準 はかりとなぞらえ



 曙前には人形を作り終え、日が上がってから雷蔵は術に備えて滝行と精進潔斎に入った。やらずとも施術自体に問題はないのだが、今回は術の規模が大きいため、術の途中で〈気涸れ〉に陥らないよう、心身を高め英気を養っておくに越したことはなかった。
 この時期の飛騨の山水は雪解けの名残でまだ幾分冷える。高みから落ちてくる重たく冷たい滝水に全身に打たれながら、雷蔵は瞑目合掌していた。清らかな水に浚われるごとに、世俗の澱が落ち、穢れが洗い浄められ、本来の素の気が研ぎ澄まされてゆく。世間一般的には苦行の部類なのだろうが、雷蔵には苦痛はなくむしろ心地良さがある。

 それにしても不思議な心境であった。任務ではなく任意で、己の身を削ってまで他者を生かす方法を選ぶような人間では自分はなかったはずだ。その自覚があっただけに、我ながら今回の選択は意外である。だが考えてみれば、逆に任務以外で他人を犠牲にしてでも自らが生き残ろうとしたこともない。というよりも、どちらも考えたことがなかったというのが正しい。考えようにも実感がなく、現実味がなく、身に迫ってこない。興味がないのかもしれないが、それさえもどうでもいい。死ぬ時は死ぬもの。ここで命を落とすのならそれも巡りあわせた運というものなのだろう。

(けれどこうして生きているのは、やはりどこかに生への執着があるのだろうか)

 考えても答えはいつも水中にあるかのごとく曖昧でつかめない。これまで否応なく色々巻き込まれてきたが、その都度解決するのにとりわけの理由はなかった。あえて言えば気まぐれだ。何かを求めても欲してもいない。心が麻痺していて、何も感じないし何にも動かないらしい。これは自覚があるというより、自分では分からないが客観的に世間一般と比較してそういう人間なのだろうと予測するだけだ。

『お前は、己で思うほど無情ではないよ』

 ふと、滝の音よりも近くに蘇った旧知の言葉に薄く瞼を上げる。小さく笑う。さあ、どうだろう。
 目を閉じれば、無明の闇にしんしんと降り積もる一面の雪がある。遠くで声がする。小さな幼い児の声。男女ともつかぬ畏れの声。
 さゆら、と呼ぶ声がする。
 こんなにも思い出すのは、この飛騨が“あそこ”に少し似た、神聖な霊峰奥深くの村だからかもしれない。

(なるように任せよう)

 雷蔵は胸中の瞬き一つで幻聴を断ち切り、今やるべきことにだけ意識を集中させることにした。




 一方美吉は、浅葱と紫を連れて村中の家々を巡っていた。
 正直少女の方は休ませておきたいところであるが、美吉自身が護符になっている以上、申し訳ないが一緒に行動してもらう他ない。なるべく彼女の体調を気遣いながらの回診だったが、美吉の鍼術に加え雷蔵の薬符が効いているらしく、容体はかなり安定している。
 美吉の役目は現状維持―――現時点でまだ命のある病人の対処と、村全体の人の把握だ。
 だがほどなく、村人の数が減少しているという話を実感させられることになった。家屋の数に対し、世帯は半数以下。更にそのすべてが家中に病人を養っている。
 これが世代に渡ってゆるやかに進行してきた状況かと思うと、改めて呪詛の施主に底冷たい怒りと嫌悪を覚える。
 透視で視えた施主の姿は、間違いなくあの少年だった。主理、というその呼称は、「遍く理を主る」というつもりであろうか。

(たかがこんなものために)

 沸々と激情が湧いてくる臓腑を、懐に入れた〈秘伝〉ごと押さえる。
 美吉の眼には、脳裏には、師の無残な姿が鮮明に刻み付けられている。たとえその末路が前継承者の宿命であったとしても、手を下した存在を許せるわけがない。
 紫香を殺した者。御座村に呪詛を撒き散らした者。そして影梟衆の隠れ里を焼いた少年。確たる証拠はなくとも、美吉の中では一本につながっている。
 いかなる理由があろうとも絶対に恕すわけにはいかない。

「次はここだよ」

 不機嫌そうな声音で現実に引き戻される。同時に美吉の眼からも、ほの昏い陰が掻き消えた。
 棘のある顔で浅葱がある家の戸口脇で半身をこちらに返している。その手には、これまで集め回った家の住人の衣が入った風呂敷を下げている。これは術に必要なもので、回診ついでに集めるのも美吉の担当である。
 ああともおうともつかぬ唸りを返し、美吉は戸に近づく。ふと後ろの気配がついてきていないことに気付き、肩越しに振り返る。
 紫は少し離れたところで風呂敷を抱きしめ硬直したように足を止めていた。俯き気味に爪先に目線を落としている。顔色が冴えない。

