治兵衛が爪先を向けたのは、長老屋敷の裏庭から続く山への道だった。
 緩やかな上り坂から、途中丸太で段を作った急な傾斜を登る。
 更に奥へ行くと最早径は径たらず、足腰弱った年寄りでは到底危うくて進めぬ悪路となった。美吉が治兵衛を背負い、指示の通りにどんどん奥へと踏み分けていく。ちなみにどちらが長老を背負うかとなった際、美吉は極めて面倒臭そうな顔をしたが、小柄な老人とはいえ同じく小柄な雷蔵よりは長身の美吉が背負った方が均衡が取りやすいのは自明だったので、渋々応じた次第である。

 口承につてもそうであったが、語り部の治兵衛の記憶力は驚異的であり、前の長老について若い時分にたった一度だけ訪れただけの道なき道さえも正確に記憶しているようだった。
 歩くうちに、雷蔵はふと懐かしさを覚えた。京里忍城への道に似ていた。同じ場所を何度も巡り、決まった法則に従って越えていくことで、はじめて正しい路が開ける。これもまた、彼らの先祖が御座村から出たことを示唆するものなのか。
 山道を平坦な道と変わらぬ足取りで歩める忍び二人の健脚をもって半刻ほど歩いたところに、それはあった。
 鬱蒼と茂る草木に隠された洞穴。マタギと呼ばれる山人でも見落としそうなほど目立たず、大人が這ってぎりぎり入れるくらいの小さな入口だった。気づきにくい上に、一見しても山に棲む小動物の巣にしか見えないだろう。
 奥から風が吹いてくる。毒気がないことを確認してから持ってきた燭台に火を入れ、治兵衛を挟むように雷蔵が先頭、美吉が殿となって暗く狭い孔を這う。途中から徐々に口が開け、やがて立って歩けるほどになると、雷蔵が介添えしながら治兵衛が先導に立った。
 洞窟は驚くほど長く、しかし終着点は驚くほどに小じんまりしていた。
 治兵衛が足を止めた先を、美吉は拍子抜けした顔で見上げる。

「別に、馬鹿にでかい石像が鎮座しているのを想像していたわけじゃないが」

 ついぽつりとそんな感想が漏れる。あれほど前座をおいて勿体ぶられただけに、何かとてつもないものが待ち受けているのかと思いきや、彼らの立つところは何の変哲もない洞窟の行き止まりがあるだけ。天井こそ長老屋敷並に高く、面積もそこそこ開けて広くはあったが、四方は剥き出しの土と岩肌とからみつく蔓根に囲まれているだけだ。
 だがその目が、灯りの届かぬ奥の暗がり向けられたとき、無味乾燥な印象は一瞬に破られた。
 忍びとして無意識からの感情制御を訓練し、多少のことには動じないのだが、それでも思わず小さく息を呑んでいた。

「ありゃあ」

 低く呻く。
 奥に凝る影。雷蔵が闇を払うように燭台をすいと伸ばす。
 一体どれほどの年月を経たものだろうか。からからに干からび、固く細く萎んだ人がそこに座っていた。
 壁を背にこちらを向き、組んだ足に石の板を乗せて鎮座するのは、まぎれもない人の木乃伊だった。
 僅かに染め色と文様を残す衣は、いつの時代のものとも知れなぬ古い形式を残している。限られた空気中に密閉されていたからだろうか、ぼろぼろながらも風化を免れ、全体像が保たれていた。だがその座姿から、死後ここに葬られたのではなく、生きているうちに自らこうして命が尽きるのを待っていたとしか思えない様相だ。

「即身仏―――というわけじゃなかろうが」

 美吉は眉を顰めて観察する。忍びの生業として、医者の生業として、人間の死体は腐乱したものから白骨化したものまで見慣れているが、さすがに乾屍は初めてであった。

「60余年前に見た時と全く変わらぬお姿じゃ」

 独りごちる治兵衛に、雷蔵は美吉のように期待も失望も露わにせず木乃伊から視線を移した。

「誰だい?」
「究玄道士じゃ」
「これが?」

 素頓狂な声を上げて美吉が改めて視る。魂の有無に左右されるのか、生者に比して死者から拾える情報は曖昧で断片化しているが、意識して注視すると、左眼は確かにそれが〈秘伝〉の創祖本人であると告げていた。

「ここは密かなる間。何者にも踏み入れられぬように、究玄がその力で作り上げ、最期の場としたと伝えられておる」

 治兵衛は語り、すっと腕を伸ばし奥を指差した。

「語り部が知るのはここまでじゃ。真の秘事はあれにある石板にすべて記されておるそうだが、それは余人には読めん。儂らに語り継がれるのは、真実の在処のみ。その内容は〈秘伝〉の継承者だけが知ることができる」

