今度は女を先頭として、薄暗い廊下を四人前後して進む。一歩ごとに浅葱と紫の緊張が高まるのが伝わってくる。
 雷蔵と美吉は言も目も交わすことなく、静かにつき従った。
 小さな屋敷は思ったより奥行きがあり、狭く細長い廊下を一列で粛々として進む図は、まるで儀式のようだ。しかしそうはいってもたかが知れた広さ、さほど距離歩かずに、ある襖の前で女が膝をつき、音を立てずにすっと開く。
 敷き詰められた畳の先には、もう一つ襖があった。

「長老、お客様がお見えです」

 女が呼びかければ、襖の向こうの気配が身動ぎした。

「客? 誰だね」

 老齢と聞くわりに張りのある力強い声だった。だがそこにある落ち着いた響きは、確かに年月を重ねた人間の独特の渋みがある。

「それが……」

 女が言いよどみながら躊躇いがちに浅葱たちを見ると、浅葱が断りもなく縁を踏み越え畳に両手両膝をついた。

「長老、浅葱です。お役目を果たし今戻りました」

 途端に畳を擦る音と共に襖が乱暴に開け放たれた。
 現れたのは小柄な老人だった。膝行してきたためか、中途半端に膝立ちになっている。曲がった背筋、白毛に深い皺と老斑で覆われた姿はとうに喜寿を超えているだろうが、白い眉の下から呆然とこちらを凝視する瞳には芯があった。

「まさか真に……」

 呟き、続いて廊下から顔を除かせる紫を認めてハッとなった。

「紫、お前までも」
「ご無沙汰いたしました」

 紫がおずおずと浅葱のやや後ろに端坐し、指をつく。
 老人は眦を吊り上げる。

「何故じゃ。何故戻った」

 わななく声に、叱責されたと思ったか、顔を伏せる紫は肩を痙攣させた。

「神人を!」

 そこへ割って入ったのは浅葱であった。眼光凄まじい長老の視線が再び注がれる。
 腹に力を入れ、少年は声を張り上げた。

「御神宝の導きに従い、村を救う神人を見つけたからです」
「神人を?」

 白眉を顰めた老人の眼に、襖向こうから身を露わにした二人の法師が映った。
 その瞬間、皺と弛んだ瞼に押し込められた双眸が、零れんばかりに見開かれた。

「まさか……よもや」

 皺枯れた呻きが、老人と彼らの間を彷徨い、虚ろに揮散した。




 ―――しばし待たれよ。

 そう言われ別の間に通された雷蔵と美吉は、火鉢と出された白湯を前に、それぞれ足を組み思い思い思索にふけっている。ちなみに浅葱達は先の間に留め置かれていた。
 先だっての長老の反応に、雷蔵は違和感を覚えていた。浅葱と紫は長老に命じられ、雷蔵たちを探し連れ帰ったといった。彼らを誰よりも待ち侘びていたはずだ。ところが長老の態度はまるで、浅葱達が本当に使命を果たしたことが信じられず、望まぬ結果に動揺しきっているようだった。否、それだけではない。雷蔵たちを一目した時のあの顔。あれはそれこそ幽霊でも見たかのようだった。魂消るという言い方があるが、まさに魂が消えんばかりの驚愕と放心だった。思い返せばそれは長老のみならず、最初に出迎えられた村人たちにも言えることであった。

「妙だよな」

 ずっとだんまりを決め込んでいた美吉が、宙を見つめたままぽつりと口を開いた。どうやら同じことを考えていたらしい。

「歓迎してるのかしてないのか、どうにも解せん」
「何かあるんだろう。彼ら二人にも知らない事情が」
「視とけばよかったかな」

 少々惜しげに美吉が嘆息する。そうするよりも前にさっさと部屋から追い出されてしまった。対象物がいなければ透視ができない。

「焦らずともいずれ分かるだろ」

 そう返したところで、早速人の近づく気配を感じた。美吉が目を向けてきたので頷き返す。女性独特の静かな擦り足と、遅れて体重の軽いゆっくりとした足取り。
 果たして襖を開いたのは、あの下働きの中年女だった。続けて長老が姿を現す。

