縁 ゆかりとえにし



 頭上高く枝が網目状に伸び、さながら伏せ籠のごとく日差しを絡めとる。その隙間を縫ってぽつぽつと地上に光の筋が零れ落ちる様は幻想的だ。黒々と湿った土の合間から時折瑞々しい春の彩が顔を覗かせている。
 世界は草葉や花木や土から立ちのぼる香りと、山に棲む鳥獣の放つ物音に包まれていた。
 これが何事もない平常の時にあれば、神奈備(かむなび)に抱かれた神秘的で静謐な風景を気兼ねなく味わうことができたかもしれない。
 ざわりと葉擦れの音が鳴る。
 雷蔵は足を止めて、横を見、それから上を振り仰いだ。重枝の奥を見据え目を眇める。

―――来る)

 振り返った浅葱を背後に庇い、片腕を伸ばして下がるよう黙示する。
 訳が分からないまでも、異常事態を察して少年の顔がにわかに緊張し、息を詰める。身を守るように両腕を抱え、指示に従い一歩退いた。
 雷蔵は顔を正面に据えたまま、袈裟の内側から掌に乗る程度の小さな石ころを四塊取り出し後方へ放る。4つの小石は浅葱を囲むよう正確に四方の下生えへ落ちついた。紐で十字に縛り取手をつけたそれは関守石と呼ばれる結界の呪具だ。

「決して声を出さないように」

 短く言い置くや、雷蔵は動いた。錫杖を足元へ横一文字に倒す。間髪入れず突如奇声が響き渡り、大小の黒い影が飛び出した。あるものは上から幹を伝い降り、あるものは下草を掻き分け、凄まじい速さで寄せてくる。

()の神、辻の神、(さい)の神、彼我(ひが)分かち(えにし)絶ち道切り以て事戸(ことど)を渡さん。天元行躰神変神通力」

 素早く小刀を鞘払い、常とは異なる順序で九字を切った。
 土の上に転がされた錫杖を起点に目に見えぬ境界線が引かれ、重低音を伴って力を孕んだ。可視の物体によって自他の間に一線を画す。『道切りの法』である。
 襲来したものたちは途端に戸惑ったように動きを鈍らせ、周辺をうろうろと彷徨い始めた。道切りされた境から先には入ってこようとしない。彼らの眼には二人の姿が入っていないのだ。

 餓鬼に似た姿の妖は幾度も目にしていた疫神だが、明るいうちに見るのは初めてのことだった。歪な日の下に晒された様相は改めて見ると一層不気味さを増している。
 これまでは深夜にしか現れなかった彼らが白昼にまで現れたということは、それだけ呪詛の力が強まっているということか。飛騨の山中に入ってからというもの夜の襲撃はピタリと止んでいたものだから、おおかた諦めたか神域の霊力に怖気づいたものと思っていたが、どうやら思い違いであったらしい。あるいはこちらの油断を狙っていたのかもしれない。

 しかも今度の刺客は疫神だけではなかった。
 小ぶりの餓鬼の群れの中に、二回りほど大きなものが混じっている。こちらは喩えるならば狒々に似た容形(すがたかたち)だが、実際の狒々とは異なりその全身は黒く硬い毛で覆われている。
 一目で疫神ではないことが分かった。しかし蠱毒とも気配が違う。一向に呪詛が成功しないことに業を煮やした術者が、更に呪術を加えたのであろうか。

 疫神だけであれば薬草を呪符代わりに撃退できただろうが、こうなると対処法が変わってくる。
 幸い、咄嗟に張った結界は常世のものをすべて遮断する。本来の道切りの法を行うのに必要な呪物(まじもの)がなく、密教の術を援用することで補っているため完全ではないものの、声さえ出さなければ効力が切れることはない。ひとまずここはこのままやり過ごす方が得策だろう。
 浅葱は蒼白の顔で固唾を呑んで魔を凝視している。よもやそれが夜な夜な己を襲っていたとは知る由もない。ひたすら必死に悲鳴を飲み込んでいた。

