精 こころともののけ



 やわらかな薄紅の合間から、瑞々しい新緑が覗いている。
 季節は春となって久しく、葉桜を迎えつつあった。
 かすかに薫る桜香と、木の根元を覆い尽くす花弁。一面けぶる様な花霞も良いが、淡紅色に鮮やかな黄緑の梢が映えて、これはこれでなかなか良い。
 常より何かに特別好悪を抱くことも感動を覚えることもない雷蔵だが、きっと自分は桜が好きなのだろうと、漠然と思った。

「早く行こうよ」

 立ち止まりぼんやり葉桜を見上げていると、先に行く少年が焦れたように呼んだ。彼が動くたびに、腰帯から垂れる根付けの鈴がちりちりと音を立てる。
 雷蔵は見上げていた首を戻し、のんびりとした様子の下で密かに嘆息した。






 結局、雷蔵は少年の命をひとまず保留することにして、彼の里まで同行することになった。といっても“〈秘伝〉の秘密”とやらに心惹かれたというわけではない。すでに継承者である身にしてみれば、今更内容に関することなど知ったところでどうしようもない。ただ、どちらかといえば〈秘伝〉にかけられた呪いというのが少し気になった。

 もし彼の話が本当だとすれば、少年らの祖は〈秘伝〉を創った者と、創られた当初を知っていることになる。
 雷蔵は〈秘伝〉に宿る護法、そして以前美吉に話して聞かせたひとつの仮説について思いを巡らした。もし彼ら護法と〈秘伝〉と継承者の三者を繋いでいる理を解き明かすことができれば、〈秘伝〉の存亡に干渉することができるのではないか。
 彼の里が雷蔵の知りたい情報をどれだけ持っているか不明だが、何かしらの手掛かりはあるかもしれないと考えたのである。
 少年は、浅葱と名乗った。歳は14だという。一人旅には早い年齢のようにも思えるが、これまでの諸々を振り返るに何か事情があるのだろう。

「何という村なんだい」

 焚き火に拾った焚きつけ用の小枝を放り入れ、長めの太枝で掻きながら、雷蔵は尋ねた。日が落ちたので、今は二人山中で野宿の真っ最中である。
 それを尋ねたのは気まぐれと言うより確認のためだった。村落など全国津々浦々大小無数にあり、中には認知されているのさえ怪しい所もあるのだから、そもそも村の名にあまり意味はないのだが、念のためである。かれこれ十年全国を旅しているのだから、(可能性は低いが)途中立ち寄ったことのあるところかもしれぬし、もしくは術師の間で有名なところかもしれない。

御座(みくら)村」

 返事は短く素っ気ないものだった。
 その名を脳裏に転がしてみたが、どうにもピンとくるものはなかった。
 それを察したか、浅葱は自嘲気味に嗤った。

「知らないだろ。地図にも載らない山間の小さな村だもの」
「そんな無名の村が、よく〈秘伝〉なんかと関わりがあったものだね」

 浅葱は逡巡するふうに少し間を置いてから、説明した。

「土地柄、昔から霊的な力場らしいよ。今でも時折修行者みたいなのがウロウロしてる」

 炎が赤くその面を照らす。両膝を抱えて座るその姿は、ませた言動に反して、年相応に頼りな気だった。

「〈秘伝〉の創り手は君たちの村の人間だったということかい?」
「その話は村についてから教えてあげる」

 牽制するように言われ、雷蔵は肩を竦める。さすがにそこまで甘くはないようだ。

「……何も訊かないんだね」

 不意に浅葱が問いを投げかけた。

「訊いたけど、たった今はぐらかしたのは君だろ」
「そうじゃない。“そっち”じゃなくて」

 ムッとしたように声色が険を帯びる。
 眼つきが探るようにそわそわして落ち着きがない。〈秘伝〉のことではなく、浅葱の思惑について疑問には思わないのか、と言いたいのであろう。訊かれても困るくせに、訊かれなければそれはそれで怪訝といったところか。
 たしかに、おかしな術までかけられておいて、何も尋ねないというのも通常の感覚からすれば奇妙というか不自然だろう。ただ生憎、雷蔵は通常の感覚の持ち主ではなかった。

「じゃあ何?」

 察してはいつつも、あえて惚けてみせると、浅葱はいよいよ鼻白んだ。

「だから、俺があんたを村に連れていく理由とかだよ」
「〈秘伝〉の秘密を知りたいかと言ったのは君だろうに」

 最初に宣言した通り、雷蔵は彼の用にはさして興味はなかった。今大人しく従っているのはひとえに〈秘伝〉に関する利害が一致したからにすぎない。第一、訊いたところで彼が正直に答える保障もない。こちらに不利益なことは話さないだろう。どちらにせよ行くことに変わりはないのだから、問うだけ無駄である。

