先ほど紫の位置に座した浅葱を見つめ、再び所定の場所へ腰を落ち着けた雷蔵はかすかに首を傾けた。

「本来であれば潔斎をしている方が望ましいんだけどね」

 嘆息交じりに呟く。しかし、実は浅葱が密かに紫と同じく身を清め肉食を絶っていたことを雷蔵も美吉も知っている。こんなことがあろうかと思って、というわけではなかろうが、どこかでいざとなれば自分が、という思いがあったのには違いない。
 再び胸を疼痛が襲う。待たされ続けている神が苛立っているのが分かる。時間がない。雷蔵は痛みに乱れかける気息を呼吸一つで宥め、浅葱に素早く言った。

「神はもうそこまで来ている。さっきのように時間をかけて導いてあげられない。すぐに神を降ろすから、唄だけに集中してできる限り心を無にするんだ。いいね」

 浅葱はごくりと唾を飲み「分かった」と顎を引く。目を瞑り、全意識を集中させる。
 こめかみから汗を伝わせながら、雷蔵は弦に指を滑らせた、意識と目線は指先に注いだまま、唇を開く。

「紫さん」

 不安と自己嫌悪でひどい顔をしている紫が、弾かれたように頭を上げた。

「かごめ唄は分かるね」
「あ、はい……」
「今から弾くのに合わせて唄うのを手伝ってくれるかい」
「え?」

 かごめ唄は彼岸と此岸の境界を曖昧にする効力のある呪い歌である。憑代がなかなか神懸りになれぬ時、周囲がかごめを唄い巡ることで手助けすることがある。本来は補助的な使い方なのだが、〈龍の民〉ではかごめ唄を使って依坐を短時間で神懸りの状態へ導く法が編み出されていた。ただし、あくまで神降ろしの条件がすべて整った上で初めて有効となる。先ほどの紫の時のように、場が形成されていない真っ新な状態からでは使用できないのである。おまけに単独の唄い手では施せない。また聴覚的な効果から、唄い手は子どもや女性など声の高い者が推奨される。
 かくのごとく色々とあるのだが、生憎これらをいちいち解説している時間はない。

「悪いけど説明は後で」

 紫はきょとんと赤い目を瞬いていたが、さっと表情を引き締めて「はい」と応じた。
 ほぼ同時に雷蔵は瞑目し弦を抑えながら弓を当てる。空気を震わす幽玄の音が流れる。
 時に強く時に弱く、あるいは太く細く伸びる旋律に耳を澄まし、紫は寄り添うように唄い始めた。それを追うように、雷蔵が輪唱する。


  ―――かごめ かごめ
  
  籠の中の鳥は いついつ出やる


 ゆっくりとした歌声が輪を描き重なり響き合う。それらが作り出す不思議な揺らぎに耳を澄ませていると、不意に後頭部から脳内が重たく靄がかり始める。浅葱は直感的にこの独特の感覚こそが“それ”なのだと悟り身を委ねた。不思議と恐ろしくはなかった。自分はこれを知っている。幼い頃、山で意識を失う前に感じたもの。神が側に降り立つ気配。身体から精神がふわりと浮き、白く染まる。そこへ何かが頭頂部に触れた。じわりと疼き痺れる間隔がゆっくりと下がってくる。


  夜明けの晩に 鶴と亀が滑った

  後ろの正面だあれ


 唄い終えると同時に、雷蔵は弓を反して撥で掻き鳴らし、続けざまで神降ろしの謌を紡いだ。


  あはりや 遊ばすと申さぬ よりしろに 降り坐せ

  ひふみよいつむなやここのたり 布瑠部 由良由良止 布瑠部


 嫋と響きが空気を打つと、浅葱の頭ががくりと落ちた。紫がはっと息を呑み、治兵衛が杖頭を握る。美吉は微動だにせず黙然と先を見守った。
 項垂れた面がゆっくりと持ち上がる。眠るように閉ざされた両眼の下で少年の唇が薄く開いた。