 じっと身動がず、魘魅の遣い魔が去るのを待つ二人の背後には、背の高い樹が聳えていた。その梢に止まっていた鳥が異様な気配に怯え、弾けるように飛び立つ。その瞬間、葉先から露が跳ね飛び、真下に降り注いだ。
 にわかに背を滑った冷たい感触に、浅葱の心臓が飛び跳ねた。

「うわあ!!」

 しまった、と浅葱は己の口を塞いだ。しかし時すでに遅く、口気(こえ)によって結界が破れ、うろついていたものたちが一斉に二人を振り向いた。

「ごめん……!」

 顔面蒼白になる浅葱をそのままに、雷蔵は素早く錫杖を拾い上げ、地面を強く突いた。
 鉄環の鮮烈な一鳴りで、そこを中心に中空に残っていた結界の残滓が放射状に弾け飛んだ。
 これは万一に備えての二段構えの仕掛けであったが、しかし所詮はその場しのぎにすぎない。
 襲いかかってきた第一陣こそ術の風圧で塵と化せたものの、敵はなおも陸続と蠢いている。
 雷蔵は袂に忍ばせていた蓬葉の束を取って宙に散らした。簡便な〈秘伝〉の術で風を起こす。舞う葉に触れた疫神が耳障りな金切り声を上げて霧散した。
 続けて懐から出した紙の人形(ひとがた)を無作為に抛つと、たちまちそれは浅葱の姿を模り、四方へ走り去った。これに惑わされたいくらかが後を追って森林の向こうへ消える。予め浅葱に息を吹き込んでもらっておいた人形は、当人の気を色濃くまとっており、目晦ましになる。人形は日暮れになれば自ずと消えるが、それまでは敵をひきつけ逃げ回ってくれるはずだ。

 使役されるものはその時々で知能の程度が違う。これは術師がそもそも何を核にしてどれだけの呪力を注ぐかによって決まるもので、知能が高く人のように思考するものもいれば、獣同様、ただ型どおりに命令に従うだけのものもいる。前者だとなかなか厄介だが、幸いにして現在直面している呪詛の使役は後者の部類であった。
 楽と言えば楽。しかしいかんせん数が多い。今のところようやく半数以下にまで削れたものの、依然として囲まれていることに変わりはない。道切りの法と同時に、浅葱の周りに関守石の結界を張ったのですぐにどうこうということはないが、雷蔵が斃れればそれまでだ。

 次々と飛び掛かってくる彼らを晴明桔梗(セーマン)を描いて弾きつつ、次手を考える。
 〈秘伝〉はこういう時には不便だ。もとより森羅万象を紐解く代物であって、武器ではない。特定の対象を霊的に攻撃するのに特化しておらず、常世(あちら)に属するモノ相手では使いどころが難しい。敵が物理的な手段を使うのならば―――たとえば天目一箇神が火を操るように―――まだ対処のしようもあるが、根本的に次元の軸が異なる。
 呪詛には呪詛返しで対抗するのが常道だが、今は悠長に長ったらしい儀式を行える状況でもなかった。それに術師が呪詛返しに対し罠を張っている可能性もあれば、安易に強行できない。
 さりとて、このままでは埒があかないのも事実。
 痛し痒しだな、と雷蔵は胸裡で嘆息した。

(殲滅は無理としても、場を清めることで退散させられるかな)

 記憶を手繰り、知りうる中から使えそうな祝詞を諳んじてみる。

「庚上玉女、庚上玉女、来りて我を護れ。百鬼をして我を中傷せしむる無かれ。敵人我に(まみ)ゆる莫く、見ゑらば以て束薪と為せ。独り天門のみ開き、而して地戸に入りて閇ざさん」

 敵を除け、あるいは往なしながら、決められた歩を踏む。その様はさながら舞踏のようでもあった。これは返閇の法と呼ばれ、禹歩という独特の歩法によって、邪を避け魔を退ける呪法である。
 片手の刀印で四縦五横(ドーマン)を描きながら、更に低く唱える。

