呪 のろいとまじない



 りん、と鈴が鳴った。

 足を止め、スッと顔をあげる。目深くかぶった笠の陰影のうちで双眸を巡らした。その拍子に錫状がシャンとかすかな響きを奏でる。
 鈴の音はもうしない。僅か一度のことだった。けれどもそれは、雑踏の中ですべての雑音を遠ざけるように、はっきりと耳に響いた。魔を払うように。あるいは呼び込むように。妖しくも清い余韻が今も人ごみの間に残っている。
 聖か邪かは知らないが、それは確かに『誘い』ではあった。あとから思い返せば、この時に足を留めたことが罠だったに違いない。
 束の間、雷蔵は人の往来する道の最中に佇み、背後を振り返っていた。そして何事もないと見るや、興を失った様子でフイと再び身体の向きを戻した。
 しかしそのまま先へ進もうとしたところで、やにわに墨染の袖をぐいと引かれた。

「もし!」

 息せき切って声をかけてきたのは、同じく僧形の者だった。ただし、雲水らしく浅葱の単衣に鈍色(にびいろ)直綴(じきとつ)を襲衣して絡子を掛ける―――以前は台密系の僧衣を纏っていたが、近頃の一向衆は敵が多いので、最近は禅僧のなりでいる―――雷蔵に対し、青の法衣と赤地に錦を織りこんだ七条袈裟をつけており、いかにも今から何かの法会を執り行いますという装いだ。
 とるもとりあえず駆けて来たらしい若い僧は、雷蔵の衣を掴んだまま、肩とともに小さな三角形の眉を上下させた。

「き、貴僧は琵琶を嗜まれている方と拝見しますが!」 

 ちょぼちょぼとした丸い眼が雷蔵の背中に負われている袋を注視する。下腹部が丸みを帯びた独特の形は、確かに良く知られる楽器そのものである。
 突然の言葉に戸惑うことなく、雷蔵は極めて落ち着いて「ああ」と肩口から覗く荷の頭を横目で一瞥し、すぐに視線を僧へ戻した。

「形ばかり持ち歩いているだけだよ。嗜むというほどでもない」

 しれっと嘘をつく。僧侶の様子からして、ここは下手なことは言わぬが吉と判断したのだ。
 しかしそんな工作は全く用をなさなかった。

「ああ、御仏よ!」

 一方的に喜び咽び、僧侶は身を乗り出した。

「申し訳ないが、手を貸してはいただけませぬか!?」
「は?」
「あまり詳しく話している時間はないのですが、今からこの先にある拙寺の境内で琵琶での付喪の調伏を行うのです。しかし予定していた者のうち一人欠員が出てしまいまして」
「琵琶? 読経ではなく?」

 坊主のお祓いといえば、何をおいてもまずは念仏や真言である。琵琶奏楽で祈祷とは珍しい。
 僧侶は得たりという風に頷いた。

「ええ。奇異にも思われましょうが、此度はいささか手強い相手との由にて、和尚曰く琵琶であればより効力が望めるとか……ほれ、耳なし芳一の例もございましょう?」

 確かに物語の中では、芳一の奏でる琵琶の音に古の霊魂たちが慰められた。しかしあくまで創り話である。
 雷蔵の持つ楽器も、本来はそうした用途で使われるのだが、そもそも通常の琵琶とは似て非なる存在だ。
 ついでに、手を貸すかどうかとも別の話である。

「そんないきなり言われても」
「ただ座って弾いているフリをしてくださるだけで構いません。重要なのは頭数で、どうあっても九人おらぬと都合がよくないそうなのです」
「他にお寺にいる人に頼めないの?」
「お恥ずかしながら、小さな寺なもので和尚を含めて僧が六人しかおりません。ほか三人は外からお呼びしていたのです。それが、最後の一人が何故か待てど暮らせど姿を見せず難儀していたところ、丁度貴僧をお見かけした次第で。これもきっと御仏のお導き。どうかこの通り!」

 「礼は弾みます!」とすかさず小声で付け加える。雷蔵はどうしたものかと視線だけで天を仰いだ。断る理由はないが、手助けする義理もない。第一面倒臭すぎる。ただ、そろそろ路銀が底を尽く頃で、心許ないのも確か。
 九、と人数を限定しているところをすれば、言葉通り一種のまじないなのだろう。その場合、何もせずとも「数合わせ」というだけで効果がある。九は最大奇数ゆえに聖なる数とされる。
 何より間の悪いことに、この僧には微かな邪気の名残が纏わりついていた。恐らく先程まで件の調伏対象の近くにいたのであろう。これに、龍弦琵琶が敏感に反応してしまった。おかげで先程から声なき声で鳴き続けてやまない。
 諦めたように雷蔵は目を伏せ溜息をついた。

「本当に数合わせだけでいいのなら」
「もちろんですとも! ありがとうございます!!」

 ぱあっと顔を輝かせ、僧侶は何度も頭を下げた。そして気が変わらぬうちにとばかりに雷蔵の腕をとり、大急ぎで案内をする。



 寺は通りに面したところにあった。六人しかいないという僧侶の言も頷ける大きさだ。そんな寺の前には人だかりができ、通りまで溢れている。調伏を見物にやってきた野次馬らしい。
 小ぢんまりした境内には昼間だというのに四方に松明が焚かれ、護摩の香りとともに、異様な熱気と緊張が立ち込めていた。空間を丁度半分に分けた右側に、どうやらこれから調伏するらしい「憑き物」が置かれ、左側に僧侶たちが控える。一人を筆頭にして、その背後に二列を組んで、揃って憑き物に対するように座していた。琵琶を構える僧侶たちの前、設けられた壇上の一際立派な山吹の法衣を着た者が和尚だろう。こちらは琵琶を持たず、護摩壇の前で経を手にしていた。

