紫は不思議な心地でいた。
 意図せず天を仰ぎみるようにしている。風の流れも人々の気配も草木の息遣いも確かにそこに存在を感じるのに、切り離されたようにすべてが遠い。現実の五感が鈍り、代わりに別の勘が研ぎ澄まされていく。すべてがおぼろげな中で、時に緩やかに時に飄軽に奏でられる神秘的な旋律と、中性的な透き通った歌声だけが聞こえる。身体が浮き、歌に誘われながら、高みへと舞い上るような感覚に、ああこれが神懸りというのかとぼんやり思った。

 ―――本当にいいの?

 あらゆる雑念が取り払われた無心の片隅で、ふと漣が立った。

 ―――本当に、このまま神を降ろしてしまっていいの?

 すうと背筋が冷たくなり、胸が早鐘を打つ。知らず呼吸が乱れ喘いだ。いいのか、と囁き声が繰り返す。
 このまま神事を行えば、当代の村神子はほぼ紫で決まりとなるだろう。いかに浅葱がだだを捏ねたところで、どうしようもない。実際に神を降ろしたのが紫である以上、神と交信できることを証明したことになり、他の人選はありえなくなる。
 しかしそれで本当に自分はいいのだろうか。村神子は神と人のつなぎ役として生涯を神に捧げ仕える。―――一生誰とも添い遂げることなく。
 ざわりと身体の内側で小さな波が立つ。
 駄目、と己を叱咤する。余計なことを考えてはいけない。今は神事に集中しなくては。第一、今更何を迷うのだ。とうに覚悟をしたことではないか。
 楽の音に無理矢理意識を傾ける。すると再び自我が遠くなるような浮遊感がやってくる。しかしそこでまた、内なる声が凪いだ精神に石を投じるのだ。雑念を追い払おうとするのに、一度振るえた水面は留まることなく波を大きくしていく。
 頭上に大いなる気配が渦巻き集まりつつあるのを感じる。神が降りようとしているのだ。
 瞬間、暗闇に閉ざされた眼裏に茂吉の姿がよぎった。
 髪を撫でた神威に全身に鳥肌が立った。止めようのない抵抗が間欠泉のごとく噴き上がる。


 雷蔵はハッとして、咄嗟に弓で弾くところを撥ではじき旋律を切り替えた。

「待たれよ待たれよ、時未だ来たらざれば」

 唄い替えた途端、ズキンと心臓に鋭い劇痛が走った。息が詰まるのを、眉を顰め堪える。
 始終神眼で様子を伺っていた美吉は、異変を察して身を乗り出し「まずい」と呻いた。
 その呟きを拾い上げた治兵衛が緊張しながら険しい横顔を見上げる。

「何があった」
「神が降ろせない」
「何だって―――?」 

 隣で聞き耳を立てていた浅葱が瞠目し、動揺するまま美吉と広場に視線を彷徨わせた。

「何でだよ」
「……依坐側に受け入れる準備が整っていなかったようだ」

 美吉ははっきりと理由を口にすることを避けた。
 浅葱は両眼を見開いたまま、顔を覆って蹲った紫を見つめる。

「どうするのじゃ」

 長老が囁く。言葉短ながらそこには危機感が凝縮されていた。

「他に降ろせる器がなければ、このまま一度還ってもらうしかない」

 しかしそう言葉で簡単には言えても、実際は非常に危険なことだった。儀式の進行は審神者に全ての責がかかる。一度呼び出した神を降ろさぬまま帰すというのは、いわば門前払いを食らわせるようなものだ。応じた神の怒りと神事の約束を破る負荷を一身に受けることになり、相当な苦痛を伴う。現に、常ならば余程の苦痛にも涼しい顔をしてみせる男が、いま楽器から手を放し地面につく姿はいつになく苦しげだった。ただでさえ〈気涸れ〉が癒えて間もない。
 しかし、それが分かっていても美吉では手が出せない。どのような形であろうと、一度始めた神事は最後までやり終えなければならないのだ。部外者はただ見守るしかない。


