琵琶を用いた祈祷は、ここ筑前の国では比較的よく見られる。後に薩摩琵琶、筑前琵琶などと名称と様式を分つようになるが、今のところは一般に盲僧琵琶と言われ、字のごとく盲目の僧侶が奏でる楽器を指す。仏のみならず八百万の神の鎮めも行い、荒神経や地神経といった経文を詠唱しながら祈祷するため、荒神琵琶ともいう。
 元々は平安よりも昔に、雅楽で用いる楽琵琶とともに大陸より伝わったらしいが、別の説では、はじめは盲僧琵琶も楽琵琶を使っていたという話である。少なくとも現在は、楽琵琶よりも小ぶりで、笹のような姿をした笹琵琶が主流となっている。耳なし芳一で有名な平家琵琶とも似ているようで実は大きく異なり、また別に皆が皆めしいた僧侶でもなかったりする。そもそもは当道座という全国規模の琵琶法師の一大組織があるのだが、九州から中国地方の者たちはこれに所属することを良しとせず、当道座による圧力と制限を免れるため、あえて盲僧と自称して独自の様式を創り出したのである。そして当道座の様式よりも多様で躍動ある曲調が生み出された。

 とはいえ琵琶法師ではない雷蔵には無関係な話だ。雷蔵の楽器は盲僧琵琶ではなく、ましてや雅楽琵琶などでもない。あえて言えば荒神琵琶に分類は近いのかもしれないが、そもそも普通の琵琶ではなかった。龍絃琵琶は<龍の民>の審神者だけが弾くことを許された神楽器だ。絃は龍の髭、撥は牙、弓は骨、弓毛は鬣、本体は神木からできており、撥で弾けば琵琶に似た音に、弓で弾けば胡弓に似た音を奏でる。二つの奏法を使い分けながら呪い歌を歌ってみたまを震わすのである。
 まあ、一見すればちょっと変わっているだけの琵琶にしか見えぬし(だから名前も龍絃琵琶というのだろう)、撥で弾く分には同じような音色なので、実際そう違いは分からぬわけだが。

 胡坐をかいて片膝を立てた上に龍絃琵琶を抱えると、雷蔵は木製の撥をとった。これは正真正銘、何の変哲もない木撥である。象牙に似た専用の撥は用いない。威力が出すぎてしまうためだ。
 龍絃琵琶の奏法は指で弾く『指(はじ)き』、撥で弾く『撥打ち』、撥と組み合わせた弓で弾く『弓弾(ゆみび)き』があり、順に龍絃琵琶から解放される神力が強くなるのだが、牛刀割鶏ともいうように、必要以上の力を出すと面倒があるのであまり好ましくない。薬でも、些細な風邪を治すのに強い薬を適用量以上服用すれば、却って害になるのと同じである。
 その点、一般の木撥ならば『指弾き』よりも更に格が下がるので、力を抑えることができるのだった。

 調絃することなく撥を構えた雷蔵に、隣に座る僧侶は心配げにしながらも、すぐに「弾いているフリをするだけだから」と思い直し、ひとまず安堵の面持ちで壇上の和尚を見守った。
 皆が固唾を呑む中、やがて勿体つけたように和尚が経を読み始める。するとそれを合図に僧侶たちの手が一様に動き、同時に絃を打ちならして祓えの(ことば)を紡いだ。揃った八つの琵琶の音が重なり合い、輪を描くように空気を震わす。経文に合わせ、抑揚をつけ、躍り出すような動きのある調べが歌いだされる。歌声と音がいくつも合わさっているだけに、その様子には迫りくる威力があった。

 雷蔵はといえば、瞳を伏せるようにしてそれらを聞いていた。手は時折遊ぶように皆と同じ音を紡ぐ。
 人数を揃えたのが功を奏したか、祈祷は効果を現しはじめていた。
 伏せ置かれていた小袖が、微かに震え出す。
 何かに抗うようにぞろりと這い動いている。
 野次馬たちは息を呑み、戦々恐々と成り行きを見守った。
 和尚は一心不乱に経を上げ続ける。護摩を焚く炎が熱いのか、汗も流れ始めていた。
 やがて火箸のようなものを手にすると、護摩の香炉の中から赤々と輝く炭を取り出し、高く放った。
 炭は空中で美しい緋の軌跡を描きながら、小袖の上にぽとりと落ちた。そこから小袖に火がつき、ゆらりと燃え広がる。
 動きが止まり大人しく燃え上がる小袖に、和尚もホッと胸をなでおろしたようだった。このまま綺麗に燃え尽きれば無事に終わりだ。
 そう思われた時だった。
 雷蔵はハッと頤を上げて、和尚の向こう、火に包まれる小袖を見た。
 ―――まずい。
 大人しくなった小袖から漏れる怨念が急速に膨れ上がっていく。和尚の技量では無理だ。力が足りない。むしろ下手に煽って逆効果―――
 直感が走ったのと、風もないのに小袖が煽られるようふうわりと持ち上がったのは、ほぼ同時だった。
 その場にいた者達がぎょっとした。
 火をまき散らすようにハタハタとそよぐ小袖は、まるで生きて意思を持っているかのようだった。今にも僧侶たちに襲いかからんとばかりに巻き上がる。観衆がわっと声を上げ、中には逃げだす者も出た。
 思わずとばかりに僧たちの歌声が止まりかけ、琵琶の音が弱まる。

