語 ことばとかたり



 その村は、渓谷深くにある実に小さな集落だった。一望で視界に全貌が収まり、およその戸数が把握できてしまう。
 山腹から見下ろしてまず最初に感じたのは荒廃。まるで誰も住んでいない廃村のごとく、寂れうらぶれた空気が全体を覆っている。盆地となっている村落には一応陽光が降り注いではいるが、周囲を山脈に囲まれているせいか、どこか陰気で倦怠的だった。そこだけ時が止まっている。
 まさしく世から忘れられた村であった。
 しかしそれは何も、世間と隔絶された山奥だからというだけの理由ではなさそうであった。実際、同じように山奥にあって人の往来の途絶えたところであっても、桃源郷もかくやとばかりな里もある。時にそれは落人や稀人(まれびと)の隠れ里などの言い伝えのもとになったりもする。
 ところがこの村は、そういった陽気さとかけ離れていた。

「まるで迷い()だな」

 村を眺め、美吉がそんなことをつぶやいた。山奥にあって人を迷い込ませる無人の屋敷の言い伝え。その喩えもうなずけるほど、人の気配があまりに希薄であった。
 浅葱がぎっと睨みつける。その隣で、沈んだ表情をした紫が静かに言った。

「すでに半数を超える村人が亡くなっていますので……」

 さすがに失言に気づいた美吉は気まずげながらすまないと謝る。
 その中で雷蔵は一人我関せずという表情で村を見下ろしていた。
 その横顔を一瞥した美吉は、ふといつぞやの夜を思い出した。炎が宵を舐め、闇を皓皓と照らす中、彼はあの時もこうして山の中から、ひっそり拓かれた隠れ里を見下ろしていた。知己を呑み込み、燃やし尽くす炎を見つめながら。

 ―――誰かを巻き込む前に

 そう言った彼は、一体何を思っていたのだろう。
 あの時のことを今も思い返すことはあるのだろうか、そんなことを思いながら横目で窺っていると、

「呪いの坩堝」

 結ばれていた唇が不意に開き、ポツリとそう評した。「なんだって?」美吉がやや慌てて訊き返した。

「見てごらん」

 含みを持たせて雷蔵が言うので、今度は左目でよくよく注視する。それからなるほど、と頷いた。
 山全体に呪が渦巻き、螺旋を描きながら村の中心部へと吸い込まれている。今や村の頭上には、不可視の暗雲が垂れ込めていた。薄暗い印象があったのは多分にこのせいだ。

「分かるかい」
「ああ、〈逆渦(さかうず)〉だな」

 美吉は瞳を眇めた。村を囲む淀んだ穢気、その大本は神山聖域の清らかなる気である。さすが日の本でも有数の神奈備。その秘奥を包む霊気はひときわ清冽だった。地図にも載らぬほど余人の寄りつかぬ峻嶮な山間にもかかわらず、修行者らがわざわざ足を向けるというのも頷ける。山腹に溜め込まれた清水が滾々と湧き出でるように、尽きることのない濃密な霊気の源泉がここにはある。

 京の都がまさに風水上四神相応の地に作られているのと同じく、谷間に存在するこの村もまた自然の作り出す気が流れ集まる中心にある。そして高純度の気の塊と、そこに住まう人間の思念が絡まった結果、神が生まれるのである。村名を聞いた時から想像はしていたが、“御座(みくら)”とは磐座(いわくら)、すなわち神が降りる座のことだ。ここは豊かな稔りを約束された真秀(まほ)()のはずだった。

 ところが、本来そうであるべき山気が今、逆向きに回転して流れ込んでいる。それゆえ、本来ならば恵みとなるはずの清気が、翻って厄を与える瘴気と化しているのだ。正なるものがすべて裏返しになる。悪循環、まさに『呪いの坩堝』というわけだ。

「螺旋は輪廻、永久に巡り続ける。すべてが死滅するか、あの流れを断ち切らない限り、呪いは終わらない」
「そう簡単にはいかなそうだが」
「切れそうな箇所はない?」
「視ている限りは皆目。たとえは悪いが、出雲の大社(おおやしろ)にある極太の大注連縄みたく隙がない。……確かにこれは、人の()だな」

 天然に生み出されたものには大なり小なり必ず弱点がある。たとえば美吉はその点穴を見出し鍼を打つことで粉砕したりするのである。“完璧”というのは自然の創造物ではありえない。それを作り出せるのは人間だけだ。

「それにしたって、必ずどこかに仕掛けはあるはずだ。渦を逆流させる何らかの細工が」

 雷蔵の言葉に美吉はしばらく無言になった。村を見つめる横顔には厳しい色が浮かんでいる。
 そうして、

「……あるにはあるが、難しいかもしれないぞ」

 依然目線は村の中心に据えながら、説明に添って腕を伸ばし指先でなぞった。

「村の五方に呪具が埋められている。それも、左回りに五行相克の順にだ。これが本来右巡りであるはずの気流を逆渦にしている仕掛けだが、呪具に手を出せば本来の正常な循環さえも破壊されて、今すでに瀕死状態の土地は完全に死ぬ。土地が死ねば地縁でつながっている村人もただではすまない」