「そうだけど」

 しかし何やら不満そう言葉を濁らせる浅葱に、雷蔵は微笑んでみせた。

「何も藪の中の蛇をつつくことはないよ。こちらもこれは取り引きだと思っているし」
「……」

 浅葱は少しだけ安堵したようで、表情を解いた。あまりに雷蔵が素直に少年についてくるから不安になったのだろう。一時は殺されそうにもなっているのだから無理もない。
 「ま、いいけど」と言いながら、声の調子を数段明るくして話題を変えた。

「明日は峠を越えたいな」
「無茶はしないことだよ。どうせこのあたりじゃ急いだところでしばらくは野宿だ」

 正直、雷蔵一人ならいつもはこの何倍も速く道を行くのだが、浅葱は術が多少使えるとは言っても、身体能力は徒人だ。
 雷蔵は彼の足元をみる。山間の村を郷に持つ人間にしては珍しいが、山旅に慣れていないのだろう。解れもほとんどない雷蔵の草鞋に比べ、一度は履き換えたはずの浅葱の草鞋は早くもぼろぼろだった。隠しているつもりらしいが、不自然に庇うような歩き方からして血肉刺の類も出来ているようである。素人の無理な山行きほど面倒なものはない。
 それでも雷蔵が比較的歩きやすいところを選んで進んでいるとも気づかぬ浅葱は、不満げに鼻を鳴らした。

「そういう問題じゃないんだよ。早く進めばそれだけ早く着くだろ。あんた忍のくせに、存外呑気だなぁ」

 生意気な口をきかれても、雷蔵はまるでそよ風に吹かれているかのごとく平生の調子で微笑む。

「無駄なことはしない主義でね。それとも、急がないといけない何かがあるの?」

 浅葱は一瞬ぐっと言葉を詰まらせたが、すぐに無表情になった。

「同じ指令を受けている奴がいるんだ。そいつにだけは絶対に負けられない」

 冷たく低い声音だった。雷蔵はそれとなく感情の動きを探る。不自然なほど鋭利に強張った面は、その相手に対する敵意のあらわれなのだろうか。それとも若者らしい対抗心か。

「先に村に連れ帰った方が勝ち?」

 浅葱が頷く。ふーん、と雷蔵は小さく相槌を打った。

「君が村の場所を教えて俺が先行するという手もあるよ。どうせ一日経てば自動的に追いつくのなら、その方が手っ取り早い」
「駄目だ!」

 すかさず浅葱が拒否の声を上げた。ほとんどそれは過剰とも言っていいほどの反応で、言った本人さえ己の大声にハッと驚き、気まずそうに顔を背ける。

「離れている間に何があるか分からないじゃないか。自慢じゃないけど、俺、体力ないし運動神経もからきしだからな。うっかり足を滑らせてしまうかもしれないし、じっとしてたとしても毒をもった蝮だとか、凶暴な獣だとか、極悪な賊に遭ったらどうしてくれるのさ。昨日とかはたまたま運よく何もなかっただけかもしれないだろ」
「……」

 言い訳めいた言い分に、雷蔵は口を閉ざし黙する。浅葱の言を真に受けたわけではない。本心を言えば、もしそうなったとしても雷蔵としては一向に構わないと思っている。そうなった時はそうなった時、浅葱は運が無かったというだけのことだ。〈秘伝〉に関わる足がかりが失われるのは少しばかり惜しいが、今時点でそれほど切迫した問題ではないし、ここで糸口を失ったからといって痛手でかといえばそうではない。「別に」の一言で終わらせられる程度の関心事だ。
 ただ、彼のかけた術が解かれない限り、万一浅葱が不慮の事故で死んだりしたら、日々延々死体に追いかけられる羽目になるかもしれず、あまり戴けない。無機物である〈秘伝〉の巻物にかけられた『呪い』が、創り主である術師の死後でも有効なところを踏まえると、雷蔵にかけられた類似の呪術もまた、術師である少年が死んだあとも消えぬ類である可能性は大いにあった。
 それにしても浅葱は何をそう恐れているのか。彼の口にした理由がその場しのぎのものだということは明らかだ。だがやはり最優先にするほど興味をそそられるものではなく、いずれにしろ万一にも死体を引き摺り続けることになっても面倒なので、あえて何も言わず受け入れることにした。
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