密 ひそかとこまか



「今回招いたのは別の地では『白山比咩』の名で奉られている女神だ。とはいっても、特定の地に縛られる土地神ではなくこの白山全体に魂を宿す神霊のようだから、山神であると同時にこの村の氏神として位置づけていいと思う。かの御柱は新たな御座村の氏神として、旧来の奥座山霊の名と神格をも引き継ぐことを了承してくれた。だから祭神名はこれまで通り奥座山霊とするのでも、白山比咩神と並記するのでも構わない」

 社によって一柱の祭神が複数の別名を持っている背景にはこうした由縁もある。要するに、元は別々の神であったものが融合した結果ということだ。
 墨をつけた筆を持ち、地面に敷いた真新しい木板の前に膝をついた雷蔵は、村人たちにそう説明した。これより祠内に納める神璽に神名を記すのである。この作業は別に審神者でなくともいいのだが、字を書ける者がそうそういるものでなし。これも務めの一環ともいえる。
 周囲に群がる村人たちは分かったような分からないような顔で、とりあえず何か重大なことに違いないと神妙に長老を伺う。
 紫に支えられて立つ治兵衛はしばし黙考し、雁首揃える同胞を見渡して「では並記してもらおう。みな良いか」と尋ねた。問われても困惑して曖昧に頷くか互いに顔色を窺うばかりだ。
 意義唱える者なしと見て、雷蔵は板に筆を滑らせた。「奥座山霊大神」「白山比咩大神」と二行に亘り記す。それを受け取った浅葱が白い懐紙で決められた形に包み、紐で結わえて粛々と祠へ納めた。続いて傍らに置いた神鈴、神鏡を順に左右へ配し、最後に三方に乗せた御神体を中央へ安置する。雷蔵が柏手を一つ打ち、村人たちが手を合わせ拝する中で浅葱の手によって小さな扉が閉ざされた。
 浅葱は本人の念願叶い、晴れて長老より村神子に任じられた。てっきり紫になるであろうと予想していた多くの村人は意外そうに首を傾げた。

「新しい神様は女神様だ。山の女神は嫉妬深いというし、男が仕える方が喜ぶだろ」

 何故か居丈高に浅葱が言えば、村人たちもそんなものか、と押し切られるように受け入れた。畢竟、彼らにしてみればどちらがなったところでちゃんと務めを果たしてくれさえすればよいのである。薄情なようだが、浅葱にも紫にも肉親がいない。村神子を巡って真剣なのは当人たちだけだ。
 そんな浅葱を遠くから紫は物憂げに見つめている。そこには複雑な感情がせめぎ合っていた。

「ホッとしたか?」

 突然横合いからかかった台詞に、ぎくりとして顔を上げる。
 美吉が人だかりに顔をやりつつ、こちらに向かって歩いてきていた。ちらりと横目で紫に一瞥をくれ、すぐさま広場の方へ戻す。
 紫は肩を窄めるように小さくなった。

「そう見えますか」
「自責の念に耐えられないって面ではあるな」

 俯いた紫は今にも泣きだしそうだった。まるで自分がいじめているかのようで尻の据わりが悪くなった美吉は、やや面倒くさそうに嘆息して言い直した。

「別に責めちゃいない。自己嫌悪も分かるが、ほどほどにしておけ」
「それでも私は卑怯で臆病な自分が許せないのです。覚悟を決めたはずだったのに、土壇場になって我が身可愛さのあまり、お役目を浅葱に押し付けて逃げてしまった……」
「たかだか十余年しか生きていないくせに、臆病だとか覚悟なんて言葉を簡単に口にするもんじゃないぞ。自分が可愛くて当然だ。お前もあの餓鬼も所詮ひよっこなんだからな。己を犠牲にするのも、人生を賭けるのも、まだまだ早い」

 言いながら、美吉は心の内で自分達の場合はどうだっただろうかと思いを馳せる。
 美吉が〈秘伝〉を継承したのは未だ弱冠に満たない頃だ。元服は越えていたものの、雷蔵とは違いまだ精神的にも半人前だった。だが、そもそもからして忍びに子ども大人は関係ない。美吉も雷蔵も、年齢に関わらず甘えなど許されない世界で育った。もちろん師であり育ての親である紫香はそれでも美吉を慈しんでくれたし、雷蔵の状況も不遇というほどではなかっただろうが、それでも影働きを生業とする以上、年端いかぬ時分より相応の覚悟と責任を強いられた。選択肢などなかった。

 しかし彼らは違う。日向の世に生きる浅葱と紫が身に合わぬ責任感を持たねばならない道理はない。むしろ反省すべきは村の大人たちの方だ。“通力”があるというだけで、子どもらにこれ幸いと甘え、役目を背負わせているのだから。
 それに、と美吉は村人に囲まれた少年をついと見やる。

「押し付けたと言うのはお門違いの罪悪感だな。あの餓鬼は自らそれを望んだんだ。それこそ本望というものだろ。その代わり、お前は絶対不幸になっちゃいけない。一生負い目を持ち続けるのはあいつに失礼だぞ」
「……はい」