「おい、どうし―――

 一瞬、体調が悪化したかと思いかけ、脳裏に掠めたある情景に言いさした言葉を切る。
 眠たげな瞼で隣の浅葱を見下ろし、小声で問いかけた。

「ここは、茂吉とかいうあの男の家か?」

 浅葱は一度ちらりと上目遣いに視線をくれただけで無言だ。
 当たりのようだと得心し、どうしたもんかなと頭を掻いてから、声をかけた。

「入りにくいようなら、外で待ってていいぞ」

 これくらい近い範囲であれば多少離れていても問題はない。
 紫が弾かれたように顎を上げ、大きな目を見開く。
 そして小さく「すみません」と口中で言い、頭を下げた。
 戸を叩き、中からのくぐもった返事を合図に取手口を引く。埃っぽく黴臭い空気が一定の圧力で押し出される。玄関と直結の土間には竈、上がり口から先は一間で左寄りに囲炉裏があり、消えかかった炭が煙をたなびかせている。周囲の壁には干し物や用具などがかけられ、四隅や脇には葛籠など日用品が押しやられ、全体的に雑然としていた。
 これまで見たどことも大差のない広さと作りだ。
 一間の奥には萎びた布団が三つ敷かれ、うち二つには人が横になっている。
 その傍らに、包帯を巻いた青年が手に布を持ってこちらを凝視していた。間違いない、あの時会った茂吉だ。

「三人か……」

 一瞥ののち、美吉は一人ごちた。

「え、えっとあのう……」

 戸惑い気味に茂吉が窺ってくる。片目を覆う包帯には血が滲んでいた。美吉は眠たげな双眸で名乗る。

「医者だ。奇病が流行っているというから今診て回っている。上がらせてもらうぞ」

 これまで同様、家主の断りを待たず草履を脱ぎ、ずかずかと入る。
 呆然とするあまり反応の間に合わない茂吉の横を通り過ぎ、まずは床に伏している二人を覗き込む。
 顔のほとんどが布や包帯に覆われていたが、茂吉よりずっと老齢の男女は彼の両親であろう。間から覗く乾燥し皮がむけた唇から、時折苦しげな呻きが零れ落ちるが、それさえも弱々しい。

二親(ともおや)か」
「え、あ、はあ……」
「いつからだ」
「は?」
「病はいつから得た」
「ええっと―――父母は三年前の暮れからほとんど同時に―――
「あんたは?」
「え、俺……俺は、一昨年の暮れから」

 前置きもなく矢継ぎ早に質問を重ねられ、茂吉は突然現れたこの不躾な来訪者が何者なのか疑問を差し挟む暇も与えられず、しどろもどろ答える。

「ひとまず応急処置だけする。動かせるか」
「動かせないことはない、ですが……」

 茂吉は顔を曇らせる。壊疽が進んでいるのだという。僅かに身じろぐだけでも苦痛を伴うそうだ。
 美吉はまず老母の片腕を取り、取り出した細い鍼で数か所刺した。もう一方も同様にし、更に足の裏、頭部に次々と刺していく。

「これで痛みは感じないだろう。おい餓鬼」

 いきなり声をかけられ、浅葱は吃驚した顔で間抜けな声を出した。

「そっちを支えろ」

 苦労してゆっくりと老母の身体を返す。背衣に汚汁が滲んでいた。美吉は厳しい面で、浅葱は顔を歪ませながら、できるかぎりそっと衣を脱がす。動かせなくなってかなり経っていたのだろう。背中から尻にかけて床ずれが広がり、膿んでひどい腐臭を放っている。
 浅葱は吐き気を堪える様子で唇をきつく噛んでいたが、美吉の方は慣れた様子で褥瘡と壊死と出血それぞれ状態を診、更に造血と血行回復の経穴に鍼を打っていった。老母が呻くたび、励ましの声をかける。
 汲んできた清水で傷口を浄める。雷蔵から貰った薬草を塗布し、上から清潔な布を当てて、衣を替えさせた。ありったけの衣や布物を集めて、傾かせた臥位姿勢を保つよう支えにする。

「汚れた衣は可能ならば燃やすか、でなければすぐに洗え。定期的に体の向きを変えるのを忘れるなよ」

 老父にも同様の処置を行い、更に茂吉をも診終えると、美吉は金の代わりに三人分の予備の衣を要求した。
 壊疽も床ずれも本来は程度に合わせた治療が必要で、その最たるものは死んだ部分を切除あるいは切断することだが、魘魅からくる病ではいかなる対処も通用しない。その代わり、魘魅さえ解けば自ずと回復する。あと一日の辛抱だ。
 最後に残った清水で手を洗い拭うと、躊躇いがちに茂吉が声をかけてきた。

「あの、紫は……彼女はどうしてますか」

 渡された衣を無精無精風呂敷に包みなおしていた少年がぴくりと手を止めた。
 青年の方は、そこまで言いさして続く言葉なく声を詰まらせる。
 美吉は彼らをそれとなく見比べ、茂吉に視線を戻した。

「心配するようなことはない。他人のことより、今は自分のことに専念しろ」

 その返答にホッとした様子で茂吉は相好を緩め腰を深く折った。
 表に出ると、所在なく待っていた紫がさっと首を上げる。無言で促し、次の家を目指した。
 道中、それ以前とはまた異なる重い沈黙が付きまとう。
 小さな村でも、そこに生活する人間の間には色々と複雑な事情が生まれるもののようだ。いや、小さな村だからこそ一層だろうか。
 美吉は甚だ面倒臭そうに溜息をついた。
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