広い世を流離い、ついに倭国の内地深くにて理を得、二つの書に記し分けた。なんという愚かな罪であり、人の天分を越えた恐ろしい所業だったのだろう。しかし最早己の力ではどうしようもない。過ぎた力は禍にしかならない。このことを真に理解した者が、あるべき形に正すことができる。天地の〈秘伝〉の継承者がそれぞれ男女であったなら、その交わりによって陰陽が交合し、二つの書は一つに戻るだろう。だが同性の場合はこの限りではない。また護法はどんなことがあっても〈秘伝〉を守るが、もし彼らの同意が得られれば、〈秘伝〉を無に帰すこともできる。いつかそれを成しうる者が現れるその時まで、命尽きて後もこの秘法を守りながら待とう―――大意を訳せばこうなる。
 美吉が頭を掻きながら、大仰に鼻を鳴らした。

「最後まで言い訳がましいな、究玄ってやつは」

 雷蔵は同意とも否定ともつかぬ相槌を打つ。

「相当後悔していたようだね」
「呆れて怒る気も失せたぜ」

 重く長嘆息して美吉は腰を上げ、背伸びした。憮然として見えるのは、究玄の身勝手さへの憤りばかりではなく、勿体つけた割りには大して解決にならぬ遺言に対しての苛立ちもあろう。実際、〈秘伝〉を消滅させる方法は、ほぼ雷蔵が推理した通りだった。だが肝心の具体的な方策が記されていない。否、方策はあるが、強制的にそれを実行する術はない。護法を説得せよ、つまり自力でどうにかしろということで、全くの丸投げである。
 雷蔵もまた立ち上がりつつ、石版とそれを抱き続ける屍を見つめる。吐息のみの会話は続いていた。

「けれどこれで推測が確信になっただけでもよしとしよう。それに、〈秘伝〉を一つに戻す方法も分かったことも収穫だよ」
「俺たちが当代である限り、絶対に不可能ってことだな」

 その一文が記されたところを美吉は一瞥する。

「そういえば、地之巻はどちらかといえば女の方が継ぎやすいと、昔師匠が言っていたな。男は俺でようやく三人目だと」

 継承者は必ずしも歴代全員のことを知っているわけではないが、一応は祖師であるから大体の話は口承で聞いている。
 雷蔵の方は、京里忍城の里長が代々継承者となるため、美吉よりも歴代についての記録をよく見知っていた。

「天義書はほぼ男だね。女の継承者は一人だけだ。俺の場合、単純に隠れ里の長が継ぐものだからあまり疑問に思わなかったけど、天の〈秘伝〉は男に、地の〈秘伝〉は女に親和するものと言われれば納得はいく」
「陰陽の法則ってやつか」

 あるいは、天地どちらに関わらず異性同士の方が継承しやすいのかもしれない。一方が男なら他方は女と、まさに磁石の対極のごとく引き寄せられる。ただ絶対ではなく、あくまで傾向というだけで、同性の継承者が存立しないというわけではない。しかし雷蔵たちの代が天地が会する初の掟破りでありながら、たまたまその稀な同性継承者だったのは皮肉というべきか。

「だから天地の継承者たちは互いに会うことを避けていたんだな」

 少し陰りを帯びた声調で、美吉がぽつりと呟いた。究玄は継承者同士の交わり―――曖昧な表現だが、恐らく男女間の肉体的な交渉だろう―――によって〈秘伝〉を統合することは禁法だと記している。そして初代の継承者たちもそれを知っていた。代々忠実に守られてきた戒めが破られたのは、先代の地義書継承者が雷蔵に会わないかと打診してきた時からだ。京里忍城が陥ちたことで、彼女は二つの〈秘伝〉と継承者の在り方に変化が訪れることを予感していたのか。今となっては知る術はないが、こうして珍しい組み合わせの継承者が二人揃って究玄の前に立っている事実が、すべての証のようにも思えた。

「問題は、主理がこの事実を知ったらどうなるかだ」
「間違いなく俺たちから〈秘伝〉を奪って、一方を自分に、残りを適当な女性に継承させるだろうね」
「ああ。そうなる前に〈秘伝〉を消滅させないと」
「けれど護法の説得には相当の時間がかかるだろうし、同意が得られてもすぐに消えるものなのかどうか分からない。俺たちの命が尽きるまでは一蓮托生という可能性もある」

 雷蔵は継承者になった者がそう簡単に徒人に戻れるとは思っていなかった。むしろ一度〈秘伝〉の理を受け継いだならば、二度と元の人間世界の枠の内には戻れないだろう。この身に継承したからこそ分かる。奥義を伝授されるごとに、身体の組織の一つ一つが変わっていく。森羅万象に己の魂の一部が同化するのだ。〈秘伝〉そのものを発動させてなくとも常に理を裡深くに感じ取っている。二本足で歩く方を知った者が、今更知らなかった四つん這いの時に戻れるはずがない。
 そして人知外の領域に手を触れ自然に干渉した代償として、まともな生き方死に方は決してできない。歴代の継承者たちの生き様死に様がそれを物語っていた。人の身に森羅の理は余るのだ。雷蔵や美吉だけがそれを免れることは恐らくないだろう。彼らの死をもって〈秘伝〉と継承者の歴史が打ち止めになるのならそれでもいいが、その前に奪われては水の泡である。

