座敷の一間に沈黙が落ちる。

「手前勝手な話だ」

 重たい無音を断ち切るように、美吉が小さく吐き捨てた。治兵衛は鼻で長嘆息しながら首をゆるりと振った。

「さよう。伝授とともに否応なく艱難の道を背負わされる継承者からすれば、恨み言も言いたくなろうて」
「何故俺たちが継承者だと分かったんだい?」

 ふとした雷蔵の問いかけに、老人は心持ち眉を持ち上げた。

「儂には継承者の気配が分かるでな」

 意味深長な台詞に、美吉が眉を寄せ訝しむ。 

「そもそも継承者さえも知らぬ秘話を儂が知っておるのは、先代の長老から伝え聞いたからじゃ。そして先代はまた、先々代から口伝された。不思議に思わぬか。どうして口伝者がことごとく長老と呼ばれるほど長く生きておるのか」

 老人はほのかに頬を歪めた。それは自嘲の笑にも見えた。

「お主らと同じく、儂らもまた語り部という名の伝承者なのじゃ。先代伝承者はこれと見定めた者にこの秘されし真実を口伝する。口伝することで次代が決まり、その者は重い秘密を負う代わりに長寿を約束される。だが不死ではないゆえ限界はある。儂らには継承者とは違い文字に残すことができん。死ぬ前に口伝をせねばならない。死期が近づくにつれ、その強迫観念に苛まれると、そう先代からは聞いておった。ところが不思議なことに、待てど暮らせど儂にはその焦燥がとんと来なんだ。ならばと自ら次代と思い定めた者は、口伝の前に奇病にかかり死んでしもうた」

 思い返して感慨深げに目を閉ざす。どれほどの悲しみ虚しさを味わったのであろう。あらゆる色に染まり尽くした果てに生成となった布のように、静謐だけがそこにあった。

「しかし今ようやく分かった。儂で“最後”であったのじゃな。儂ら伝承者の使命は、〈秘伝〉が再び村に帰ってきた(………)時、すべてを伝えることじゃ。そして今、天地の継承者が共にこの村に現れた」

 翁は肩を並べて座す当代たちをまじまじと眩しげに見つめた。
 〈秘伝〉がわざわざ二巻に分かたれ、固く秘されてきた経緯を知ればこそ、歴代の天地継承者は互いに接触を避けてきた。遠く隔てて意思を伝え合う〈念言〉はそのためにあったようなものである。そしてもしも京里忍城が今なお健在であれば、雷蔵もまたその例に漏れず、美吉と会うことはなかったであろう。
 二人が始まって以来の慣例を破って相見え、今こうしてともに御座村に赴くことになったのも、なるべくしてそうなったと言えるのかもしれない。

「これが村と〈秘伝〉の因縁じゃ。そしてここからが本題となる」
「『呪い』のことだね」

 双眸を眇めた雷蔵に、瞑目する翁は然様と深刻に頷いた。

「浅葱たちからはどこまで聞いておる?」
「……ある時から、神が消えたと言っていた。応える声がなくなり、代わりに怪異と原因不明の死病が続くようになったって話だが」

 答えたのは美吉である。彼の方が紫からより詳しく事情を聞いていた。

「だから神を再び降ろし村の加護を取り戻すために、神通力を持つ人間が要るってな。それで、それぞれ別の地にいて示し合わせもしていなかったはずの俺たちが選ばれた」

 美吉の言に雷蔵は首肯し、

「偶然というにはあまりにもできすぎている。だからこれは意味があってのことだなんだろうと思う。たとえば―――呪詛の原因は〈秘伝〉に関係しているんじゃないかい?」

 そう言って翁へ顔を向けた。治兵衛は驚いた様子で皺に覆われた目を見張った。

「慧眼じゃ。驚いたの、当代はなかなかの切れ者と見える」

 瞑目し、己を納得させる風に再び頷きを繰り返す。それから小さな双眸を開き、二人の若い継承者を見つめた。

主理(しゅり)、という名を聞いたことはあるか」
「主理?」
「先代から伝え聞く話によれば、それは呪詛が始まるより前、ある日この村に忽然と現れた少年の名だという」
「少年……」