「お待たせしたの」

 女に支えられながら、長老は部屋を横切り二人の正面の空座布団に慎重に腰を落ち着けた。すぐさま女は三人に礼をして去る。

「見苦しゅうてすまんの。何分歳ゆえ、足腰が弱って一人歩くことさえままならん」

 やれやれと深く太息をつき、火鉢を掻く。炭火が鮮やかな小花を散らした。

「まずは改めて名乗ろう。儂は治兵衛と申す。ご覧の通りこの御座村の長老にして、今は村長代理を務めている老い耄れじゃ。お客人には、遠路遥々この(ひな)まで、ようお出で下さった」
「それについては聞きたいことが山ほどあるんだが」

 のんびりと切り込むように美吉が半眼で言った。
 火箸を操りながら、老人は頷く。

「さもありなん。村の若い者が迷惑をおかけしたの」

 うつむき、皺の濃い面に影を落とす。

「さてはて、どこから話したものか」
「この村の状況と経緯のあらましは聞いたよ。でも貴方自身は俺たちにまた別の含みがあるようだ。違うかな、ご老公」

 初めて口を開いた雷蔵の指摘に、治兵衛はぴくりと額を動かした。

「これも天の導きというものか」

 この小さな老体のどこに、という覇気がにわかに漲る。それまで穏やかだった目に宿る色が変わった。

「“時”が来たということなのじゃろう。こうして〈秘伝〉の継承者が村に現れたということは」

 瞬間、空気が張り詰めた。

「何だって?」

 ごくりと唾をのみ、美吉が腰を浮かせかけた。それを押し留めるように治兵衛はニヤリと笑う。
 相変わらず小さく丸まる老人は今や得体のしれぬ雰囲気を醸し出していた。

「お二人にはすべてを話そう。それが儂の務めゆえ」

 そうして、静かに語り始めた。




 浅葱や紫からすでに聞いているかもしれぬな。そうじゃ。この村は、世に〈秘伝〉と通り称される妙なる秘術と浅からぬ縁で結ばれておる。
 否、むしろこの村で生み出されたものと言っても過言ではない。それほどまでに、因縁は深い。
 さて、まずは〈秘伝〉の成り立ちからお話ししよう。すでに幾度となく聞き及んでおろうが、今しばらく我慢してもらいたい。

 それはまだこの日の本が大和としてようやく一つとなって間もなき頃、かつて大陸(もろこし)より我が邦に渡った一人の方士がおった。真の名は伝わっておらぬ。だが天地の玄理を究めた者、すなわち究玄と道号を称したそうな。
 究玄はまさに天稟じゃった。人並み外れた才をもって天と地の理を解き明かした。それだけに飽きたらず、ついには森羅万象を意のままにするすべを考えるようになった。
 しかしこの時の究玄は、人が手を出してはならぬ域に触れてしまったことにまだ気づかなんだ。そして彼の憐れなところは、あまりに天才すぎたということじゃ。人知の到底及ばぬことさえもその手にしてしまうほどにの。

 ほどなく究玄は存在を危険視され、道士らから次々と命を狙われるようになった。
 一方で、大陸で得られる知識を悉く会得し、一層の知識欲を覚えていた究玄は、意を決して海を越え、この日の本へ逃れ流れてきた。
 初めてこの邦の土を踏んだ彼はそれは驚いたという。何故ならそこには、大陸とは異なる独特の霊感を宿す風土と、原始根源に近い素朴な信仰が息づいていたからじゃ。
 究玄は国中を旅し、時をかけてついに天地の理を一巻の書にまとめた。それが〈秘伝〉の謂われじゃ。

 ところが形にした後になって、究玄は己の生み出したものの恐ろしさに気づいた。万一にでも悪心を持つ者の手に渡れば、とんでもない悲劇が引き起こされる。最早存在そのものが災厄じゃった。そのことに気づきながらも、しかし故郷を捨て、苦跡の果てについに完成させた己が命の結晶を無に帰すことはできなんだ。
 そこで〈秘伝〉を天と地の二書に分け、誼を通じておった二人の大和人にそれぞれ託した。〈天之巻〉は囮として、まつろわぬ賊を率いていた首長に。そして〈地之巻〉は秘めたるものとして、誰も知らぬ無名の流れ者に。そうすることで、それぞれがいかなる悪意の手にも渡らぬことを願いながらの。