 指差しからぐっと拳を握る。

「いずれの手出しも不可能か。なるほど完璧だね」

 雷蔵は皮肉でもなく淡々と呟き、もう一つ問いかけた。

「術師の正体はどうだい」
「さすがにそこまで読み取るには、ここからでは限界があるな」

 疲れた風にため息を吐き、左目を瞼の上から擦る。真実(まこと)を見抜く神眼とは言っても、視えるものはその視る対象によってかなり左右される。目前の人物の生い立ちは視えても、その家族友人知人の生い立ちまでは映らない。間に介在するものが多ければ多いほど、真実が遠のき、視えづらくなるのだ。間接ではなく、直接呪いの核心を見ないことには術者も視えてこないだろう。

 ―――虎穴に入らずんば、か。

 雷蔵は背後に控える浅葱たちを振り返った。

「特に罠らしきものもないようだし、このまま村に入ってしまおう」

 硬い表情の浅葱がぎこちなく頷いた。あれだけ村に連れて行くと強い使命感で叫んでいたのに、いざ終着点を目前にして急に気が引けているようだった。

「じゃあ、あっちに降りやすい道があるから―――
「移動は面倒だからここから降りよう」
「は?」

 足元を見下ろしての雷蔵の言に、道のある場所を指差していた浅葱が首を戻してポカンとした。
 彼らが佇むのは、ほぼ垂直の断崖絶壁だ。

「じょ、冗談ですよね」

 さすがに紫も蒼くなっている。

「もちろん冗談じゃないよ。はい、じゃあ美吉は彼女を運んで。君は俺ね」

 雷蔵は笑顔であっさり言い切り、指名順に指差した。
 なおもまごつく二人を問答無用で背負い上げ、雷蔵と美吉は一切の躊躇もなく急坂を滑るように飛び降りていった。




 地面に降ろされた少年たちは、しばらく地に足がつかない風に呆然自失と座り込んでいた。思った以上に衝撃だったらしい。
 憐れな二人に構わず、雷蔵と美吉は目線に迫った村を改めて見廻した。上から見ていた時と変わらず、やはり全体的にじっとりとして暮らしや営みの色の薄い印象だった。この真昼の時間に、煙が上がっている家はほんの数える程度。ただでさえ全体数の少ない中で、それはより顕著に見えた。

「全く本当に信じられない」

 落ち着いてきたらしい浅葱がぶちぶち文句を垂れながら、なお落下の余韻残る足取りでようよう立ち上がる。

「とりあえずこっちだよ」

 顎をしゃくり、浅葱が先導する。少し遅れて紫がその数歩後ろについた。
 小川に掛けられた木板を渡る。橋の向こうはもう村の中とのことだった。川が境界の役割を果たしているのだ。
 しかしおよそ三歩ほどで川を越えたその瞬間、何かが身体の内側を走った。
 雷電が足裏から脳天に突き抜けたような筋肉の痙攣は、快とも不快とも言えず、良いとも悪いとも言えぬ感覚であった。わずか一瞬のことではあったが、気のせいとはいえぬ明確な感触に雷蔵が美吉を窺えば、向こうも丁度視線を寄越してきたところだった。どうやら互いに同じものを感じたらしい。しかしここは目語のみに留め、再び前を向き直る。
 小さな村だ。外れからそれほど歩くことなく、人家とこじんまりとした水田がぽつぽつと現れる。しかしそこにこの収穫期になければならないはずの黄金色は見当たらない。刈り終えた後というわけではないのは、荒れ果てた土の色で明らかであった。
 「旅に出る前よりずっとひどくなっている」小さな声で浅葱がポツリと言った。
 表には人気がないと思っていたが、家の中に息を潜めていたらしい。一行がかなり内部まで来ると、周辺の家々からぱらぱらと住人が姿を見せた。
 彼らは浅葱と紫、そして見慣れぬ法師を見て呆然とする。どの顔も色が悪く、身体も痩せ細っている。