 雷蔵と美吉はほぼ同時に反応した。また“少年”だ。
 しかし続く治兵衛の言葉は二人の予想をはるかに超えるものであった。

「そしてその者はこう言ったそうじゃ。自分は〈秘伝〉の祖・究玄の実の子にして、〈秘伝〉の正統なる継承者である、と」

 がちゃん、と鼓膜を突く音が鳴った。中腰に片膝を上げた美吉の前で、倒れた碗から零れた茶が、褪せた井草をじわりと染める。
 しんと静まり返った室内に、「何だと」と掠れた呻きが漂う。

「そいつが実の子だと言ったってのか?」

 あまりの信じがたさに、詰問調になるのを止められない。
 治兵衛は波風一つない湖面の趣でしかと瞬いた。「そうじゃ」

「どういうことだ。仮にだ、そいつが事実始祖の血族であったとして、究玄は八百年以上も大昔の人間だぞ。子孫というならまだしも、その息子だなんて」
「美吉」

 勢いづいたところで雷蔵に軽く袖を引かれる。そこで少し頭の血が引いた美吉は気まずげに、しかし未だ老人を睨んだまま、再び居住まいを正した。
 無言で責められるような空気にも、治兵衛は動じずただかぶりを振る。

「確かなことは分からぬ。実際に対面したのは先代ゆえな。だが先代の話では、主理と名乗ったその者が尋常ならざる呪力を持ち、とてつもない術の使い手であったという」

 尋常ならざる。その形容を噛み締めながら、雷蔵は問いかけた。

「彼が自らを正統な継承者であるというのには、相応の根拠があったのかい」

 治兵衛は吐息で難しげな色を表した。

「はじめ奴が村に現れ、己こそ〈秘伝〉の継承者だと言った時、先代は判断に惑ったそうじゃ。伝承者は継承者に会えばすぐにそれと悟ると言われておったが、それが一体どういう形でどう現れるものなのか、前例がないことゆえ全く分からなかった。そこで継承者たる証を見せるよう求めると、奴は風を操り、雷を起こし、雨を降らせてみせた。実に見事な、恐ろしい術であったという。だがそれでも先代は、どうしても奴に伝承を語ろうという気にならなかった。すると奴は二つの〈秘伝〉を一つに戻す術を教えよと言い出した。始祖の残したその秘術が、この村にあるはずだと」

 雷蔵は口を挟まず、美吉は絶句状態で、滔々と語られる話に耳を傾け続けた。

「先代はこれを拒んだ。そしてこの瞬間に、これは継承者ではないと断じた。伝承者の直感であったが、それは正しかった。やがて奴は本性を現しおった」

 伝聞であるはずなのに、治兵衛の話からはまるで、目の前で実際に見聞したかのような生々しさが迫ってきた。
 術で起こした風吹き荒ぶ嵐の中、いとけない見目の、いびつに歪んだ唇から紡がれる言葉。『確かに今は(・・)継承者ではない。しかしいずれ遠からずそう(………)なる。何故ならば己こそ始祖の血を分けた子にして、正統なる継承者なのだから』

 その台詞に二人の聞き手は黙する。
 雷蔵は炎に包まれる屋敷で見えた、まだ十を過ぎたくらい―――ちょうど浅葱と同じ年頃の―――少年を脳裏に想起していた。
 治兵衛より更に前の時代の話だ。いくらなんでも世代に隔たりがありすぎる。現実的に言っても別人と考える方が妥当であろう。
 しかし雷蔵には『始祖の血を分けた子にして、正統なる継承者なのだから』という句が引っかかていた。そこにかの少年の影がちらつく。
 彼はあの時、雷蔵たちの目の前で〈秘伝〉の(ことば)を操ってみせた。本来継承者にしか知りえず使えないはずの咒を。
 両者は全くの赤の他人なのか、それとも関係者なのか。治兵衛本人が経験したことでない以上、語りを聞きながら同時に透視をしているであろう美吉にもその人物の姿は視えないはずだ。しかし、万が一同一人物だとすれば、あの少年は治兵衛より更に昔、先代伝承者の頃から姿が変わっていないことになる。
 主理。本名とは限らない。通り名か、あるいは究玄と同じく道号という可能性もある。
 治兵衛が俯く。その横面を斜陽が照らした。

