日が暮れ月が西の山端へかかるころ、四人は長老屋敷の母屋座敷にいた。浄めの行を終え、離れへ戻った雷蔵が美吉たちをつれ、治兵衛を訪ったのである。
 今夜呪詛祓いの儀を行うことを申し伝えると、治兵衛は予想していた面持ちでうむと唸った。

「今宵か」

 急だとも何とも言わず、何か必要なものものはあるかとだけ尋ねた。

「準備はもうできている。ただし取り掛かる前に、一つだけ断っておくことがある」
「何じゃ」
「儀式は村人全員が寝静まってから、俺と美吉だけで行う。儀の最中は誰一人として立ち会いも許さない」

 三者三様の反応はすでに織り込み済みだ。
 案の定、治兵衛は怪訝そうにしただけであったが、えっと驚きを露わにしたのは紫、不満を満面に現したのは浅葱だった。

「そんな、私たちも?」
「何でだよ」

 てっきりそれぞれ当然立ち会うつもりでいたのだろう、思いもよらぬ裏切りに動揺していた。

「全員にかけられた呪詛を形代へ移すのに、覚醒されたままでは術が行えないからだ」
「!」

 酔っ払いのように至極しまりのない姿勢で座っていた美吉が嘆息交じりに口を開く。
 未だ納得がいかぬ若人たちを諌めたのは治兵衛だった。

「委細承知した」
「長老まで!」
「黙って言われた通りにするのだ。村の存亡がかかっておる今、軽挙妄動は許されぬ。お前たちも心得よ」
「……」

 叱られ、二人とも膝頭に目を落として黙り込む。治兵衛は目元を緩め、語気を和らげた。

「同席したところで我らにできることは何もない。なればせめて邪魔をせず、言われたことに従うのみ。分かるな」

 老人の双眸が再び雷蔵と美吉に戻され、射抜く。

「くれぐれもよろしくお頼み申す」

 膝に手を置き、深々と首を垂れる。禿頭白髪に倣い、紫も「何卒お願いいたします」と畳に手をついて辞儀をする。一人残った浅葱に雷蔵と美吉の目線が注がれる。浅葱は慌てた風に長老と紫を見比べ、神人の視線を意識し、負けん気顔に渋い色を浮かべ、結局ボソボソ「……お願いします」と言いながら頭を下げた。




「格好の術日和ならぬ術月夜だね。―――首尾は?」

 場違いにのほほんとした問いが放たれたのは、村の中心地、あの社のある広場だった。
 夜闇に沈む地に、雷蔵と美吉の影が白い月光を受け黒く落ちる。
 彼らの前の空間には、広げられた56枚の衣が整然と並んでいる。そして衣の上には、削り出した人形がそれぞれ置かれていた。
 問いかけに対し美吉は頷き返した。

「さっきミケに最後の見回りをさせた。取りこぼしなしだ」
「それは重畳」

 最後まで駄々をこねていた浅葱だけが心配要素ではあったが、彼も村を案じる一人だ。それに、念を入れて夕食に遅行性の眠り薬も混ぜておいてある。万一にも目覚めることはないだろう。
 雷蔵は瞼を閉じ、一度深く夜気を吸ってから僅かに表情を改めた。

「では始めようか」
「ああ」

 二人は並べられた人形を避けながら、雷蔵が南側、美吉が北側に回り、互いに相向い合って趺坐した。これは生を司る南斗と死を司る北斗の配置に準え、(まじな)いの“場”を作り出す一種の仕掛けであった。それぞれがそれぞれの星の下、助力を請願する。必須の手順ではないが、ただでさえ困難な秘術を少しでも行いやすくするために、これも必要な演出である。形式とはそれをなぞり象るだけでも意味を孕むものだ。
 まず美吉が懐に入れた手から巻物を出す。月明かりに反射する黄金色の組紐の結び目を引き、地上に巻物を広げた。
 袖をばさりと捌き、両の人差し指のみを立て手を組み合わせた。九字でいうところの“臨”の独鈷印だ。

