事が済み、約束通り幾許かの報酬と食糧をもらうと、雷蔵は寺に上がることもせず挨拶もそこそこに辞した。逗留を勧められたが、丁重に断った。大掛かりな技を使った後は、早々に立ち去る方がよい。
 長居は無用とばかりに境内を出た時だった。

「お兄さん」

 高い声音に音無き鈴の音が重なった。
 反射的に振り返れば、そこには年の頃15ほどの少年が立って、こちらを見てにこにこと笑っている。腰帯に挟んだ扇のような竿から鈴が二つ下がっていた。
 声変わりを迎える前の響きに、いつかの術師を連想して思わず反応してしまったが、予想した相手ではなかったことで、雷蔵はすぐさま興味を失った様子で身体の向きを戻した。
 一度は目が合ったのに何事もなかったとばかりに無言で去ろうとする相手に、慌てたのは声をかけた少年だ。

「待てよ。無視すんなって!」

 すかさず走って雷蔵の前に回り込むや、少年は両腕を広げてゆく手を阻む。彼が動くたびに、鈴が躍った。

「酷いや。ちょっとくらい話を聞いてくれてもいいじゃん」
「何故?」

 雷蔵はきょとんとした面持ちでばっさりと切って捨てた。あまりに当たり前のように言うから、少年は頬を引き攣らせた。

「悪いけど、俺は君に用はないし、君の用にも興味ないから」

 じゃあ、とにこやかに手を振るなり、あっさり少年の脇を通り越す。面の朗らかさに対し態度はひどく乾いている。落差がありすぎて少年は束の間思考停止し、ハッと我に返り更に追いすがった。

「さっきの調伏、あんたがやったんだろ」

 抑えた声音でいきなり切り込んでくる。
 振り返らず歩みを止めぬ雷蔵の脇に周り、

「分かっているんだからな。あの時、衣の怨念を浄化したのは和尚でも坊主たちでもなく、あんただ」

 少年がそう告げた時、一瞬だけ雷蔵の瞳がチラリと彼を一瞥した。

「さて、何のことだか」
「呆けても無駄だよ。最後のあれは『洒水加持』だろ」

 彼は唇の端を持ち上げ、種を暴くように言った。
 雷蔵が咄嗟にやった三叩三唱は、洒水加持とよばれる密教の祓いの法だった。『(らん)』は火蓮の梵語であり、六根清浄、すなわち色声香味触法の六感をつかさどる眼耳鼻舌身意を解放し、まっさらな無垢の状態を。『(ばん)』は水華の義であり、水火不散、すなわち水や火が滞ることのない状態を。『(うん)』は風、息吹でありまた終わり、万物の回帰を意味し、塵を払って場を清めることを祈り命じる真言である。
 少年は雷蔵がさりげなく行った術をくまなく見ていたのだ。

「だから?」

 隠しだてしても無駄だと知ったか、面倒だと思ったか、雷蔵はこれまたあっさりと返した。再び少年の面が怯む。

「ようやく見つけたんだ」

 少年はにわかに意味深長な言を口にした。二人は器用にも突かず離れず、追いかけっこをしながら会話を続ける。

「探していたんだよ。間違いない、お兄さんだ」
「生憎と、俺は君を知らない」
「そりゃそうさ。初対面だもの」

 雷蔵はようやく立ち止まり、しつこく付いてくる相手を振り返る。
 ふたりはいつの間にやら街を出、山に囲まれた人気寂しい街道まで来ていた。

「意味が分からないんだけど?」
「だから言ったじゃん。あんたを探していたんだって」

 ニヤリと年に合わぬ斜に構えた笑い方をする少年だった。くっきりとした黒目がちの、一見いたいけとも思える双眸は、何かを企んで隙なく煌めいている。

「俺の目に狂いはない」

 少年は要領を得ぬ話を繰り返すばかりで、訳を話す気はないようだ。雷蔵は首を傾げ、やんわり尋ねる。

「何のことだか分からないけど、帰ってくれないかな」
「嫌だね。俺だってこのために長い間旅をしてきたんだ」
「どうしても?」
「どうしても」
「そうか。なら仕方ない」

 と言うが早いか、踵を返して街道から外れ、山中に一息に走り込んだ。山間の街道は、道を挟んで両脇に急な坂が迫っており、とても常人ではこうも一足で駆けあがることなどできない。おまけに忍びの足は徒人の何倍もの速さを誇る。呆気にとられる少年を街道に残し、雷蔵は到底彼が追っては来れぬところまで疾駆した。
 高く深い山林の奥へと逃げると、ようやく一息ついて足を止めた。背後を振り返る。とりあえず捲けたようだ。
 やれやれおかしなものに目をつけられたものだと、一人ごちる。おかげで街道からは外れてしまったが、元より宛ても予定もない旅路である。いっそこのまま山を横断して阿蘇の地獄見物に行くのも悪くないと思い、背の荷を負いなおして、のんびりと土を踏みしめた。




 ところが、その翌日のことである。
 木の上で休息と仮眠を取っていた雷蔵が目にしたのは、木の下でニコニコと待ちかまえる少年の姿だった。
 少年を捲いた後、雷蔵は暮れまで山中を歩いた。忍び業で鍛えられた健脚である。相当な距離を移動したはずだった。
 にもかかわらずである。少年は今こうして目の前にいる。

