9.凝る闇を引き裂くは一迅の風 私は誤まってなどいない。 ただただ、力を望んだだけ。 私の母は、美しい人だった。 美しく、そしてか弱かった。 物心ついた時より、母とともに諸国を旅し、渡り歩いていた。 父は知らない。気付けば、母と二人だった。 母もまた、父の事を言おうとしなかった。 私たちは、道すがら舞楽を披露し、占をしながら生計を立てていた。 どこにでもいる歩き巫女。 だが名ばかりの輩とは違う。母は、確かな力を持っていた。 母の占は、よく当たった。 そしてその血は、私にも確かに流れていた。 母は、かつてどこぞの大名お抱えの白拍子だったという。 しかしある時にその力が知られ、人々に気味悪がられ化け物扱いされて、路頭に捨てられたのだと。 母の舞は、流艶だった。 私の笛の音で母が舞えば、誰もが振り向いた。 しかし、女子供二人が生きていくにはそれだけでは到底足りなかった。 美しい母の舞に群がり寄る男達。 母は毎度その中の男に身を売って、金を得た。 夜毎のそれに私が気付いたのはいつのことだっただろうか。 そんなことを繰り返していたものだから。妙な病を 不思議と、涙は出なかった。 母の青白く痩せ衰えた遺体を見つめながら、私が思ったことは只一つ。 ああ、愚かな女だった、と。 前から、なんと莫迦なのだろうとずっと心の隅で思っていた。 人にはないこの力を、何故もっと利用しないのかと。 占だけじゃない。この力は、居ながらにして遠くの人を殺めることもできるのに。 凡人には非らざる優れた力を持ちながら、それを知られるのを怖れ、ひた隠し、まるで肩を縮み込ませるかのように生き、誇りも矜持も捨てて身を貶めた。 挙句の果てが、これ。 私は決してこのような屈辱的な生き方はしない。 こんな無様で惨めな死に方などしない。 私ならば、もっと巧くできる。巧くやってみせる。 この力を使えば――― 私は、呪殺を請け負うようになった。 旅すがら法師陰陽師の輩を代わる代わる誑かしては教えを請い、血を吐くほど努力した甲斐あって、私の行う術は強いものとなった。 やがて評判が立ち、様々なところから依頼が舞い込むようになった。 その中には、都の高官たちや大名たちもあった。 いつの時代でも、人間の醜さは変わらない。 そして人間とは、権力に比して欲に忠実になる。 「あいつが憎い」 「あの女を殺して」 私はその声に答えた。 その評判と、持ち前の美貌をもって、権力者に取り入った。 よく肥え脂ぎった愚者どもは、面白いくらい簡単に落ちた。 そうして金を得、権力を得、手の上に転がる人間達の愛憎劇を見て嗤いながら日々を過ごした。 下克上の風潮でその者が死ねば、また別の有力者の許に身を寄せた。 それでも獲物は、はじめはちょっとした地方の豪族だった。 だがやがて思うようになる。 こんなちんけな田舎の権力者よりも、もっと上物でもいけるのではないか。 綺麗な着物を着こなし、髪飾りを刺す大名の令嬢を見ながら、私は考えた。 そう、もっと上の―――大名。 私ならば、できるのではないか。 欲が、頭を擡げる。 私の中で、もうひとりの私の声が囁いた。 そうして、私はその声に従った。 先に取り入っていた肥えた豚に少し頼めば、すんなりと大名の屋敷へ名うての白拍子として足を踏み入れられた。 なんて簡単なことだろう。世の頂点さえ、容易く操れそうだった。 畳敷きも立派な大広間で舞を舞い、媚態を見せ付けて。 そして、その屋敷の主にしな垂れ、耳元で囁いた。殺して欲しい者がいないか、と。私が消してやろう、と。 なのにあの男。 生真面目そうな面をしたあの男は、断った。 何のためらいもなく、あっさりと。 憎い敵を呪殺してやろうと言ったこの私を厳然と拒み、あまつさえ屋敷から放り出した。 そして二度と領地内で呪詛を行わせぬよう、追放した。 あのときの屈辱。 私を凛然と見下ろすあの男の顔が忘れられない。 