「確かにそう言ったそうじゃ。しかし先代はなおも語ろうとはしなかった。天地の〈秘伝〉を一に戻す、それは絶対に侵してはならぬ禁忌じゃ。何がために始祖が〈秘伝〉を二書に分けたのか、それを知っておれば、かような恐ろしい行いを許すわけにはいかぬ。頑として口を割らぬ先代に、とうとう焦れた奴は、高らかに嗤い放った。『ならば存在すべていっそ消えてなくなればよい。お前たちは一人残らず死に絶える。せいぜいゆるりと滅びを味わえ』。そう言い残し、去って行ったという。呪いが始まったのはそれからまもなくのことじゃった」

 一気に話し終えた治兵衛は、膝前のすっかり冷めきった茶を啜り、重い一息をついた。

「〈秘伝〉を一に戻す法。そんなものがあるっていうのか」

 重く口を開いたのは美吉である。声音は胡乱げながら、かすかな動揺を帯びていた。

「儂もようは知らぬ。しかし確かに、この村には口伝のほかにもう一つ、密かに伝えられているものがある」

 「伝えられているもの?」意味深長な表現に、雷蔵は細めた双眸の奥で鋭い光を閃めかせた。

「村のある場所に“入口”がある。そこへは誰も辿りつけぬし、何があるのかも知らぬ。ただ然るべき時、然るべき者にのみ道は開かれると」

 治兵衛は瞼を伏せ、それ以上は言わなかった。
 雷蔵は顎に手をやり、少し考えた。

―――分かった。それが何であれ、〈秘伝〉の根幹に関する何かであるということに違いはない。けれどそこに臨む前に、まずはこの村の現状を解決する。長老殿にとって、話はそれからというわけだね」

 顔を上げた治兵衛が何かを言いかけるように僅かに唇を開き見つめてきた。
 そこに何を見出したか、あるいは最初から悟っていたように、雷蔵は微笑んだ。

「元よりそういう約束だからね。異論はないよ」

 すべては絡繰り箱。一つの駒を動かさぬ限り、次の駒は動かせない。核心にたどり着くためには、一つ一つ正しい駒を正しい方向へ導かねばならない。
 雷蔵たちがここへ呼び寄せられたのには理由がある。ならば今一番目の前にある問題を打開しない限りは、次へは進めないということだ。

「できるか? この呪いを解く方が……神を呼び戻す法が」
「確約はできないけど、呪詛の仕組みはあらかた分かっているから―――美吉?」

 水を向けられ、いささかぼんやりしていた美吉は我を取り戻して咳払いをした。胡坐の足を変える。

「力は尽くすが、何が起こるかは保証できないぞ」
「元より覚悟の上。だが少しでも望みがあるのであれば、お主らに託したい」

 治兵衛は眉間を曇らせた。

「時に浅葱に紫。あの子らに呪いの兆候は出ておるか?」
「浅葱殿は今のところまだ無事だ。でも紫殿は」

 雷蔵は首を巡らし、隣へ続きを譲る。
 険しい面で美吉は眉根を寄せた。

「娘の方は血の病を得ている。今のところ進行を遅らせてはいるが、所詮対症療法でしかない」

 治兵衛は小さな両目をしょぼしょぼと瞬き、両手で皺だらけの顔を何度か拭った。

「あれらは未だ呪詛の影響が及んでおらぬ村で最後の若者じゃった。未だ年若いゆえもあろうが、あの子らは村中でもとくに神奈備の恩恵を受けていたからであろう。紫は生来、巫覡の性質(たち)であったし、浅葱は一度神隠しに遭いかけたことがあっての。せめてあの二人だけでも生き延びればと思い、護りの神器を持たせて村から出した。よもやこのような形で戻ってくるとは夢にも思わなんだが、そもそも村から離れたとて呪いから逃れられるものではなかったようじゃ」

 面を伏せ、畳に向かい苦渋と後悔のにじむ声音で懺悔する。

「でもそのおかげで俺たちがこの村に辿り着いた。結果論であろうと、あんたの判断は間違っていない。己を責めるより、先のことを考えろ」

 強い言を受け、治兵衛は縋りつくように美吉は見上げた。そこにいるのは語り部としての責を負いながらも、一人で立つこともままならない無力な老人であった。
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