「おはよ」

 笑顔で手を挙げる少年に、雷蔵は瞳を細めた。
 裄も裾も大分短い着物から覗く少年は手足は健康的な細さであるが、特別な訓練を受けたものではない。とすれば一体どのような妙技を使ったのか。
 雷蔵は彼の声に応じることなく、また下りることもなく、枝から枝へと飛び移り、風のようにその場を立ち去った。後方で何事か喚いているようだったが、振り返らない。すぐにその声も聞こえなくなり、気配も遠く希薄になった。しかし雷蔵はしばらく木の上を駆け続けた。
 休憩も、食事を取ることさえなく、日暮れまで山中を駆け続け、ようやく身を落ち着かせた。
 さすがにずっと走り通しだったせいか、息は切れ、汗が流れ落ちる。しかしその甲斐あってか、すでに二山分は超えていた。直線距離だから大分早かったが、普通の者ならば道のりで三日はかかる行程である。
 最早追っては来れまい。常識的に考えればの話である。
 雷蔵は幹に頭を軽く打ち当て、天に嘆息してそっと目を閉じた。




 果たしてというべきか、翌朝日が登る前に、気配に感づいて雷蔵は瞼を開けた。
 昨晩は火も焚かなかった。
 しかし、少年はそこにいた。
 太めの樹の根に腰かけ、手持ち無沙汰げに頬杖をついている。
 雷蔵と目が合うや、喜色満面になった。

「あ、起きた」

 雷蔵は驚く様子を見せず、淡々と少年を見つめ返した。

「不思議? 俺がこうして追い付いてくるのが」

 優越感に満ちた悪童面を浮かべたが、しかしすぐに怪訝そうな表情に取って代わった。それはそうだろう。普通ならばここは驚くとか、怯えるとか、もう少し大きな反応があってもいいはずである。なのに雷蔵の顔色や態度は不自然なほどに動じなかった。
 雷蔵にしてみれば今の状況は半ば予想していたことでもあり、またもとから何かに心を動かすような情動が根本的に凍りついてしまっているのだが、そんなことは少年は知る由もない。

「無駄だよ。俺から逃げることなんてできない」

 密やかに笑う少年を、雷蔵はひたと見据え続ける。

「どういうことか説明してもらえるかな」

 ようやく返って来た反応に気を良くしたか、少し得意気に足を組んだ。

「術をかけたんだ。どこまで離れようとも、必ず追い付く。一種の(のろ)いだね」

 初めて接触した時であろうが、一体どの時点でかけられたのか、雷蔵には覚えがない。かけられたことにさえ気づかせぬのだから、相当高度な術なのだろう。それとは分からないが、少年は相当な腕の術師なのかもしれなかった。
 しかしそれはさして重要なことではない。

「……なるほど」

 雷蔵が小さく呟き、俯いた瞬間だった。
 刹那の後に、少年の姿は土の上にあった。仰向けに押しつけられながら、驚きのあまり絶句し、大きく目を開いて、片手で首を絞め刃を構える法師の姿を映す。
 雷蔵は少年の抵抗を封じ、その顔面の前に苦無の切っ先を翳していた。春の陽射しのように柔らかいのに、透明で色のない表情を少年に向けている。

「ならば術者の君を殺せば呪いは解けるというわけだね」

 苦無の柄を握りこむ。

「ほ、法師のくせに人殺しになる気?」

 さすがに少年も引き攣ったように、しかし精一杯虚勢を張って口端を上げる。

「共にいるところを見られているし、殺すのは面倒だから避けたいのだけど、このまま纏わりつかれるのも迷惑だからね」

 声音はひやりとするほど無情で容赦がない。本気だと気づいたか、少年はいよいよ満面に汗を浮かべ、切羽詰まった色を浮かべた。

「術を解く気がないのなら人殺しもやぶさかではない」

 そう、雷蔵が凶器を振り下ろさんとしたところで、

「<秘伝>の秘密を知りたくないかい?」

 少年の鼻先で、ピタリと苦無が止まった。
 しばらくの間少年は呼吸を忘れたように目を見張り息をつめていたが、紙一重で寸止めされた切っ先を確認し、浅く喘いだ。

「<秘伝>の、秘密?」

 雷蔵は胡乱気に、慎重に鸚鵡返しをした。
 少年はとっかかりを得たと感じたか、少しばかり強がった笑みで「そうさ」と肯定する。

「お兄さん、忍びだろう? 身のこなしといい、その手のものといい、大方行脚僧に扮して諜報活動をしている草なんだろ。なら、<秘伝>のことも聞いたことあるはずだよね」
「……それで?」

 雷蔵は刃はそのままで言葉少なに先を促す。少年は、別に雷蔵が<秘伝>の現継承者だと知っているわけではなく、単に雷蔵が忍びであるから話を切り出しただけのようだった。
 興味をつかんだと確信して少年はますます余裕を取り戻して告げた。

「<秘伝>は俺の村で創り出されたんだ。そこにかけられた術も元々は俺たちの祖先が創り出したものなんだよ」

 その言葉に、雷蔵の双眸がすっと細められた。
 <秘伝>にかけられた術。捲いても捲いても追い付いてくる少年。ピンとくるものがあった。
 少年はここぞとばかりににやりとした。

「<秘伝>ってさ、実はどれだけ離れても、持ち主の許へ必ず戻るように仕掛けが施されているんだ。<秘伝>と術者を繋ぐ(まじな)いさ。そしてそれは、俺があんたにかけたのと同じものってわけ」
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