 雷蔵は数度深呼吸をして痛みの引くのを待つと、楽器を置いて紫の膝前に側寄った。その肩に手を触れると、びくりと震える。

「どうする?」

 静かに囁きかける。

「このまま続けるか、それとも」

 ごめんなさい、と小さな声が覆った手の間から零れた。

「私がやらないといけないと分かっているのに、駄目なんです。どうしてもできないんです……」

 震える声音は涙に濡れていた。

「紫のバカ、何やってるんだよ」

 浅葱は身を乗り出し吐き捨てた。二人の会話は小声で、美吉以外の二人にはよく聞こえない。焦れた風に浅葱は美吉を見上げた。

「どうすんの、神さまが来てるんだろ。このまま帰すの?」
「騒ぐな浅葱。神事の途中だぞ」

 治兵衛に厳しく嗜められ、ぐっと唇を噛んで押し黙る。

「一度帰すしかないだろう」

 美吉は座中の二人を見つめながら淡々と告げる。語調は沈着としているが、横顔は険しく張りつめている、今は一時的に儀を中断し、呼んだ神に請うてこの場に留めているが、それも長くは持たない。降ろせる器がない以上、命がけでもお帰り願うしかない。

「それでまたすぐに呼び直せるわけ?」

 訝りを含んで浅葱が低く問うのに、首を振る。

「一度拒んだ神はもう二度と呼びかけには応じないし、招神自体膨大な呪力と気力を要するから、一度に何回もやり直せるものじゃない。残念だが今回は諦めて、日を置いてから再度仕切り直しをするしか……」
「なら、俺がやる」
「は?」

 浅葱は背を伸ばしたかと思うと、ずんずん結界の方へ近づいて行った。「あ、コラ」と美吉が慌ててその腕を掴む。

「浅葱、馬鹿な真似はよさんか」

 治兵衛が杖に縋りながら立ち上がり、叱責する。

「そうだ。下手に邪魔して一歩間違えば更に大事になる。余計なことせず大人しく見てろ」
「放せよ」

 騒ぎに気付いた雷蔵と紫も何事かとそれぞれに顔を向ける。

「紫ができないなら、俺が替わる」
「お前じゃ無理だって言われただろうが」

 浅葱は腕を振りほどき、ギロリと美吉をにらみつけ、それから挑むように視線を移した。

「先天性が優先されるだけで、可能性がないわけじゃないんだろ。適合するかどうか、やってみなきゃ分からないじゃないか」
「浅葱!」

 紫が驚いて叫ぶ。しかし浅葱は紫を見てはいなかった。まっすぐ雷蔵に問う。

「誰かがやらなきゃいけないんじゃないの。試してみる価値はあると思うけど」

 喜怒哀楽いずれも読めぬ表情が、強い意志に瞳を光らせる少年を見据え返す。冗談では済まされぬ粛然とした空気に浅葱は心持ち怯みそうになりながら、ぐっと歯を噛み締め堪えた。汗が伝う。
 吟味している風であった雷蔵がやがて僅かに瞼を落とし、唇を開いた。

「命をかける覚悟はあるかい」

 静かに訊く。浅葱は無言で、しっかりと頷いた。

「君の身体を借りるのは、君が何よりも恐れている神霊だ。それでも?」

 そう問い重ねた時、一瞬だけ浅葱の面がたじろぐように強張ったが、そんな恐怖心を剋するように力強く「絶対にやってみせる」と答えた。
 それを傍観する美吉は、浅いな、と声には出さず呟いた。
 浅葱はまだ幼い。本人はいかに心を固めているつもりでも、命をかけるという意味を本当に理解してはいない。死に対する実感がないのだ。決死というにはまだ覚悟が浅い。しかし時にはその恐れ知らずの幼さが勝つこともあるかもしれない。

「いいだろう」

 雷蔵は双眸を伏せて嘆息した。紫がはっとして首を戻す。縋るように雷蔵を見上げ、しかし開いた口は何言も紡がなかった。役目を放棄した身で、今更何を言えるのだろう。涙とともに悔恨を瞳に滲ませ俯く。
 雷蔵はそんな紫を促し、浅葱と入れ替えに外へ出す。二人は顔を見合わせず結界の上ですれ違った。
 治兵衛が悄然とした紫を迎え、宥めるように背を撫でた。
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