傲尊で、清らかさを気取った、憎らしいほど整った涼しげな面構えが。 強烈な憎悪が身を焼いた。 何故、何故、ナゼ―――!! 許せない。 許さない。 この私の矜持を踏み躙ったあの男。 あの時この私に雪辱を与え、拒んだ事を後悔させてやる―――!! 道上で憎しみと怨みに打ち震える私に、その時ふと声がした。 ―――チカラヲ、カシテヤロウカ?――― ―――オマエノソノノゾミヲ、カナエサセテヤロウカ――― 心に染み入る声音。 じわりじわりと侵食する。 不思議と、嬉しさと快楽が込み上げてくるような。 私は、迷う事無く是と答えた。 私は力が欲しかった。 あの女のように、惨めな人生などまっぴらごめんだった。 ただそれだけだったのに。 ナゼコンナコトニ――― 身を切り裂かれる。 凄絶な痛みが襲う。 風が吹きあれる――― 「ったく、お前も嫌味な野郎だな」 ボソリと不機嫌そのものな文句に、雷蔵は目を瞬かせて同胞に顔を向けた。 「『略式』なんか使いやがって、んなに余裕ならはじめっからあんな罠にかかるなっつーの」 「いやついうっかり。でもあそこで引っ掛かったからこそ、その後の一瞬の気の緩みをつくことができたとも言えるだろ?」 明るく笑って返すのに、佐介は「転んでもただでは起きねぇ奴」と呟きを漏らした。 「でも略式だなんてよく覚えてたね」 「そりゃ影縫いの術くらいは覚えてるさ。一応基本だからな。未だ嘗て使えた試しがねぇけど」 「まあ慣れだよあれも」 雷蔵が呪詛返しの前にあやめの身体の自由を奪った技。一般的に不動金縛りの法と呼ばれるそれは、本来長い真言と数種の印を用いるのだが、雷蔵が行ったのはそれの省略式である。その分敵を拘束する力は正式なものに比べ落ちるため、使いこなしの難易度は高い。 「つーかお前、あのデカブツどもにも薬盛ってただろ!」 「あれ? 分かった?」 「いくらなんでもあんな早く倒れればちょっとは疑問に思うさ!!」 そう。確かに佐介はあの護衛達を潰したのだが、実際のところ男達が徐々に力を失っていったのは予想外に早かった。その分片付くのも早かったのだが――― どうもその裏には雷蔵が先に忍び薬を使っていた気配がある。 「余計なことしやがって」 佐介は憮然と口先を尖らせる。 「いやー、でもほらあの巨体だからさ、通常の量じゃ全然効かなくて。戦っているときに少しずつ嗅がせてたんだけど、それでもやっぱり効果が現れるまでは時間がかかったね」 君がいてくれて助かったよ、とあっけらかんと言われるが、佐介としては面白くない。 なんとなく悔しい気分を抱きつつ、むりやり話題を変えた。 「にしたって、呪詛返しまで使えるとはさすがに知らなかったぜ。そんなこともやってたっけか?」 陰陽寮の忍びとよくつるんでいたことは佐介も知っていたが、実際雷蔵が呪術で呪術に対する場を目にするのは初めてのことであった。 「まぁ伊達にこんな格好してるわけじゃないしねぇ」と雷蔵は肩を竦める。ところで、と佐介を見やり、 「佐介はどうやってあの結界を潜り抜けてきた?」 この室に至るにはどうあってもあの黄泉比良坂のごとき結界を通らねばならない仕組みだった筈だ。雷蔵はそもそもその手の訓練を叩き込まれてきたからよしとして、佐介までもがあそこを巧く切り抜けられたとは思えない。 そんな雷蔵の疑問に、佐介は宙へ目線を彷徨わせながらあっさりと答えた。 「ああ、ありゃ別の路があんだよ。予め教えられてたからな、回避通路」 「……え?」 回避路があったのか。己の辿った道を思い返し、雷蔵は心なし肩を落とした。 そんなのがあるならはじめから探せばよかった。わざわざあんな苦労をする必要もなかっただろう。なんだか無駄に損した気分である。 「ま、これも経験ってやつだ」 佐介がにやりと人悪く笑う。意趣返しができて少し留飲が下がったようだ。 雷蔵はやれやれと嘆息しつつ、視線を御子から右の間へと移した。 「さて、と。