「止めるな」

 同じく手と声を留めそうになった隣の僧侶に、雷蔵は鋭く囁いた。懼怯に震える瞳が向けられ「え?」と瞬いた。

「楽の音に反応している。そのまま続けるんだ」

 その言葉に押されるように、額から禿頭に汗の粒を浮かべる僧侶はぐっと息を呑み、再び力強く絃を弾いて、大きく歌い出した。周囲もおっかなびっくりながら、ハッとしたようにそれに続く。ひたすら必死に手を動かし、対抗するように声を張り上げた。
 雷蔵はその間に素早く撥を換える。木の撥から、龍牙の撥に。
 そして、微かに絃を鳴らしながら、囁くような吐息で歌い始めた。


  悲し哀しや あな愛し
  寂し淋しや いと恋し


 八つの音の合間を縫うように、あるいは八つの声に潜り込ませるように、小さく紡ぐ。
 途端に、小袖の動きが鈍った。


  行きて帰りて何望む
  去りて来りて何求む


 衣がふるりと身を震わす。
 何かを躊躇う風に、火を纏いながら、ゆらゆらとそこへ留まる。


  憐れ苦しや 想いわび
  悩み憎しや 怨みわび
  うなる風吹 響くもがり 何託つ
  うねる白波 遠き海鳴り 何嘆く
  いやざ示さんみちしるべ
  ともに参らんみをつくし


 大音声で奏でられる祓え唄の下に、小さく、巧みに滑りこまされた呪い唄は、拍を変えたり休止を挟むことで、祓え唄に時に重なり、時に和して、効力を相乗させる。


 哭けや泣くな 耳澄ませ
 恨めし愛おし 世の情けの
 悼みて惜しまや 祝い歌


 今にも浮き上がりかけようとしていた衣が、地上にふわりと落ちた。もやのようなものが立ち上る。それが幾人もの少女の姿に見えた者は、その場にどれだけいただろうか。
 だが妄執の方は相当に根深いようだった。魂魄を解放しても残留思念が未だに粘着して離れないのである。そのためか、火がついて大分経つというのに、小袖は浄化の火にも燃え尽きることなく原形を保っていた。
 とはいえあとはただの残滓に過ぎぬのだから、容赦なく一息に祓ってしまえばいい。
 雷蔵は撥を絃から離し、返す撥の尻で白木の表面を打った。

(ラン)

 唱え、もう一度打つ。

(バン)

 更にもう一つ。

(ウン)

 三度目の音と呪が放たれると、瞬間、執念深く纏わりついていた怨讐の名残がざっと消え去った。と同時に、あれだけ布の表面を這い燻っていた火が見る間に勢いを増し、あっという間に小袖を焼き尽くしたのであった。
 和尚をはじめ僧侶たちは各々に祈祷を止め、すっかり力と気が抜けた様子で、灰と化す衣をただ呆然と見つめていた。

「終わったのか?」
「さっきのは何じゃったのだろう。衣がひとりでに浮き上がったように見えたが」
「松明の火で煽られたんじゃなかろうか」
「そうじゃな。衣が勝手に浮くはずがないからなぁ」
「何はともあれ、これで成仏したのなら、怪異は二度と起きんということじゃな」

 野次馬衆は各々に納得して、ひとりふたりとわらわら境内の前から去って行った。
 僧侶たちも呪縛が解けたように、皆一様に大きな息をついて、喜びあった。

「何とかすべて事無く終わったようじゃ。良かった」
「一時はどうなることかと胆を冷やしたが……」

 雷蔵の隣にいて、調伏の数合わせに誘った僧侶が、雷蔵を振り返って晴れ晴れと笑った。

「いやはや、本当に助かりました。あの時貴僧が声をかけてくれなければどうなっていたことやら」

 そこで僧侶は己の言葉からにわかに浮上した疑惑に小さな目を瞬く。よもや、と唇が動いた。
 彼らの琵琶奏や和尚の祓え詞が小袖に憑いた念に効いていたか否かなど、僧侶には見分けがつかなかった。その判断をしたのは間に合わせのはずだった旅法師だ。
 しかし雷蔵はにこやかに笑って否定した。

「いいや、俺は傍から眺めていたからこそ気づいたにすぎない。すべては君らの篤い信心が御仏に通じた結果だよ」

 そうほめたたえれば、僧侶はすぐさま気分を良くして、照れるように剃髪した頭をつるりと撫でた。
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