響 ひびきとゆらぎ



 皮膚の下でゆっくりと打つ鼓動を指先に感じる。
 板敷に敷かれた蒲団に仰臥する雷蔵の脈を計りながら、美吉は傍らに胡座したままじっと瞑目していた。昏々と眠り続ける胸の上には今、白紙の巻物が広げ掛けられている。
 ふと瞑想していた瞼がぴくりと動いて薄く開いた。空いている片手でさっと巻物を取り上げ、器用に巻いてから懐に仕舞う。一拍の後、背後の襖が静かに開いた。

「やっぱりまだ目覚めないんだね」

 顔をのぞかせたのはまだあどけなさの残る少年。浅葱だ。
 ちなみに浅葱と言えば、呪詛を解いた夜、一瞬目を離した隙にいつの間にか雷蔵の傍らにすやすやと眠る姿があり、美吉の度肝を抜いてくれた。そういえば雷蔵は浅葱に果てしなく面倒な呪いをかけられていたのだとその時になって思い出す。それまでは呪詛の使役霊から守るため、皆一所で寝泊まりしていたからすっかり忘れていた。
 朝になってから術の解き方について問い詰めたが、答えはまさかの「知らぬ」だった。解き方も知らずに術を使うとは、何とも無謀さに怒りを通り越して呆れた。そこで治兵衛に尋ねたところ、施主と被術者当人の意識がないと解呪できないとのことであった。仕方なく浅葱はしばらく夜の間だけこの()で寝ている。
 浅葱は数日間寸分違わず横たわる恩人の姿を目にして、失望と不安を眉間に漂わす。

「呪力の消耗が激しかったからな。そうすぐには回復しない」

 美吉は大きな嘆息で応じた。特に雷蔵の場合〈気涸れ〉という特殊な状態にある。最低限度の気が充ちるまでは目覚めない。

「でももう三日も経つよ。何も口にしてないし、このままだとどんどん衰弱するんじゃ……」
「おいおい、俺を誰だと思っているんだ」

 気怠く言い返すと、浅葱が胡乱げな眼差しを向けてくる。こいつ本当に分かっていないのか、と美吉は舌打ちして髪を乱暴に掻いた。

「仮にも医者だぞ。大丈夫じゃなかったらこんなに悠長にしてるわけねぇだろ」

 そこで浅葱もようやくそれに思い至ったようだ。美吉のことは気に食わないが、その腕が(だて)でないことは数日間病人の家をともに廻ったことで彼も見知っていた。
 それでもやはり気にせずにはいられないのだろう。昏睡する面は穏やかだが、色は依然として蒼白い。

「本能で体機能を落としているんだ」

 美吉は脈診を終え、冷たい手首を(かけぶとん)の内側へ戻した。気力回復に専念するため、雷蔵の身体活動は生命維持に必要な最小限度に抑えられている。呼吸も脈も血の流れも非常に緩やかで、ほとんど仮死状態に近い。これが続いている間は当分、摂取も排泄も必要としない。
 そう説明したところで浅葱に理解できるとも思えなかったので、美吉はとりあえず命に別状はないことだけ繰り返し、彼が去ったところで再び雷蔵を見下ろした。生気のない頬には、前日に比べればほんの僅かながら血色が戻ってきている。
 前回の〈気涸れ〉が起きた時は七日間眠り続けたと言っていた。今日は数えて三日目だが、緩慢だった脈の間隔が徐々に短くなってきている。明日あたりには目覚めるだろう。
 懐に隠した巻物を取り出し、再びその胸元へ広げ置く。
 以前美吉が人事不省に陥った時、雷蔵はこうして回復を促す処置をとった。美吉の場合は地気を、そして雷蔵の場合は天の気を、それぞれの〈秘伝〉を介して採り込むことで、通常よりずっと早く欠損した気を補い疲弊した身体を癒すことができる。
 気を食い涸らすのが〈秘伝〉であれば、枯渇した気を充たすのもまた〈秘伝〉。

(一体、“これ”は何なんだろうな)

 唯一問いかけられる人物は今意識がないため、胸内で一人ごち、美吉は再び溜息をついた。




 解呪の儀式を終えた翌日、日の出と共に目覚めた村人達は自分たちの体調の変化に気づいた。あれほど全身を苛んでいた苦痛が薄れ、血は止まっており、壊死していた患部は一夜にしてあらたな肉の盛り上がりが覗いていた。動くことさえままならなかった者たちも、多少の筋力の衰えはあるものの、何とか自ら床を這い出すことができた。それが死の呪いからの解放であることを、誰もが悟った。
 村を包む匂いさえも一新されたようで、あれほど腐臭と淀みに満ちた空気は清められ、爽やかな風が吹き抜けていた。
 長い苦しみから解き放たれた村人たちが互いに祝い合い、起きた奇跡に咽び泣く光景がいたるところで見られた。そのうちの一つには、抱きしめ合う紫と茂吉の姿もあった。そしてそれを遠巻きに複雑そうに見つめる浅葱の姿も。

