかと思って」 雷蔵は基本的に何事にも淡白な男だが、やはり薬のこととなると心持ち態度も違うのではないか。 そう思った佐介の適当な応答に、ふと思いなおしたか春季も「そうか、それもそうかも」と肯きだす。 その時ようやく佐介はハッとした。うんうんと真剣に悩む春季を見ながら背中が冷える思いを味わう。 こいつはもしかしなくとも重症一歩手前なのでは――― 佐介にしてみたら、いくら女装に違和感がないとはいえやはり男であることに変わりがない雷蔵だが、なんたらは盲目とも言うし、 「蓼食う虫も好き好きって言うし」 「否定したいけど否定したくないなあ」 女物を身にまとい髪を垂らす雷蔵も、さすがに何とも言えぬ顔だった。蓼に例えられるのは納得いかないが、といってそれに文句を言うと内容自体は肯定しているようで、妙なことになる。 「しかしなるほど、これで分かったよ。犯人は君だね」 雷蔵は若草染の袂から渋柿色の無地の巾着を取り出した。中には桐の小箱が入っている。 なんだそれは、と佐介がぱちくりした。 「中身は高麗人参」 「……受け取ったわけだな」 「なかなか手に入り辛い材料だったからね」 言いながらちゃっかり袂にしまう。雷蔵は通常薬に関してほぼ自己採集で製剤している。しかし中にはどうしても国内で自生していないような薬材もあるわけで、そういうものはやはり薬問屋で購入するしかなく、押し並べて高価なのでそうそう得られない。大抵は『裏道』の闇市に行くが、それでも稀少は稀少、高価は高価なのだ。 それにしても――― やれやれと肩で息をつき、雷蔵はぼやいた。いささか面倒なことになったものである。 「しょうがない、そっちもなんとかするよ」 「できるのかよ」 「佐介も知っているだろ」 佐介が横目を送れば、雷蔵はにやりと微笑した。 「『空蝉』が何なのか、さ」 夫れ空蝉なるは、現にては実に見えども、其の存在を追わば煙の如く――― 「醒めては夢の如く、か」 佐介はぼそりと呟く。 それは京里忍城の忍びが初歩で学ぶ忍び正伝に記された文言だが、まるで忍びそのものの性命をあらわしているようだと、佐介はよく思ったものだ。 雷蔵も諦観めいた所作で瞳を伏せる。 「そう。まあ何とかなるだろ」 多分ね、と小さく付け加えた。 |