1.風韻飄々にして歌聲流々たり



 その歌声を耳にした瞬間、すぐに“同類”だと悟った。
 その男は色あせた紺の衣を纏い、丈の短い履物の膝下は素足のまま草履を引っ掛け、夜更けた街中を月に照らされながら歩いていた。どこか夢見心地なフワフワと所在無い足取りで、青く光る道の上を行くさまは、曝け出された足と相まってひどく寒々しい。

 真綿を踏むような歩き方は、酒を飲み酒に飲まれた者特有のものだった。陽気そうな酒の香の中にほのかな哀愁が漂っている。深々と冷える寒夜の空に、澄みきった鼻歌が溶けることなく響く。それはとても美しく、ひどく物哀しい響きだった。道の両側に軒並みを連ねる家々にはまだ明かりが灯っており、誰もが耳にしているだろうに、一人として外を覗く者はいない。皆静かにじっと聞き入っているようだった。

 雷蔵はたまたまそこを通りがかっただけだった。通りすがりのただの旅の僧侶。それ以上でもそれ以下でもない。これが芝居の一幕であれば確実に、一言二言呟いて情景に花を添えるだけの脇役であっただろう。それも初幕で、ほんの一瞬だけ登場して、後には忘れ去られるだけの。
 自身もその役割に甘んじるつもりだった。もとより何に対してもあまり興味がない。
 だからこの時も、自己主張する気などさらさらなかった。
 そう、その歌声を耳にするまでは。

 不思議なもので、鼻歌と言えども一声聞けば瞬時に分かる(・・・)。同業の勘とでもいうのだろうか。それ(・・)が特別であればあるほど、抜きん出ていればいるほど、より明確に聞き分けることができる。
 そして男の声音に含まれる悲哀は、当人の知らぬところで大きな影響を波及させていた。きっとこの旋律を聞いている誰もが得も言われぬ物思いを味わっていることだろう。
 雷蔵は男とすれ違ったのちに、振り向いた。笠を軽く上げ、藍色の背中を見送る。
 粗末な手ぬぐいで頭を覆う男は、それがおそらく全財産なのだろう荷物を腰や肩から下げ、巻いた筵を抱えながら、流離うように睦月の夜闇に吸い込まれていった。






 それからというもの、たびたび男の姿を見かけるようになった。

 一度目は人通りの多いとは言えない町の片隅に、腰をおろして座っていた。広げた筵の上には草鞋や袋、籠などの藁細工が無造作に並べられている。当然ながら稼ぎはあまりなさそうだった。たまに通る旅人が草鞋を買ったり、町の人間が物と引き換えに消耗品を貰いに来るくらいだったが、その細々とした収入でなんとか生計を立てているようである。どこにでもいる貧困層の民の姿で、特に気を惹かれるものはなかった―――いや、あるにはあったが、その時は別段気を留めなかったと言った方が正しいか。
 二度目に見たのは、前よりも数里離れた先の町で、昨夜の夜半過ぎのことであった。寝静まった町をふらふらと彷徨っていたのだ。

 そしてこれが三度目。

 雷蔵は茶屋に腰かけながら、茶を啜った。昨日とは更に三つほど離れた、街道沿いの町だった。
 よほど縁があるのか、男を追うような形で、あるいは追われるような形で、雷蔵の行く先々に彼は現れた。別に故意にでも示し合わせたわけでもない。ほかにも道はあったはずだが、三度もとなるとかなりの確率である。
 もしかせずとも、偶然などではなく、“何か”にそうさせられているのか。
 みたび目にした男は、前二回と変わらず着古した衣を纏っていた。藁細工を売る姿も寸分変わらない。衣の色は褪せ、全体的に老けた気配を醸し出しているが、裏腹に年齢は意外とも思えるほど若い。二十を少し過ぎたくらいに見えるが、自身の経験として、雷蔵は見た目だけで年齢は推し計れないことを知っていた。

 しかも男には、浮浪の民とは思えぬ空気があった。どれだけ粗末な服に身を包んでいても、滲み出るものがある。物腰とでもいうのだろうか、何気ない仕草、所作の一つ一つに品があった。しかもそれはあくまで自然で、無意識のもの。真っ直ぐに伸びた背筋からは、日々の心労へのやつれも、明日をも知れぬ生活への憂いも、根なし草の悲壮感も見られない。まるで進んでそこに身を置いているかのようで、どこか浮世離れしていた。
 雷蔵は甘味の付け合わせにあった漬物の最後の一切れを口に放り込むと、よく噛んで嚥下してから茶を含んだ。漬物の塩辛さのあとに旨みが後味となって舌の上に広がり、口中で緑茶の香りと交わる。この一時が特に気に入りだったりする。
 のほほんと幸せそうな表情で味わいを楽しみながら、一方でなにがなしに男を注視していた。
 以前の職業柄、さまざまな人間を見てきたものだが、その男は中でも少し変わっている。

 瞑想するように下を向いていた男の耳朶が、ピクリと動いた。ほんの微細な動きだったが、雷蔵の目にははっきりと捉えられた。そしてその原因も。これは目というよりは耳であったが。
 男はそれまでの静かな端坐が嘘かのように、にわかに落着きをなくした。双眸があたりをキョロキョロと窺い、何かに怯え警戒している様子を見せた。焦った手つきで広げた風呂敷を畳み始める。まだ陽は高いというのに、店じまいには少し不自然であった。無造作に荷袋に商品を放り込み背負うと、蓆を丸める時間も惜しいとばかりに引きずりながら早足にその場を離れ始める。
 男が視界から消えて、数時ほどしてからだっただろうか。数頭の馬の蹄の音が、男が去った方とは逆側から近付いてきた。道を歩く者、道端で売り物をしていた者たちが目を丸くし、そちらに顔を向ける。このような片田舎では、大きな事件が発生することはあまりない。皆驚きと怯えに身を硬くして、立派な着物に身を包んだ一行をぽかんと見上げていた。見たところどこぞの大臣に仕える下っ端侍が五人、出会い頭で片端から人を捕まえては何かを訊いている。尋ねるというよりは脅し吐き出させているといった風情だった。哀れな通りすがりたちは恐怖に慄いていた。

「このあたりに藁細工売りの浪人がいただろう、どこへ行った」

 侍たちはしきりにそれを訊いているようだった。あまりにも大きな声で怒鳴りつけていたから、別に耳をそばだてずとも丸聞こえである。
 横で、何事かと飛び出してきた茶屋の主人とその奥内も、突然のことに口を半開きにして店の入り口に棒立ちになっていた。雷蔵はそれとなく茶屋の中側、血気逸った侍たちからは死角になる位置に移動した。恐れているわけではないが、目をつけられても面倒だ。
 粗暴な男たちが手当たりしだい乱暴を働く中で、ようやく一人がある方角へと震える指をさした。男が筵を広げていた隣で、やはり売り物をしていた農民だった。
 否や、五人の侍たちは一斉に手綱を向けた。数日前に降った雨でできた泥の水たまりが撥ねる。茶屋の目の前を、地を響かせる音とともに馬が駆け抜けていった。
 嵐の去った後は、しばらく誰もが訳のわからない展開に唖然としていたが、やがて何事もなかった振りをして元通りの生活を再開した。
 「何だったのだろうね、一体」「できれば関わりあいたくないものだな。くわばらくわばら」店の主人夫婦もひそひそと言葉を交わしながら店の奥に戻っていった。
 雷蔵は無言のまま、湯呑の底に残っていた最後の一口を飲み干した。冷えた渋みが舌に残った。しかし瞳は、たった今嵐とその目が去って行った方を見つめていた。
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