しばらく無言の時が過ぎた。音と言えば、焚火の薪が時折爆ぜて立てるくらいなものだ。
 浅葱は考え込む風情で足元の土塊をじっと睨み、雷蔵もやはり黙々と火を絶やさぬように薪を掻きながら(これも常日頃はやらない。長きに渡る職業病で、暗闇の方が馴染むというのもそうだし、夜間は大体外敵を避けて木の上で休息を取るので焚火する必要がないのだ)ぼんやりしていた。何かを思い耽っているように見えて、実は何も考えていない。ある意味で僧侶の形に相応しい、全くの「空」の状態だった。
 その静寂に、不意に波紋が広がった。
 雷蔵は音もなく静かに、しかし敏感にそれを察知した。
 目に見えず、耳に聞えぬ漣が、空間を不穏にざわめかせる。
 先程まで何もなかった空間がにわかに息づいた。木立の合間に気配が揺らめいているような、周囲の筒闇の内にあたかも何かが潜んでいるような。それらがじっとこちらを見つめる視線。
 浅葱が動揺したようにビクリと肩を揺らし、身を縮こませる風に固くした。目が怯えるように揺れ、頬は明りの中でもはっきりと蒼褪め硬直している。これまで見せて来た強気で不遜な少年はそこにいなかった。向かいに座る雷蔵を縋るように見、平素のごとく何にも反応することのない姿にますます落ち着きを失くす。呼吸が浅い。
 闇が濃く、気配を増す。ゆらりゆらりと空気を掻き、のたりのたりと徘徊する。
 遠くから聞えてくるのは、獣の遠吠えか、風の唸り声か、それとも―――

「心を静めて。懼れては駄目だよ」
「……っ」

 浅葱が慄いて首を上げた。その腕や手が小刻みに震えている。
 雷蔵は相変わらず泰然と焚火に目を向けたまま、静かに語りかけた。

「君の怯えが彼らを呼んでいるんだ」

 浅葱の瞳が大きく見開かれる。急き込むように口を開いた。

「でも」

 大きな塊が側を過ぎ、「ひっ」と息を呑んで後退さる。それに雷蔵は落ち着いた声音を重ねた。

「大丈夫、放っておいても何もしてこない」
「そんなこと言っても、無理だよ!」

 どれだけ平静を保とうとしても、恐ろしいものは恐ろしい。そう言わんばかりに浅葱は固く目を瞑り頭を抱え込んで小さくなった。
 雷蔵は嘆息を零す。浅葱のように多少なりとも力のある人間は、元々そういうものを惹き付けやすい。特に畏怖の心に呼び寄せられるのである。だから常に心を乱さず、平常心を保つよう、馴らさなければならないのだが―――
 彼の恐れに引き寄せられ、反響を受けて陰の気に染まりつつある木霊たちを一瞥し、やれやれと内心で思いながら傍らに手を伸ばした。
 震えながら必死に己を守る浅葱の耳を、その時優しい調べが打った。
 清らかで、深く、柔らかい。
 音が波紋となって広がり、場を祓い清めるのが分かる。浅葱は束の間恐怖を忘れその音色に聞き入った。震えが止まっていることにも気づかなかった。浅葱にはただ、不思議な琵琶の弦から紡がれる響きが輝きとなり、“それら”をやんわりと追い遣るのだけが感じられた。

「彼らは鏡だ。こちらの心を映し出す。君が怖がれば怖がるほど、恐怖心は膨れ上がる」

 身体の奥底に染み込む音色に、淡々と教え諭す声が紡がれる。浅葱は知らず知らずの内に首を上げ、目を見開いていた。
 楽の音が余韻を引くころには、森には元通りの静寂が戻った。

「……消えたの?」

 恐々と辺りを見渡す浅葱に、雷蔵は否と首を振った。

「彼らは太古の昔からそこに在るもので、滅せるわけじゃない」

 彼ら自然のある処至る所に棲まう。弦から指を離しながら、先程まで“それら”が蠢いていたところを軽く望んだ。
 息苦しいほどに密集していた気配は欠片も残っておらず、穏やかな夜の存在だけがそこにある。浅葱は生唾を呑み、口の中で凄い、と呟く。彼にとっては消滅させるのではなく追い遣っただけであろうと、目の前から消え失せてくれるのならどちらだって変わらない。表情には驚愕を留めたまま、感動と、どこか畏怖さえ感じる眼差しで楽器をか抱える雷蔵を見ていた。ようやく恐怖のもとが去ったことにホッとしてゆるゆると息を吐き、苦々しく吐き捨てる。