()を呼びしは()か。あな珍し、人間(ひと)に呼ばるるは何時ぶりか」

 浅葱の声であるのに、それは明らかに違った。一音一音に神威が宿って響き、言霊が鼓膜を打つたび力の波動に全身が総毛立つ。物慣れぬ紫はそれだけで圧倒され、震えが止まらなくなった。人間の声帯を借りてはいても、それは紛れもなく神威の音だった。
 雷蔵は正面をひたと見据えたまま、再び緩やかに弓弾き、静かに問いかける。

「今しに降りたるいずれの御柱(おんばしら)よ、御名(みな)を問う」
「生憎と吾は元名を持たぬ。あるいは白山比咩(しらやまひめ)と呼ぶ者もある」

 降りた神の名を問う〈名問い〉にはこういうこともある。神は大小様々あらゆるところに宿り、人間の畏怖を受けて(みたま)を宿す。すべての神が生まれながらに真名を持っているわけではなく、いつの間にか世に生じ、後に名づけられたという場合も少なくはない。特に山や川、海など茫漠とした森羅の神々には、土着の人間たちもわざわざ固有の名を与えることなく、ただそのものを崇拝することが多かった。
 そうであっても、一部の者から白山比咩に据えられているとなれば相応に力ある神霊だ。白山といえばこの飛騨を含め、加賀、越前、美濃にまたがる霊峰の総称であり、古くからその土地の人々の信仰を集めてきた。白山を冠する神名であれば、飛騨の奥山に位置する御座村の勧請に応じるのも妥当である。
 真名がなければ通り名をもって名問いの返答とする。雷蔵の血肉に流れる審神者としての霊感は、浅葱に降りた神が白山に縁を持つ女神に相違ないことを訴えていた。

「確かに白山比咩神とお見受けする」

 返事を受けてその名を声に乗せると、未だ不安定であった憑依がようやく落ち着いた。

「しかし呼びつけておきながら随分と待たせてくれたものよ」

 冷たい霊気が霧を生じさせる。氷の棘のように突き刺すひそやかな怒気を感じ取り、紫は戦いた。自分のせいだ、と色を失った唇を震わせる。しかし声にする前に、隣に立つ美吉が一瞥せずに肩を軽く叩き、大丈夫だと暗に留める。
 それを証とするように、雷蔵は僅かに目線を落とし、落ち着き払った様子で緩やかな調べを奏で続ける。雨上がりの白露を落とす山林を思わせる、冷涼静謐と透き徹った心地よい音曲にふと心を奪われた。

「欠けたるところの多い人間(ひと)の身ゆえ、白山比咩神におかれては何卒ご寛恕戴ければ」
「ふむ、まあよい。妙なる龍の楽に免じて此度の不手際、大目に見よう」

 楽しげに鷹揚と応じる女神は、雷蔵の紡ぐ音色にうっとりと聞き惚れていた。

「それに“成り損ない”の審神者に逢うのも稀なことであるしの」

 その台詞の意味を知る者は多くはない。僅かに反応を示したのは美吉だけであり、紫はすっかり神威に呑まれ、治兵衛は神事の行く末を見守ることに集中していて、それぞれ疑問を持つ余裕はなかった。
 言われた当人である雷蔵は眉一つ動かすことなく、黙然と受け流した。

「かけまくも畏き白山比咩大神に伏して奏上奉る。これなる御座村は(さき)の奥座山津霊が去りてより既に百の歳月(としつき)を数え、しかして久しく加護なきところ、いま再び新たなる神霊の光臨を待ち望むもの」
「先刻承知じゃ。だがその代り汝らは何を対価とす」
「前例に則り、巫覡一名が御身に仕え(つかまつ)り、日毎の祈りと饌を捧げ、祭日を定め祝詞神楽にてお祀り申し上げる。如何に」
「良かろう」
「奥座山津霊の神名に融されることを厭われぬか」
「奥座山津霊は白山に連なる同胞(はらから)。元より名を持たぬ吾が身なれば、朋の名を継ぐもやぶさかではない。何よりこの地は豊かな気に満ちて居心地がよい。気に入った」

 浅葱の姿を借りた白山比咩が哄笑すれば、その口から神気が霧となり雲となり雨となり稲光となって四方八方へ舞い上がった。にわかに強風が吹き荒れ渦を巻く。
 それは厄災の具現ではなく、言祝ぎの御業だった。
 恙なくとはいえないまでも、事が無事に収まりそうな気配に誰もがホッと胸を撫で下ろした時、風の渦に乗って神の声が響いた。