「浅葱……浅葱か?」

 うち一人の中年の男が幽霊を目前にしたかのように当惑して問いかける。その動揺が漣となって周囲の者たちにも伝わっていった。

「紫まで」
「まさか、本当に?」

 口々に言う村人たちを、浅葱も紫もそれぞれ懐かしさと痛ましさを綯い交ぜにした複雑な表情で迎える。

「戻ってきたのかい」
「後ろの二人は誰だい」

 問いかけとも囁き合いともつかぬざわめきに、まだ少年にも関わらず浅葱は毅然とした態度で胸と声を張った。

「皆、ご無沙汰してました」

 妙な空気が村人たちの間に漂い、シンとなる。これを幸いと浅葱はさっさと行く手を進む。紫はもう少し丁寧に短い挨拶をかけていたが、どちらかといえばそそくさと顔を伏せて通り過ぎる。住人は彼らを引き止めず、むしろ避けるように道を開けた。しかし去ることなく、どうしてか戸惑いを隠しきれぬ表情を浮かべ見送っていた。そして同じ当惑の視線を、幾分か胡乱さも含めながら、雷蔵と美吉にもちらちら向けてくる。雷蔵は黙したまま目を伏せるように一つ会釈し、美吉はかったるそうに眼だけで周囲を観察した。

「紫!?」

 突然響いた声音に、前を行っていた紫の肩がビクリと跳ねる。声の飛んできた横方へ首を巡らせば、離れた所に立ち尽くす人影があった。杖を支えとしながら、片手と右目に巻いた布からは血を滲ませ、顔色はほとんど土の気色という酷い病窶の様であったが、彼がまだかなり若い男であることは面影から察せられた。
 その死人のような唇から、再び紫、と掠れ声が漏れる。

「茂吉さん……」

 紫は慄き、瞠った双眸を揺らす。今にも泣きそうに顔を歪ませながら、しかしぐっと唇を噛んで堪えた。

「ごめんなさい」

 震える声を絞り出し、頭を下げる。
 それから耐えがたきを振り切るように身体を戻し、「行きましょう」と促した。浅葱をも越して足を速める。
 なおも呼ぶ声に紫は振り返らなかった。呼ばれるごとに身を切られているかのように痛そうに眉を寄せながら。
 その時雷蔵は、茂吉という若者を見やる浅葱の表情がきつく強張っているのを見て取っていた。
 そんな浅葱はすぐさま身を返し、紫よりも大股で足を速めて先導役を取り戻すと、雷蔵たちを振り返って言った。

「まずは長老に挨拶を。村長が病死して以来、今は長老が村をまとめているから」

 長老の住まいというのは、村の北側の奥まった場所にあるこじんまりとした屋敷だった。裏手は山に面して雑木林が茂り、門を残して周囲はこれも木々に埋め尽くされている。遠目には寺社もかくやとばかりの鬱蒼たる装いだ。

「美吉、さっき村人を視てただろ」

 唐突に雷蔵が殆ど常人には聞き取れぬほどの吐息で隣へ囁くと、美吉は敵わないといった顔で明後日の方を見やった。
 忍びをしていれば身に染みているが、最も恐ろしいのは潜伏した間者の存在だ。それが特に術遣いとなると変化(へんげ)も警戒しなければならない。影梟衆の時を教訓とすればこそ、村人にはまず注意を払うべきだった。

「バレてたか」
「どうだった?」
「怪しい奴はいなかった」

 村人全員があの場にいたとは限らないから断言できないが、もし呪詛の施主やその手下が村人に扮しているのなら、敵である雷蔵たちの来訪には逸早く反応するだろう。ところが今のところ出会った人々の中で偽りを装っている者はいなかった。安心するのは尚早にしても危険の可能性は低いと思われた。

「ところで、長老は生きているんだな」

 話ついでに、美吉は先だってから気になっていた疑問を口にした。茂吉のような様相の者たちが、村人の中に相当数いたのは先ほど見受けていた。村を冒しているという奇病はある一定年齢以上に発症するとの話だが、村最高齢の長老にはまだ病魔の手が及んでいないらしい。
 二人の会話の聞こえていない浅葱は、開かれた玄関先に立つとごめん下さいと声をかけた。
 すると奥から板張りを踏む足音がし、下働きと思われる中年女が姿を現した。きちんと髪を結ってはいるが、着古して色あせた小豆色の着物や汚れた前掛けの所為か、疲れた顔色に見える。気弱そうに垂れた目が、浅葱たちを映して驚きに揺れた。まあ、とその唇が吐息をこぼした。

「あなたたち」

 浅葱はぺこりとお辞儀をし、

「戸渡川に住む勘吉の長男の浅葱です」
「に、西山の吾作の娘、紫も一緒です」

 慌て気味ながら紫も言い添えると、頭を起こした浅葱に睨まれて身を縮こませた。

「ただ今戻りました。長老はいますか」
「え、ええ……奥にいらっしゃるけれど。そちらの方々は?」

 後ろに並ぶ雷蔵と美吉を見やって、女はなお戸惑いを濃くする。浅葱が軽く半身を振り返るようにして言った。

「長老から言われた通り、神人を連れてきました」
「まあ」

 再び女は口を覆って嘆息し、法師らを見やる。縋るような眼差しだった。それは救いを望んでのものなのか、それとも帰ってもらいたいという懇願なのか。判然とする前に、彼女は諦めた風に目を伏せ身を退いた。

「どうぞ、お上がりなさい」
前へ 目次へ 次へ