 雷蔵はひとしきり周辺を見回し、侵入者を弾く術や罠が仕掛けられていないことを確認してから石版に近づいた。
 跪き、燭台を近づける。火を受けて、版の上に刻まれた文様が影を浮かび上がらせる。
 漢字のようで漢字ではない。古の字にも見えるが、全く異質な文。雷蔵の瞳が僅かに見開かれた。

「美吉」

 気味悪がって遠巻きにしていた情けない相棒を呼ぶ。若干嫌そうにしながら、美吉は雷蔵の横に片膝をつき、同じように石板を覗く。ところがいくらも見ぬうちに釘付けになり、やがて常に気怠そうな半眼に困惑の色が浮かんだ。

「こいつは」

 無意識に呻いた横から、雷蔵は徐に文を指先で辿る。それから美吉にだけ聞こえるよう僅かな吐息で呟いた。

「我、天地を求め南北を尋ね東西を渡る。東海の果て、蓬莱の深くに至りて終に真理を究め、記したるところの書、二つに分つ」

 そこで指が止まった。美吉が目を僅かに眇め、同じく声なく続きを口にした。

「是れは我が罪の果なり。過ちの証なり。而して吾なお力無し。人の人たる所以は其の分にあり。天与の分を過ぐは人道に非ず。然るべき天道に(もと)らば(さち)(わざわい)と為る(のみ)。しかして然るべき聖人を以てせば、歪は正、凶は吉に転ぜんや」

 二人は目を合わせ、それぞれに思うところが同じであることを確認する。雷蔵は膝を伸ばし、身体ごと治兵衛の方へ向いた。燈明が揺れ、壁に奇々怪々な影絵を浮かび上がらせる。

「究玄の遺したもので間違いない。この文字は、〈秘伝〉に使われている忍び文と同じだ」
「なんと」

 〈秘伝〉には他者が悪戯に触れられぬよう、多くの仕掛けがなされている。その一つが文字だ。〈秘伝〉の奥義は暗号ともいうべき謎の文字で綴られている。忍びの間で守り伝えられてきたため、便宜上忍び文と呼んではいるが、実際はいずれの隠れ里のものとも異なり、継承者にしか読み解くことができない神秘の文字だった。

「それも、天義書と地義書双方の文字を使っている」

 美吉が石板に目を落としたままぼそりと付け加える。
 〈秘伝〉は他者解読不能の暗号文で記されているが、天義書と地義書もまたそれぞれに別系統の字が使われている。たとえ同じ〈秘伝〉の継承者であっても、互いに干渉し合えぬように仕組まれているのである。だから声に出して唱えたとしても、己の〈秘伝〉と共通しない文言については継承者同士でも理解できない。このことは雷蔵も美吉も、お互いに会って初めて知ったことだった。
 つまり究玄は、いつの日か天地の継承者が揃ってこの地に立つことを予知、あるいは期待して、この石板を残したということになる。

「ところで前から気になっていたんだけど、君の眼で天義書は読めないのかい」

 雷蔵は再び美吉の隣に屈み込みながら、再び息のみで囁きかける。治兵衛を信用していないわけではないが、内容が内容なので、念のため二人だけで会話を共有することにする。

「俺も思いついてやってみたことがあるが、どうも無理らしい」

 美吉は首を振った。天目一箇神の宿る左眼はあらゆる真を見抜くという。実際、以前外つ国から来た伴天連の南蛮語はその気になれば理解できた。厳密にいえば、美吉の場合は耳から入った音を分析するのではなく、言葉を発する者の心を透かし視ている。しかしかつて雷蔵が〈秘伝〉の句を唱えるのを興味本位で試してみた時は全くであった。文字となればなおのことである。

「多分、天目よりも〈秘伝〉の方が力が強いんだと思う」

 美吉はそう分析する。いかな神といえどもその力は絶対ではない。天目一箇神は古く格式高い神ではあるが、〈秘伝〉の秘める理と孕む力もまた神格に匹敵する強大なものだ。両者が鬩ぎあった結果、〈秘伝〉の力が天目を上回った。だからこそ美吉は〈秘伝〉で荒魂を制御できるのだが、その分、天目一箇の眼力もまた抑制されるらしい。
 美吉に読み解けるなら、彼に先にすべて目を通してもらってから後で話し合おうとも考えていた雷蔵だったが、そういうことであれば仕方がない。 二人は異なる文字の入り交ざる文を交互に読み続けた。

―――二書の主、天は男、地は女に親しむ。(ある)いは時に天に女、地に男も在り。(これ)みな陰陽の理ならんが為なり。性、異ならば交わりて一になる。是、禁法なり。しかれど性の同じきは此の限りに非ず。又、書に宿りたるところの護法、(もと)より書に帰するものなれば必ずや(これ)を守らん。しかるに其の意を得らば、理は自ずから森羅万象に帰せん。願わくば、(いづ)れの時にか斯くの如き人の(あらわ)れんことを。故に吾、(ここ)に秘儀を守りて独り待たん。
前へ 目次へ 次へ