 そんな村人たちの預かり知らぬところで、美吉は独り秘密裏に事後処理を行っていた。
 〈逆渦〉を起こしている五か所の厭物(まじもの)を掘り起こす。呪いの核であるからにはさぞかし醜悪であろうと思われるが、実際は拍子抜けするほど小さな欠片である。ただしこれが蠱毒の使役を作る方法―――複数の蟲あるいは獣を一所に入れ、飢えさせて最後の一匹になるまで殺し合わせる―――で殺された動物の骨の一部であると知れば、誰もが触れるのを忌避し嫌悪するだろう。骨片はおのおの赤、黒、青、黄、白に塗られており、〈逆渦〉を惹起するよう左周りに五行相生の順で埋め込まれていた。
 それらを雷蔵の用意していた封じの札を貼って回収した上で、一所に集めて〈秘伝〉を使い高温度の火で焚き上げ清める。それが雷蔵から事前に聞いていた手順であった。あるいは彼は自分が昏睡状態に陥ることを予測していたのかもしれない、予め封印札を作り置いていた。
 つくづく面倒臭いが、相棒が臥せってしまっている以上は美吉がやるほかない。
 厭物をすべて取り除いた途端、風が起こった。〈逆渦〉が逆巻き―――この場合は本来の回転に戻り、見る間に穢れが霧散して清浄な気に満ちていくのを感じる。
 だが、歪みは是正できても、失われた神は依然戻って来ない。
 呪術や神事について美吉はさほど詳しくない。これは雷蔵の目覚めを待つほかないと思っていたところで、四日目、ようやく相棒は昏睡から覚めた。

「後始末ご苦労様」

 開口一発でそう微笑した雷蔵に美吉は何とも言えぬ風に唇を歪める。

「全くだよ。……具合はどうだ?」
「お陰様で、全身怠くて思うように動けない」
「まあ、そうだろうな」

 美吉は雷蔵が自ら記した処方に従い煎じた薬湯を片手に肩を竦める。
 彼の手を借りながら雷蔵は上体を起こしゆっくり椀を啜った。

「あまり短期間に連続で〈気涸れ〉を起こさない方がいい」

 僅かに翳りを帯びた声音で美吉は警告した。

「前回の〈気涸れ〉からあまり経っていないだろ。繰り返すと命に関わる。……少しは自分の身体も労われよ」

 雷蔵が別に正義感や使命感から身を挺しているのではないことは美吉にも分かっている。いっそ、自己犠牲に陶酔しているだけの勘違い人間ならばまだいい。叱りようがあるからだ。
 ところが雷蔵は違う。彼はおよそ他人に執着するということがない。そしてそれは己に対しても同じなのだ。他人を何の躊躇いもなく手にかけるが、同時に自分の生死についても頓着しない。決して命を軽んじているわけではなく、かといって重んじているわけでもない。彼にとって自身を含むすべてが興味と関心の対象外だった。ただ客観的に比較衡量して、誰が身体を張るのが最も適当かを判断する。ある意味ですべてにおいて公平ともいえた。
 最近はそれでも僅かに、親しくつきあいのある人間に対する比重が増してはいるようだが、依然として物事への情の希薄さは否めない。

 では何故今回のような厄介事に関わるのだとか、刺客から逃げながらなお生を歩もうとするのだとか思うが、恐らくこれも流れに逆らわず流され、本能に抗わず淡々と生きている結果にすぎないのだ。自ら進んで死を選ぶのもまた、生死への関心があってこそ。そのどちらの関心も持たぬ彼をこの世に留めているのは、動物根源の純粋な生存本能だ。腹が空けば食べ、敵と見なせば戦い、攻撃を受ければ防御する。本能には抗わない。しかしそれは生きることへの執着や渇望といった積極性とは違う。
 そんな感性の人間が、自分を大事にしろと言われたところでピンと来ないだろう。
 だからか雷蔵は曖昧に笑んだ。