 涙滲む目尻を擦り、少女は俯いた。




儀式の後始末と片づけがすべて済んだ時には、山間の村落はすでに夕闇に沈んでいた。
 燭を灯した屋敷の一室では、いつかのように長老と法師ふたり、そして新任の村神子の姿があった。唯一違うのは少女の姿がないこと。呪いが解かれ、村神子の責務からも外れた紫は、最早心身の危険はないということで家に帰された。今頃は想い人との逢瀬を果たしているころであろう。
 一方、まだすべての事態に収拾をつけていない面々だけが、こうして再度集まり一同に会していた。

「まずは、呼子術の解除法じゃが」

 咳払いを一つして、治兵衛が口を切った。何を置いても先に解決すべきは浅葱が雷蔵にかけた術を解くことである。このままでは御座村から身動きができない。

「あれは〈失せ物探しの鈴〉を使って施すものでな、かけるのも解くのもそう難しくはない」

 施術の対象に向かい念を籠めて鈴を振るだけで蜘蛛の糸のごとく互いの縁を絡めるもので、特に呪術の修練などしたことのない浅葱程度でも遣えるのだという。

「ただ対象が意思を持たぬものの場合は単に“印”を消せば済むが、意思を持つものの場合は魂に“印”が刻まれるゆえ、ひと手間必要になる。まず被術者が決まった呪を唱え、それを受けて施術者が同じく呪で応える。両者が真実、解術に同意した時に鎖が切れる仕組みになっておる」

 成程と、雷蔵は向かい合って座す浅葱との間に置かれた神鈴に視線を落とす。

「呪の文言は?」

 老人は一対の文句を口にした。雷蔵は一度で頷き、浅葱はその古めかしくややこしい言い回しを二度聞き直して、更に数度舌の上で転がしてから向き直る。

「いいかい」
「うん」

 雷蔵は静かに浅葱を見据え、応えた声と同色の緊張と真摯をその面に確認して、一呼吸した。

(ゆえ)以て懸けらるる我が(えにし)、汝が(ゆかり)(ここ)に以て疾く解くべし」
「しるしに懸けて結びし由縁の輪、(ここ)に応えて相解かん」

 りん、と脳のどこかで涼やかな音が鳴る。耳に聞こえぬ音色が弾け、身の内に目に見えぬ波紋を描いた。
 治兵衛が「これで終了だ」と宣言する。浅葱が大仰に肺から息を吐き出しながら肩から脱力した。

「あんまり実感がないけど」
「まあ結果は今夜試せば分かるだろう」

 雷蔵は微笑みそう言ったが、術が無事解けたことは感覚で確信していた。
 それからそれとなく治兵衛に目をやる。長老が僅かに頷き、襖の方へ二度ほど呼びかけると、はあいと慣れた声音と共に軽い足音が近づいた。襖が開き、初日から浅葱をはじめ雷蔵や美吉の世話をしてくれている女中のすみが現れる。治兵衛は板敷に大の字になっている浅葱へ改まった顔を向けた。

「浅葱。明日より正式な村神子としての披露目と祝いの宴の用意に入る。段取りはこの者に申し付けてあるから、詳細を聞いて準備に取り掛かりなさい」
「ええ、今から?」

 がば、と上体を起して煩わしげに表情を歪める浅葱へ「今からじゃ」とすげなく返す。

「急ぎ精進潔斎に入らねば、次の吉日に間に合わぬぞ。氏神様への最初のご挨拶からご機嫌を損ねる気か?」
「……ちえっ」

 不精不精腰を上げ、控えて待っているすみの許へ行く。途中、名残惜しそうに雷蔵たちの方を振り向いたが、すみに促され渋々と部屋を後にした。
 二人分の足跡と気配が十分遠ざかったところで、雷蔵と美吉は改めて治兵衛に向き直った。

「呼子の術は、対象が無機物であれば印を消すだけで解けると言ったね」

 雷蔵が急くことなくのんびりと指摘するのに合わせ、美吉は己の〈秘伝〉の書を取り出した。左眼を凝らし、手先でくるくると回す。

「だが、これにはどこにもそれらしき印は見当たらねえぞ」

 皺面が重々しく左右に動く。

「〈秘伝〉は無機の物にあらざる故」
「ということは……」

 弄ぶ指をぴたりと止めて、美吉が上目遣いに翁を窺う。

「伝え聞く話によると〈秘伝〉には意思が宿っておるそうだが、その意思が応えの呪を返さぬ限り縁の輪は切れぬ」

 予想通りの答えに美吉は黙然と髪を掻き思案に沈む。雷蔵は早々にその件を後回しにすることにして、次の問題に移った。

「じゃあ早速で悪いけれど、件の秘事について伺おうか」

 治兵衛はしばしの間じっと俯き何かを噛み締める。濃く刻まれた皺の影に年月の重みが滲んでいる。それは出し惜しみしているというよりは、永い時をかけ代々語り部として受け継がれてきたものへの感慨に耽っているようであった。
 老人の回顧を邪魔せぬよう静かに待つ。やがて寂びた声音がゆっくりと紡がれた。

「すべてが丸く収まった今、否やを言うべくもない。―――すまんが、手を貸してくれんかの」

 立ち上がろうとする治兵衛を二人でそれぞれ支える。

「ついて来なさい」
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