「『解紐(かいちゅう)』」

 双眸を閉じ小さく唱えた瞬間、巻物が鼓動を打った。
 同時に、白紙でしかなかった紙の上に滲み出すように墨字がじわりと浮かび上がってくる。
 いかに継承者とは言っても生身の人間。大きな術を行使する際は、体内に納めたままでは負荷が大きいため、こうして一度元の巻物(うつわ)に戻してから使う。
 何せ、今回は何十人もの命を、一度に摘み取らなければならない。
 美吉は合わせていた左右の掌を開き、それぞれの親指同士、人差し指同士の先を触れ合わせたまま正面に向けた。指で三辺に切り取られた空間の中心に目に見えない力の源が玉となって凝縮されるのを感じる。それを包み込むようにゆっくりと両手を合わせ、更に腕を下げながら掌を天に向けに開く。仏印で喩えれば、それぞれ日輪印、未敷蓮華合掌、顕露合掌によく似た印相だが、本質はいずれも似て非なるものだ。
 手に何かを戴いた形でじっと留まり、黙念する。今回の術に言は一切使わない。一見するとただ瞑想しているだけにも見えるが、そのこめかみにはいま汗の玉が浮かび、一溜りになって幾筋も伝う。眉間には深い皺が刻まれ、喰いしばった歯から小さな苦悶が零れた。
 雷蔵はその様子を静かに見守る。

「切り離すぞ……!」

 押さえた呻きが鋭く放たれるや、向かいで合図を受け取った雷蔵がすぐさま印を構えた。
 掬った水を落とすように、美吉が両手を離す。
 その時、村中で寝入った人々が同時に布団の上でヒクリと震え―――事切れた。
 ざわりと呪の瘴気が滲み出し、霧散していく。
 役を終えた美吉の上体から力が抜ける。過度な疲労による反動で弛緩し、まるで深海から戻ったように大きく喘ぐ。
 そして入れ替わり、間をおかずに雷蔵が術を開始した。

(ああ)(かえ)れ復れ、未だ離れ難き三魂七魄、いづこへ行かん。凡そ人は(みたま)宿ればこそ霊処(ひと)なれば、其れ魂兮(みたまよ)、汝が処へ帰り来たれ」

 〈招魂復魄(たまよばい)〉の咒が力を孕み、並べられた56の板木がかたかたと鳴り始める。雷蔵は村人の姓名と生年月日を淀みなく朗々と唱え始めた。そのごとに、名の記された人形がぼうと蒼白く光り、そこへぼんやり輝く夜明珠のような灯がいずこからともなく寄せられ吸い込まれてゆく。
 次から次へと呼び寄せられ浮遊する魂。それはまるで季節外れの蛍の群舞のようで、美吉は地面に座り込んだままその幽玄の光景にしばし見とれた。
 しまいに治兵衛、紫、浅葱の順に名を読み上げ、56人すべて呼び終えると、雷蔵はおもむろに土に手をつき上半身を支えた。全身に汗をかき、乱れた気息に肩を上下させている。
 はたと我に返った美吉は咄嗟に腰を浮かせかけ、すんでで留まる。“場”を構成するための持ち場を動くわけにはいかない。

「大丈夫か?」

 代わりに喉を振り絞って呼びかければ、雷蔵は呼吸を整えてからふうと大きく息を吐いた。

「なんとか」

 汗をぬぐい、崩れかけた体勢を整える。緩慢で大儀そうな動きから、どれほど力を消耗しているのかは明らかだった。

「続けるよ」

 普段通りの表情で、しかし顔色は透き通るほど白いまま巻物を取り出す相棒に、美吉は物言いたげに眉を寄せた。それを気配で察したか、雷蔵が紐を解く傍らちらりと一瞥し僅かに微笑む。