 後列の端に二人分の空きがある。他の仲間たちの「急げ」という小声にせっつかれるように、僧はそこへ雷蔵を誘った。すでに準備をしていた六人の僧らは、有髪という変わった出で立ちの雷蔵に胡乱気な目を向けて来たが、何より数が揃ったことにホッとしているようで、すぐさま和尚をうかがった。
 和尚はひとまず体裁が整ったことを確認し、ウホンとわざとらしい咳払いをして居住まいを正した。
 彼が準備を整えている間に、雷蔵は袋から楽器を取り出した。他の僧侶たちが持つ笹琵琶よりも一回り大きく、どちらかといえば楽琵琶に近いが、普通の形に比べて槽が深く、丸みを帯びて膨らんでいる。なめらかに艶めく撥面と腹板には美しい紋様が這い、糸蔵から海老尾にかけて龍を象った精巧な彫刻が施されていた。
 その琵琶の珍しさにちらほらと注がれる好奇の視線も意に介さず、雷蔵は仏具で厳重に囲われた調伏の対象へ目を向けていた。
 それは一枚の小袖だった。
 金や朱、緑といった色を上品かつふんだんに操り、藍地の半分を鮮やかな花鳥風月で埋めつくしている。一目見ても、大層高価な品だろうと分かった。
 はて、着物を調伏とはこれまた珍しい。と、野次馬衆の間からひそひそと囁きが聞こえて来た。

「普通の綺麗な着物にしか見えんがなあ」
「だが何人も呪われたって話じゃねえか」
「あの小袖を手に入れた娘がことごとく死んじまったんだと」
「元々の持ち主だった呉服屋の娘の怨念らしいぞ」
「このお寺ですれ違った若衆に一目惚れしちまって、そいつが着ていたのと同じ小袖を親に強請ったってよ」
「その直後に若くして流行り病で死んじまって、その無念が娘たちを呪ってるって話だ」
「死んだ娘たちも、何故かこの着物に異様に執着していたんだろ」
「おまけに娘らが死ぬ度に、この寺に舞い戻ってきたそうな」
「おお、恐ろしや恐ろしや」
「しかしお寺の方も、いくら値打ち物だからってそんな曰くつきのモンを質屋に払い下げるなんてなあ」
「だから今度ばかりはさすがに観念して、こうしてお焚き上げをすることにしたらしいぞ」

 どこからともなく聞える恐ろしげに話し合う声々は、実は観衆のものではない。
 徒人でも、知りたいと思うことを念じていると、たまにこうして声がしてくることがある。大抵は通り行く人の話し声と思うものであるが、その正体は人ならぬモノの囁きだ。稀に波長が合うと、当人にとって「耳よりな知らせ」が届くのである。雷蔵もこの道が長いだけに、波長の合わせ方が分かるので、意識すれば拾うことができる。もちろん何時でも何でも教えてくれるわけではなく、時と場など、一定の約束事を満たして初めて可能となる。たとえば人が多くいて、境界のある場所。そして『噂話』であることだ。なぜなら姿なき彼らは、人に紛れ、人のふりをして、人口に膾炙している噂を浚い、あちらの世界から声を発する。だから今のように、多くの野次馬が集い、通りと境内のように『境界』があり、噂話であれば、条件が揃うわけである。もっとも、中には虚言を弄して惑わそうとするものもあるから見極めが肝心だが、少なくとも今回のものは信じてもよさそうだ。

 こうして拾い上げた断片をすり合わせると、大体の話の筋はこうである。とある呉服屋の娘がこの寺に詣でた際に、美しい小袖を粋に着こなした(かぶ)き者の若衆と擦れ違い、彼に恋心を抱いた。そこで親に強請って同じような小袖を誂えてもらい、それを若衆本人に見立て、毎日眺めては思いの丈を語りかけた。ところが不運にも流行り病に罹ったこの娘は、恋患いをしたまま死んでしまった。娘の死を悲しんだ親は、せめてもの慰めに生前娘が愛した小袖を棺桶にかけ、この寺で供養を頼んだ。しかしこの寺に限ったことではないが、供養を終えた値打ち物を商人に売ることがあり、この小袖も例によって質屋に売りさばいてしまった。そうして質屋でこの小袖に魅入られた別の娘が手に入れて程なく怪死し、再び着物は供養のために寺へ戻った。そして寺は再び古物問屋へ売り……を繰り返したのだという。

 なるほど、そうしてみれば確かに呪いの小袖には、それなりの怨讐とも言うべき念が籠っている。それが最初の娘の妄執なのか、それともその後この小袖によって死を遂げたという娘らの無念なのかは分からない。見たところ、怨霊というほどには至っていないが、少々厄介な性質ではある。
 こうなっては通常の供養では歯が立たぬだろうし、調伏も一筋縄ではいくまい。和尚もこのような大掛かりな調伏を行うからには多少の心得があるのかと思ったが、そもそもそんな曰く物を何の危機感もなく市場に出してしまっているところからして、法力には期待できそうにない。これだけ大人数をかき集めているところを思えば、むしろ自信がないに違いない。
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