「肝に銘じておくよ」

 己個人の感覚はさておき、とりあえず相手の意図を推し量ってそう言うあたりが彼らしい。


 雷蔵は飲み干した椀を美吉に返し、再び横になった。重い溜息をそっと吐く。
 意識は戻ったとはいえ、やはり体調は万全ではない。滋養強壮を促す薬湯も即効ではない。確かに〈気涸れ〉からの回復が遅くなっている気はした。あるいは、完全に回復しきっていない状態で力を使っているせいなのかもしれない。

「村の様子はどうだい」
「今のところは万事問題ない。村人の病は癒えてきているし、重症化していた連中については相応に治療を施しているから、そのうち良くなるだろう」

 呪物を処分したことも併せて語り、雷蔵は枕の上でやれやれといった風情でぼやいた。

「そうなれば残す仕事は招神か」

 今の御座村は無防備な宝庫のようなものだ。新しい護衛をつけてやらねばならない。

「言っただろ、お前はまず自分の回復に専念しろ。当面この村の見張り役は俺がやっておくから」

 雷蔵のように術を使って魔を祓ったりはできないまでも、美吉とて悪鬼が侵入しないよう睨みを利かすことくらいはできる。
 はいはいと雷蔵は笑いながらもおざなりに返事した。




 床から上がれるようになったのはそれから三日後のことで、気が八割方満ちるまでには更に半月を要した。
 その間、雷蔵と美吉は長老屋敷に世話になっていたが、村人達が立ち代り入れ替わりやってくること。二人はすっかり救世主扱いになっていた。
 このことに、特に往診している美吉は相当辟易しているらしく、愚痴めいたものをたまにこぼす。
 それももう少しの辛抱だと雷蔵は苦笑しながら言ってやった。
 繰り返される村人の歓待をなんとかやり過ごし、二人は長老を交えいよいよ招神の儀の段取り打ち合せに取り掛かった。話し合いの場には浅葱と紫もいる。

「どの神が応じるかは、実際儀を行ってみないことには分からない」

 なるべく誤解を与えぬよう雷蔵は慎重に言葉を選ぶ。

「全くの善神という保証はできない。そもそも神霊は善悪両面を兼ね備えているものだからね。この地の加護と引き換えにどんな対価を要求されるかも未知だ。無論、契約する以上はあちらも村人の信心に存在を縛られるわけだから、無理難題を吹っ掛けてくることは少ないと思うけど」

 淡々と注意事項を述べ、伏せがちにしていた瞼を上げた。
 治兵衛は瞑目したまま一つ一つ噛み締めるように頷いた。村人を一堂に集め自分から説明するというので、お言葉に甘える。

「それからもう一つ―――紫さん」

 眼差しとともに不意に話を向けられて、紫はびっくりした。

「村神子と目された素質を見込んで、お願いしたいことがあるんだけど、いいかな」
「私にできることなら喜んで」

 村神子という単語に僅かに強張る反応を見せたものの、すぐさま紫は表情を改め身を乗り出した。

依坐(よりまし)をやって欲しいんだ」
「依坐?」

 そう、と雷蔵は頷いた。

「神を降ろす憑代(かたしろ)だね。神と感応できる者でないと務まらない」
「俺は?」

 浅葱が刺々しく水を差す。むす、と唇を尖らせている。美吉は面倒臭そうに、長老は嘆息気味に、紫は困惑気味にそれを見た。
 雷蔵は僅かに首を傾げ苦笑した。

「残念だけど、こればかりは先天性が優先されるんだよ。君の場合は神隠しの影響であって、生まれつきの体質というわけじゃないだろ。万一適合しなければ命はない。危険が大きすぎる」

 こう言われてはさすがの浅葱も反駁のしようがない。口惜しそうにぐっと押し黙った。

「そうと決まればすぐに準備を始めようぜ」

 美吉が珍しく積極的に言った。今この村の護りを肩代わりしているのは彼だから、大方、早いところお役御免となって引き上げたいのだろう。

「日取りはどうするのじゃ」

 さすがに人一倍長く生きている治兵衛は事に対して慎重だ。祭礼には日時も気にしなければならないことを心得ている。

「生憎俺は陰陽師ではないから吉兆の日時を占うことまではできないけど、一般的に祭礼は望月の夜に行われることが多い」

 満月はすべてのものが最も満ちる時である。太陰の力も借りやすい。呪い解きを行ったのも望夜だった。

「次の望日は、七日後か」

 美吉は宙を見上げて現在の日付から指折り数えた。

「精進潔斎する期間としても丁度いい。紫さんにはその間肉食を断って身を清めていて欲しい」
「分かりました」

 緊張した面持ちで頷く紫の横で、浅葱は一人仏頂面を保ったまま板敷の木目を睨みつけていた。
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