「魂魄はそれほど長く繋ぎとめておけない。冥府の鬼籍に名を記される前に戻さないと」

 そう言われてしまえば最早何も言うことはできない。結局かける言葉もないまま、美吉はせめて集中の邪魔にならぬようじっと動かずに見守る。
 雷蔵は己の膝前に白紙の巻物を開き、居住まいを正して一呼吸置いてから、美吉と同じ印を結び解咒を口にした。
 浮かび上がる文字の連なりを見るまでもなく瞳を閉じる。丹田を意識して五感を研ぎ澄まし、呼吸を整えて精神を統一させた。
 頭上を覆い遍く流れを感じ取る。意識が現実の五官から乖離して浮き上がり、四方へ広がってゆく。心身が大いなる気に溶け込み一体となった時、 浮かび上がるのは無尽に走る(のり)(あや)と縦横織りなす(のり)の糸。それらの中から必要な理を手繰り寄せる。
 およそ命あるものは、この世に生まれ出でる瞬間に天気を受ける。それを利用する。
 先ほど美吉がやったように、否、今度はその逆の順で、下から水を掬い上げるように両手を天へ向け、ゆっくりと蓮の蕾を象るように合掌する。その状態を維持したまま、更に細やかに気を巡らせた。
 寄せては絡め、選び取っては縒り合わせる。
 意識を56ある魂と繋ぐ。遠のきそうになる気を細い糸一本で辛うじて留めながら、紡いだ糸をゆっくりと丹念に編み込んでいく。精巧で細かい文様を描くように、途方もない作業には一つの失敗も許されない。手早く、しかし急いではならない。均等に、緻密に、誤りなく精確に。
 織り上げた理の気を橋にして、形代に宿る56人の命と清められた肉体の間に架け渡す。

(放つ)

 印を蓮蕾から日蓮に開き、すべての“結”を一息にほどく。
 その瞬間、大きな破裂音が辺りに響き渡った。うわっと美吉が小さく声を上げ反射的に身を庇う。
 見やれば、地上に並ぶ形代が、見事中央で真っ二つに割れていた。

「成ったぞ!」

 美吉が歓喜交じりに叫ぶのを聞きつつ、終いの印を結ぶ。体の根源へ収束していく力を感じながら、丹田に溜め込んだ息を大きく深く吐いた。
 印を解くと同時に、細い琴線一本で保っていた気力と緊張が切れる。座位を保てず、その場で大の字に仰臥した。
 汗の量も呼吸の乱れも先ほどの比ではない。全身の内外が悲鳴を上げている。最早指一本も動かぬほど疲弊し、脳には靄がかり、瞬きごとに視界が霞む。
 重く身を引き摺るようにして側へ近寄ってくる気配を感じ、今にも落ちかけそうな瞼を何とか持ち上げる。意識はすでに朦朧として、五感が遠い。

「大丈夫か?」
「……首尾は?」
「ああ、完璧だよ。“一つも取りこぼしなし”だ」
「それは重畳……じゃあいいね」
「は?」
「もう限界。あとよろしく」
「って、おい」

 慌てる相手へ後始末を丸投げに押し付け、雷蔵は双眸を閉ざす。たちまち呼吸が深くなる。
 様子が変わったことに美吉が急いで屈み覗き込んだ時には、すでに昏睡に陥っていた。手首の脈を取る。異様なほど拍が遅いが、ひとまず命に別状はない。ただ、呪力の源である気がほとんど感じられず、すべての生存機能、生命活動が最低限に下がっていくのが分かる。間違いなく〈気涸れ〉の状態だった。
 一人残された美吉は、常ならば文句一つでも垂れるところであったが、さすがに今回はそんな気分にはなれなかった。眉間を曇らせ、面に陰りを落とす。
 56人の仮死を操作しただけの美吉でさえこれほど疲労困憊なのに、同人数の〈魂呼ばい〉をした上に蘇生を施した雷蔵にいたっては、その負担たるや美吉の比ではないはずだった。いくら〈秘伝〉継承者とはいえ、本来人の身で手を出してはならぬ領域に干渉しているのである。巻物という呪器を使って緩和軽減してはいても、術が大きければ大きいほど生身の肉体はその負荷に耐えきれない。むしろ命を落とさなかっただけマシというべきなのだろう。

 しかし、と蝋のような色の寝顔を見下ろし溜息をつく。忍びはいついかなる時も即時に対応できるよう、眠りは常に浅く人の気配に敏感なものだが、呪力の消耗による眠りはあまりに深く、その間は完全に無防備となる。忍びにとって完全に意識を手放すことは死に直結し、恐怖に等しい。今回は事情が事情であるし、美吉もいるから頓着しなかったのだろうが、骨身に染みついた本能ともいうべき習性に反するのはそう容易いことではない。逆にいえば、そうせざるを得ないほど無理をしたのだ。
 こうなっては目覚めるまでには暫くかかるだろう。介抱せねばならないが、その前に衣と割れた人形を然るべく処分せねばならない。
 再度嘆息して、美吉は痛む臓腑を抱えながら力の入らない四肢に鞭打ちのろのろと広場に向き直った。
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