そろそろ彼らを助けなきゃね」 最後のひとりを屋敷から外へ運び地面に横たえながら、佐介はついさっき同じように運び出した青年を見ている雷蔵へと声を掛けた。 「どうだ?」 「ああ、ここにいる人たちはなんとか持ち直しそうだよ」 青年の呼吸の調子に視線を当てたまま、雷蔵はひとつ頷いた。 すでに月は西の山端へ落ち、空が薄らと明るんでいる。 曙に照らされる屋敷は、昨夜のおぞましい儀式が嘘のようにすっきりとして見える。 それは朝日の清浄な光に晒された所為もあるが、冥府より吹いた返しの風によって血と呪に冒された『場』が清められたからであった。 雷蔵達がいた間と別の室には、まるで打ち捨てられたかのような有様で幾十の人間が倒れていた。 彼らは全員とうに自我を消失して廃人となっており、治療はもはや手遅れであった。おそらく彼らこそがあやめの言っていたところの「半数」であろう。 魘魅の反動によって心身を破壊され、使い魔に魂を食われた彼らは、このままやがて痩せ衰え心の蔵が止まるまで永劫に元に戻ることはない。 憐れだが、まだ助かる可能性のある者を最優先にすることにした。 甘ったるい香りに澱んだ屋敷内のよりも外の新鮮な空気の方が治療する上でも好いという雷蔵の提案で、佐介が専ら屋敷内の人間を一人一人外へ担ぎ出し、雷蔵が治癒にあたる。 村人たち、とはいっても、明かりの下でよく見てみるとすべてがすべて近隣の村の者でもないようだった。 纏う衣服の違いで分かる。そういえばここのところ旅人が消えるという噂もあったし、あやめがそれらしきことも言っていたような気がする。おおかた村落の者達にかどわかされたのだろう―――雷蔵の場合と同じように。 何も知らずにこんな目に合わされた旅人達にとっては全く災難としか言いようがない。 あやめに操られ、動きを制するために止むを得ず雷蔵が負わせた傷は、さほど重くなく少しの手当てで事足りたが、深刻なのはあの香の影響だった。 慣れていない者があれだけの量を急激に摂取していたのだから、中毒症状がどこまで進行しているのかが問題だ。人によって連れて来られた期間に差があるようだから、その分症状にも差が出る。 比較的症状のまだ軽い人々は、少しの療養で回復する。現に、呆然としつつもすでに意識を取り戻しつつある者もいた。 問題なのは症状の重い者だ。とにかく全員に投与するには薬は足らないし、対症療法で応急処置をするしかなかった。 「薬の処方だけは渡しとくから、あとは自分たちでどうにかしてもらおう」 「そうだな」 ふー、と疲れた溜息を吐きながら、佐介はその場に座り込んだ。 空を見上げる。日が顔を出すのももう間もなくだろう。 不思議な文様を描く紫の雲が、細く薄く山の端へと伸びていた。 「で、決着はどうする?」 「あ?」 一時ぼんやりと雲の流れを眺めていた佐介は、突然掛けられた声に我に返った。 「ああー……」 佐介は誤魔化すかのようにがしがしと頭を掻いた。そういえば終ったら話をきっちりつけるという約束だった。同時に忘れかけていた自分の立場と任務も思い出す。 「なんかいいよ、別にもう」 とぶっきらぼうに言った。 雷蔵はしばらく黙って見つめていたが、「そうかい」と微笑むと患者に目を戻した。 「じゃあ君がここにいた理由を聞いていいのかな」 佐介はしばし逡巡した後、ぽつりぽつりと語り出す。 「このところ、さる大名の家臣が次々と原因不明の病に倒れててな。みんな症状は同じなんだが、医者に見せても全く病因は謎。ところがこの大名は当人が出家してることもあってか『その道』にもちょいと知識があって、その現象が何者かの呪詛によるものだと看破したんだ。そしたら最近領地境の特定の村落で奇怪な事件が起きているという噂を耳にしてな。妙な術を用いて人心を惑わしている巫女がいるというから調べてみれば、その怪事と家臣達が倒れ始めた時期はほぼ一致する。それで俺が探りを入れるべく流れ者を装い奴ら一味に入り込んだってわけさ」 成る程ね、と雷蔵は頷いた。 