「あいつら嫌いなんだよ。いつも闇の中からじっと見てくるし、どっか行けって言ってるのにどんどん増えるし。郷の中にまでは来なかったけど、いつも気配を感じるし、不気味ったらありゃしない」

 両腕を摩りつつ抱え込み、気まずさを誤魔化すようにぶつぶつと言い訳をした。無意識にか、それとも胸中に蘇る恐慌をやり過ごそうとしてか、踵で土を掻く。

「これが嫌だから、これまでは絶対人のいる宿場に泊っていたんだよ。とりあえず人の多くいるところにこれは出て来なかったから」

 道理で先程必死に雷蔵を引き留めたわけである。雷蔵がこれまで得た経験では、〈秘伝〉は継承者の身から離れると、大体夜が明ける直前に戻ってくる。恐らく追跡の術は一夜のうちに発動するものなのだろう。つまりその間、一人で森に取り残されていた浅葱は、ずっと恐怖に耐えていたということになる。

「そう恐れるものでもないけどね。彼らは木霊にもなれぬ無力な精だよ」
「何もしてこないことが分かっていても、怖くて堪らないんだからしょうがないだろ。あんたよく平気だよな。むしろそっちの方が信じられない」
「言っただろう、あれは鏡だって。恐ろしさはすべて君の心が生み出す幻なんだ」

 浅葱はにわかに威勢を弱め、弱々しく首を振った。負けん気はすっかり静まっていた。

「それは初めて知ったけど……でもそんなに簡単に言われたって無理だよ」
「慣れれば気にならなくなるさ。山に棲む獣と同じだよ。兎や鹿みたいなものと思えば怖くない」

 何ということもないあっさりした語調で目を伏せ、楽器を仕舞う。それからおもむろに袖から数枚の葉を取り出した。
 丸みのある輪郭の葉。四枚あるそれを、それぞれ裏面を軽く焚火で炙り、軽く揉んでから差し出した。浅葱は怪訝そうに受け取った葉と雷蔵の顔を見比べる。

「表側を足に貼って寝るといい」

 ハッと目を瞠って雷蔵を見つめ返す浅葱に、当然のことのように告げる。

「肉刺が破れて膿んだり、傷口から病の虫が入ったりして歩けなくなると困るからね」

 隠しているつもりであった己の状態を見透かされたと知ってか、浅葱は視線を逸らし、ことさら不機嫌を装って、ぶっきら棒に言った。

「この葉、“毒溜め”?」
「おや、分かるのかい?」
「旅する上でこの程度の知識は常識だよ」

 蕺草、俗称毒溜めはよく知られた本草であり、生葉をすり潰せば皮膚の出来物や外傷、かぶれなどに効く。
 しかしながら、雷蔵はにこりと笑いながら、次の瞬間に、得意気な浅葱を鼻を白ませた。

「いい心構えだね。でも残念。よく似ているけど違う草なんだ」

 といってもよくよく注意してみなければわからないほどの違いで、ほとんど見分けはつかない。薬効もさほど差はないから混同しても問題はないのだが、生葉で使用する時には効き方に大いなる差がある。こちらの薬草は、葉裏に軽く熱を加えると表面に葉の液が滲み出、これが通常よりも何倍もの効き目を生むのである。ただ、どうやら一般的には認知されていないようなので、雷蔵は勝手に毒蕗(どくぶき)と呼んでいた。命名の由来は単純で、効能は毒溜めに似ているが、使用法が艶蕗(つわぶき)に似ている―――これも生葉を火で炙り揉んでから湿疹や腫れ物などの患部に塗布する―――から、ただそれだけである。
 この毒蕗は摘み立て、つまりまだ葉が生きているうちでないと効かない。付近の草木には見当たらない形の葉はまだ瑞々しく、摘まれてからそう時が経っていないのは明らかだった。雷蔵が日中に道すがら見つけて採っておいたのだ。

「蕺草よりは効くよ。まあ騙されたと思って試してごらん」

 ぽかんと見上げてくる少年に穏やかに笑い返し、「さあ、そろそろ寝た方がいい。火の番はしておくから」と言った。
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