「天地開朗にして四方裳為し、玄水蕩滌して祥ならざるを辟除せよ、双童門を把りて七霊房を守り、霊精謹錬して万気混剛せよ、内外貞利にして福禄延長たるべし。急急如律令」

 一言の響きごとに山の清冽な空気が強まる。熱気が冷やされるようにすうっと涼風が吹き抜けると、疫神達が甲高い奇声を上げて狂ったように逃げ出した。
 術が成ると引き換えに、どっと四肢が重くなり思わず足裏の地を踏みしめる。深く息を吐いた。玉女の力を借りてこれだけ広範囲を清めるのはさすがに呪力を消耗する。
 しかし雷蔵を更にげんなりさせたのは、さして好転したわけではない現状だった。
 消えたのはあくまで疫神だけであり、狒々姿の使役には何ら変化も影響も見受けられなかったのだ。

「何で……」

 浅葱が震えながら愕然とする。
 残った黒い巨躯が周囲をじりじりと輪を詰めてくる。低能とはいえ多少は学習するらしく、馬鹿の一つ覚えのように闇雲には遅いかかってこない。こちらの体力が尽きるのを待っているのかもしれない。
 そこでようやく雷蔵は気づき、わずかに目を瞠った。

「そうか。これは穢れ神じゃない」
「え?」
「この気配はむしろ山海(せんがい)の精と同じものだ」

 恐れてやまないあれらと同類のものと聞いて浅葱が震えあがる。
 “彼ら”は元々あらゆる処に宿る精霊である。いくら清め祓おうとも意味はなく、また滅せられるものでもない。今は彼らにこちらへの害意があるから、厄除けの結界が反応しているが、山の中にいる限り彼らは消えることなく無限に力を得つづける。
 どうするんだよ、と浅葱の怯え声を背に、雷蔵は視線はそらさず龍弦琵琶に後ろ手で触れた。幸い、ここのところずっと山精木霊を鎮めてきていたから、調弦は合わせてある。やってみたことはないが、呪詛に使役された精霊でも(ゆら)すことができるだろうか。問題は最初の一音を鳴らす隙を作れるか否かだが。
 やるしかあるまい。
 肚を決め、いざ行動に移らんとした一瞬の合間で、雷蔵は急にその手を止めた。
 空気を伝ってきた気配にふと顎を向ける。
 ほぼ同時に、二人を取り囲んでいた使役霊たちがにわかに浮足立った。玉女勧請の時の疫神のごとく、ひどく恐慌した様で、引き潮のごとく方々の木立の向こうへ散っていく。

「え?」

 浅葱が拍子抜けした様子で呟いた。その顔は緊張による反動と危地を脱した安堵で緩んでいる。だが、退いて行った使役と入れ替わり間近で立った物音に、大袈裟に飛び跳ねる。
 反対に、雷蔵は力を抜き息を吐いた。
 果たして繁みを掻き分け身をのぞかせたのは、

「追いついた追いついた」

 髪や法衣に貼りついた葉を摘み払い落しながら、美吉が呑気に言った。

「おかしな気配がしていたようだが無事か?」
「お陰様で」

 キョロキョロと左右を窺う相棒に肩を竦めてみせる。まさしく絶妙な間合いでの待ち人登場である。
 神霊同士は互いの格や力の差に敏感だ。使役神は美吉の中に宿る荒神を恐れて逃げたのであろう。

「随分時間がかかったね」
「途中不慮の事故にあってな」

 真偽の怪しい言い訳を平然と口にする美吉は、相変わらずの寝惚け顔だった。
 親しく言葉を交わす二人に置いてけぼりをくらった浅葱は、何が何だかさっぱり分からず唖然としている。
 そこへ、再び繁みががさがさと揺れ、三対の目が丁度注がれたところで少女が飛び出してきた。

「待って……って、あれ?」

 一同会しているところを前に、少女がキョトンと目を瞬く。それからうち一人を認めて大きく目と口を開け、

「浅葱?」
「お前、紫!」

 若い二人は互いを指さしあい、同時に叫んだ。
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