「ただし一つ、新たに改めよ」

 はっと一同が浅葱に視線を注ぐ。
 竜巻の中心で笑みを湛える少年の瞳は今見開かれ、金とも銀ともつかぬ神々しい輝きを放っていた。

「吾は血の穢れを厭う。饌は獣肉を避けよ。巫覡はおのことし、月の障りあるおなごは吾が祠に近づくこと能わず」

 一方的に言い募り、風は轟音を伴いますます激しさを増して五人の髪や衣を浚う。まともに顔をあげれば息もできぬほどの強さに、体重の軽い紫や老体の治兵衛が吹き飛ばされないよう美吉は二人を支えながら足を踏みしめた。
 雷蔵は泰然として再び撥で重音を打った。驚くべきことに、これだけの風の中で琵琶の音はかき消されることなく一筋の道のごとくはっきりと響いた。

「心得仕った」

 声を張り上げ応じる。
 感情を表わすように、神威の起こす象がますます激しさを増した。

「契約は(ここ)に相成った。このめでたき日を吾が祭り日とせよ。祝えや祝え」

 潮時を見て取った雷蔵の指が弦を滑る。最後のひと仕上げだ。

「これより神返しの儀を行う」

 風に乗ってなお紛れぬ唄い声が響き渡った。


  四方を開く 八方を開く 白山比咩大神にして奥座山津霊なる御神霊をやしろにお送り申す いざや


 短い句を唱え終わるや、円陣の外を四角に囲う四辺の注連縄が一斉にぶつりと切れた。
 ごう、と一際大きな豪風が周囲を巻き上げながら天上へ吹き抜け、再び下って開け放たれた祠の内に吸い込まれた。尾まで入ると、祠は独りでにバタンと扉を閉ざした。
 あとには虫の声と、嵐のあとの静けさが包み込んだ。
 美吉に守られていた老若はあまりの出来事にすぐに言葉が出てこない様子で、茫然と神の去った広場を見つめている。
 そして面を伏せる雷蔵は楽音の余韻が消えるまで瞑目し、やがて静かに弓を置いた。
 向かいの浅葱はいまだ瞼を閉ざし口を半開きにしたまま座っていた。神懸りの状態からまだ戻りきれていないのだ。何分初めての神降ろしであるからしようがない。
 やれやれと思いながら、雷蔵はすうと息を吸った。

「『浅葱』」

 空気を割るような柏手が響き亘る。
 雷蔵が名を呼び両手を打った瞬間、浅葱の目がばちりと開いた。

「あれ?」

 きょとんと瞠った双眸を瞬く。何が起きたのかよく分かっていないようだ。神を降ろしている間の記憶の有無は依坐によって異なるが、恐らく浅葱の場合はほとんど覚えていないだろう。意識が遠のいたと思えば、気づいた時にはすべてが終わっていたわけだから、混乱するのも無理はない。

「お疲れ様」

 浅葱の前に立った雷蔵は微笑み手を差し伸べる。
 ぽかんと目の前の掌と持ち主を交互に見比べてから、浅葱はようやくのろのろとその手を取った。足に力が入らないらしく、難儀しながら何とか立ち上がる。

「浅葱!」

 そこへ、横合いから少女の叫び声と共に小柄な影がぶつかってきた。

「ゆ、紫……」
「浅葱ごめんね、ごめんね」

 己と変わらぬ背格好の少年を抱きしめ、紫は涙ながらに謝り続けた。
 肩口でおいおいと咽び泣かれ、浅葱は驚きと困惑のためか青くなったり赤くなったりしながら、救いを求めるように横の雷蔵を仰ぐ。年相応の頼りなく情けない表情だった。
 雷蔵は助けるでもなく、淡く微笑み返した。

「賭けに勝ったね。おめでとう」

 それが純粋に、依坐としての素質について言ったものなのか、それ以外の含みがあったのか、浅葱には分からない。ただどこか照れくさそうに、そしてそれを隠そうとわざと不機嫌そうな面持ちをつくり、中途半端に浮かせた諸手を宙に彷徨わせていたが、そろそろと抱き着き震える背にそっと触れた。
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