だから佐介はもとからあやめ一派の仲間ではなかったのだ。佐介が助けに入ったあの時点で薄々感づいてはいたが、やはり本人の口から聞かないことには何とも判じがたい。だがこれでようやくすっきりした。 佐介の話によれば、彼は巫女一派の尻尾を掴み、呪詛との関連を見出すために間者となって探っていたらしい。 そしてあらかた証拠がつかめたところであやめの目論見を打破しようと機をうかがっていた所に、ちょうど雷蔵が通りかかったのだという。 そういえば諜報、情報操作、潜入工作は佐介の得手とするところだった。『按察使』とは、元来中央から派遣される地方監査の役職名だが、京里忍城においては各地の情勢の探査、すなわち諜報員のことを指した。 「とすると、佐介は今その大名殿に仕えているわけか」 雷蔵が小さく笑えば、佐介はバツが悪そうな顔で頭を掻き、まぁな、とぼそりと呟いた。 そんな佐介に、不意に話題を変えて言う。 「そう言えば君は、十人家族だったけど」 佐介の気が強張るのが背で感じられた。やや遅れて、ああという返事が返ってきた。 「皆は?」 「―――死んだよ」 佐介は目線を落とした。 「親父もお袋も、爺ィどもも含めて、佐門の家で生き残ったのは俺だけだ」 低い呟きに雷蔵はそっか、とだけ小さく返した。 「近衛中将だった佐上殿もか」 佐介は八人いる兄弟姉妹のうちの次男坊だった。その佐介より三つ上の長男佐上は京里忍城の中でも中心的機関である内里の砦の警備を担う『近衛府』の次官であり、位は雷蔵と同じく上忍であった。警備と言っても実際は里の重要機密を守るもので、かなりの実力者でないと任せられない。 「兄貴は俺だけ先に逃がして、太助たちを救いに行ったけど結局そのまま―――」 「……」 佐介が特に情に厚いのは、兄弟が多く、また多忙を極める長男に代わり幼い頃からずっと彼が弟妹達の面倒を見てきたからだった。だがそれをあの戦火が一度にすべてを奪った。佐介にとってはあまりにも耐えがたく大きすぎる喪失だっただろう。 肉親を喪う痛みは、身を引き裂かれるよりも辛い。 堂内での佐介の言動を思い返し、雷蔵は遠く炎に沈む里の光景を眼裏に蘇らせた。 「悪かったな」 と、にわかな謝罪に、首をめぐらす。 佐介は更に居心地悪そうにそっぽを向いている。 「あン時のこと―――あれはただの八つ当たりだ」 雷蔵の姿を見たとき、目の前が真っ赤になった。衝撃のあまり、我を忘れた。やるべきことも、任務も忘れ、一時頭を占めた激情に暴走した。 けれども。 「本当は分かっていたんだ。あれがお前のせいでも誰のせいでもないことも、お前にはお前の事情があったんだってことも」 「……」 「だけど、意味がないことだと分かっていても、もしもあの時って思わずにはいられなかった。もしかしたらみんな死ぬことはなかったかもしれない。そんな感情の行き場がなくなって、何かに怒りをぶつけなきゃ気がすまなかったんだ」 「うん」 ぽつりぽつりと紡がれる懺悔に、雷蔵は静かに頷き返す。 「手前勝手なもんだよな。あれだけ人を殺して、他人の家族や友人を奪っておいて、なのにいざ自分の身近な人間になると失いたくないなんて」 佐介は自嘲気味に笑った。怒っているような、不機嫌そうな、そんな複雑で歪んだ笑み。 「それが、人間の感情ってものだから」 傲慢で、理不尽で、醜くて、利己的で欲深くて―――だからこそ尊く光るものがある。 雷蔵は双眸を正面に戻した。 横たわる村の青年の、緩やかに上下を繰り返す胸元を見下ろす。 「そう思えるだけ君は心があるということだよ」 羨むべきことだろう。 自分には、そう感じる心さえとうの昔に凍りついてしまったから――― 本当の化け物は、妖に憑かれた歩き巫女でも、呪いを施された護衛たちでもなく、実は自分のほうかもしれない。 佐介からは見えないところで、雷蔵は色のない微笑を浮かべた。 |