 やがて時代を経、〈天之巻〉を守る者は堅固な忍び衆の里長となり、一方〈地之巻〉を守る者は流れ透波となった。そもそも初代継承者は共に、当時志野備(しのび)と呼ばれた異能衆の一員であり、中でもとりわけ強力な異能者であったそうじゃ。そこから、異能に秀でた忍びが継承者の条件になったのも自然な運びと言えるじゃろうな。

 ここまでは当代たるお二人も承知の言い伝えであろう。しかしここからは、恐らく初代を除く歴代継承者の誰も知らぬ話となる。
 究玄が大和へ渡った理由の一つは、暗殺者の手から逃れるためと、もう一つ、新たな知識を求めるためだったのは、先にも言ったの。その知識とはすなわち、己が究めた理を書き遺す法のことじゃった。
 彼は大陸にいる間、すでに森羅万象に干渉する術を見出しておった。ところがいくらそれを紙に記してもすぐに消えてしもうたそうじゃ。あらゆる法を試したが、結果はいずれも同じ。そこで未だ己の知らぬ土地に賭けた。隼人の国から北上し、途中には世の外れ者であった志野備らと誼を通じながら、北の果て蝦夷の国まで至ってから再び踵を返し、最後に今の御座村へ至った。今はとんと薄れてしもうたが、かつて我らが祖先は非常に色濃い通力を持っておったという。
 何を隠そう、初代継承者たちが属していた志野備の衆こそ、まさしくこの御座村の出じゃ。彼らは異端の力が強すぎたあまり、村に馴染めずに出奔した者たちじゃった。

 御座村はこの通り特殊な気の渦中にある。それゆえ特に異能が生まれやすかったのじゃろう。今ではほとんどが失われたが、伝承によれば様々な術が日常茶飯事に使われていたそうな。たとえば己と大切な物を繋ぎ、見失った時に呼び戻す法。物に宿る九十九神を護りとする法。媒介を用いて思念を特定の相手に伝える法―――そう、お主達にはなじみ深い、〈秘伝〉に関わる(まじない)はすべて、御座村に伝わる秘術であった。そして何よりも重要であったのは御神宝の力じゃ。浅葱と紫に持たせた御神宝をご覧になったかの。あれは元々、三種(みくさ)で一組となる神宝でな。最後の一種は筆で、霊力を墨として、望む物に己の思念を刻み付けることができた。これは当時、我らの祖先が時に記録を残し、時に覚書をするためのものであったが、神宝ゆえ滅多なことでは手を触れなかったという。

 究玄は秘術とともに、その神筆の力こそを求めて村へ来たのじゃ。当時の村長は彼を歓迎し、師と仰いで教えを請い、代わりに村の秘術を教えた。当時の認識としては隠すほどの代物でもなかったのだろう。ただし御神宝は別じゃった。村長は御神宝のことばかりは究玄に決して触れさせなかった。だが村を出た志野備から前もって話を聞いていた究玄は、ある日村人の目を盗み、社から神筆を盗んだ。
 そうして究玄はついに己の持ちうる知識のすべてを思念によって書に記すことができた。そのために己の愚かさを悔いることになろうとは思いもよらずに。
 特定の条件を揃えた者にしか解読できぬ文字を使い、寝食を忘れ何日も籠って書き続け、ついに最後の一字を書き終わると、神筆は折れた。いかな神宝も、理を侵す負荷に耐えきれなかったのじゃ。それほどの力が完成した〈秘伝〉の文言には宿っておった。

 それでも愚かな天才は、己の血肉をもって生み出した我が子ともいえる存在を殺すことはできなんだ。代わりに、いつか誰かがそれを為してくれんと、願いとともに誰よりも信用のできる者に〈秘伝〉を託したのじゃ。
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