「主理を退けながら、時間がかかっても護法を説得するしかないな。面倒臭ぇことこの上ないが」

 美吉が天を仰ぎ、身体を伸ばしながらだるそうに結論付けた。結局のところいつだって物事が上手く運ぶ術はなく、なるようにしかならない。
 と、不意に美吉が何かにピクリと反応した。表情を引き締め、にわかに天井を見回す。「まずい」と唸った。一瞬で緊迫した事態を感じ取った雷蔵が、落ち着いた声音のまま素早く問う。

「どうした」
「岩が唸っている―――崩れるぞ」

 言うや、二人は素早く身をひるがえした。美吉は来た道とは逆の、行き止まりの壁に走り、雷蔵は唖然としている治兵衛を素早く背負ってそれを追う。美吉が鍼で岩壁に大穴を開けるのと、大きな地揺れが襲うのは同時だった。
 天井からガラガラと大音が上がり崩れ落ちてくる。大小の岩は容赦なく四方八方に注ぎ、壁を床を打ち砕く。惨い音と共に、究玄の骸も容赦なく圧し潰されていく。治兵衛と雷蔵の頭上にも降りかかってきたが、身体に触れる寸前で弾け、あるいは砂となって散じた。美吉の〈秘伝〉の力が波動で伝わってくる。

「先に行け!」

 雷蔵は地を蹴り、拓かれた坑道へ一足で飛び込む。一方美吉はすぐには追わず、急に広間に向き直り、屍が座っていたあたりを注視した。激しい揺れも気にせず右手を翳し、書を書くように鋭く、しかし優雅に滑らせる。地中では雷蔵の中の天理は力が弱くなる。だから美吉のように地下の崩壊も予測が遅れたし、美吉が今現在行使している理も読み解けないが、彼が何をせんとしているのかは何となくわかった。

「悪い、待たせた」

 事を終えた美吉は雷蔵たちを追い抜いて孔の行き当たりに立つと、徐に壁に手を触れた。

「鍼だと時間がかかるからな」

 言い訳のように呟き、目を伏せる。揺れと轟音の最中に、小さな文言が風に乗る。内容は理解できないが、身の内に宿る〈秘伝〉が波動するのを雷蔵は感じ取った。共鳴しているのだ。

―――

 低く唱えられた言に、地揺れとは別に壁が細動した。穴がにわかに歪み、石が塵と化し、瞬きを三回するころには道ができていた。遥か彼方から吹き込む風の気を感じる。

「外まで道を繋いだ。行くぞ」

 顎をしゃくる美吉に頷き返し、雷蔵たちは暗い天然の地下坑道を疾風のごとく駆け抜けた。
 遠ざかるにつれ振動は微かなものとなり、外界に出た途端あたりの静けさに落差を感じた。
 振り返っても、そこには入る前と寸分変わらぬ、中で崩落があったとは思えぬ穏やかな景色が広がるばかりである。

「狐につままれた気分じゃ」

 雷蔵の背で治兵衛が呆然と言う。人心地ついた美吉がやれやれと溜息をついた。

「究玄の仕掛けか」
「役割を果たした後、二度と人目に触れぬよう証拠隠滅するためだろうね」

 〈秘伝〉の継承者であれば逃れられるという計算を織り込み済みで。

「最後まで用心深いというか、面倒なやつだな」
「そういう君も石版を壊したんじゃないのかい」
「そのつもりだったんだがな」

 ぼりぼりと埃を被った頭を掻き、あらぬ方を向いて答える。万一のことを考え、地義書を使って石板を粉々に粉砕しようと思ったのだ。

「俺が砕く前に、ひとりでに塵と化したよ」

 これも究玄の思惑とすれば徹底している。

「ここまでくると念入りを通り越してむしろ脅迫的だね。……それほどまでに、一体何に警戒していたんだろう」
「……」

 美吉はその言わんとするところを沈思する。
 そんな彼らを見比べ、ひとり治兵衛だけが呆けたように佇んでいた。

「主らはまこと、継承者なのじゃな」

 派手に目立つ術ではないまでも、〈秘伝〉の力を目の当たりにした語り部は、ようやく己が抱えて来たものを実感したようだった。

「幾星霜を経て、ついに〈秘伝〉は郷に帰ってきたのじゃな……」

 感慨深くしんみりとした呟きに、二人は顔を見合わせるのみで、言葉は返さなかった。




第6話・完
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