そうしてその後特に何事もなく、一夜を旅籠で過ごし、翌早朝、まだ日も出ぬ薄暗い時分に旅籠を出た。
 これよりの行程は道を外れ、再び野宿の旅となる。浅葱は眠たそうな眼を擦り欠伸を噛み殺しながら、新調した草鞋の調子を確認している。彼の足裏の血肉刺や水ぶくれは、雷蔵の渡した薬草のおかげですっかり良くなっているようだ。

 浅葱の先導で、やがて申し訳程度に舗装された道から、木立の奥の獣道へと分け入っていた。
 行く手には灌木が道を遮り、雪解け水が細く小川をつくっている。腐った落葉の床に覆われた土はところどころぬかるんでいた。浅葱は何度も足を取られ、脚絆や足袋がすっかり泥に湿って気持ちが悪いと文句を垂らしている。対する雷蔵の方は慣れたもので、平地同様、あまり汚れていない。
 山中は密林さながらに樹木が方々へ枝葉を伸ばし、幾重にも重なって天蓋のごとく生い茂っているため、太陽が空に登っている時分でも吹雪の日のように薄暗い。しんしんと静かで、ひんやり漂う空気には、微かに春の薫りがした。

 悪戦苦闘しているわりに、浅葱の進む足取りに迷いはない。さすが地元の民というべきなのだろうか。否、と雷蔵は見立てる。これまで共にいて、少年は旅どころか山歩きにさえ慣れていなかった。今も折り重なった倒木や隠れた岩に蹴躓きそうになっているあたり、生まれてこの方、全く里から出たことのないくちだろう。こうも断然と道案内できるほど飛騨の山を熟知しているとは考えにくい。

「目印でもあるのかい」

 問いかければ、前を行く浅葱は、肩越しにちらりと振り返った。どう答えたものか、若干の迷いがその瞳に一瞬過ぎる。

「……目印ってわけじゃないけど、こいつが道案内をしてくれるから」

 そう持ち上げたのは、浅葱が肌身離さず腰帯に差している懐刀だった。柄頭からは例の鈴が下がり、浅葱の動きに合わせて揺れる。

「元々は俺たちの里の社に祭られていたご神宝の一つなんだ。破魔の小刀と、失せ物探しの鈴」
「失せ物探し?」

 破魔はさして珍しくないが、失せ物探しとは随分と耳新しい話だ。
 的確な言葉選びに苦戦しながら、浅葱は訥々と説明した。

「なんて言うのかな―――つまり、持ち主の探している対象のところまで導いてくれるんだよ」
「ふうん。道理で音が聞えたり聞えなかったりするわけか」

 何気ない相槌のつもりで言えば、浅葱がわずかにたじろいだ。

「気づいてたの?」

 雷蔵は気なく肩を軽く竦めた。

「鳴り方が普通と違うからね」

 たとえ不規則に聞えても、どんな音にも法則がある。しかし浅葱が動くたび、その鈴は理を無視して不自然に鳴ったり鳴らなかったりした。
 音は空気の震え、すなわち大気の支配を受けるから、天の〈秘伝〉の範囲である。この程度のことならば術を発動させずとも、継承者は自ずとその理を肌で感じ取れる。

「これ、実は中に玉が入っていないんだ」

 浅葱が鈴を無造作に転がす。あるべきはずの音がしない。当然だ、物理的に音を奏でる玉が入っていないのだから。
 しかし浅葱が手を離し、歩を進めると、あるところでチリンと鳴った。
 正しい道を示すと言うより、誤った方角へ行こうとすると警告をしてくれる代物らしい。なるほど、便利である。

「失せ物までは道が違っていた場合に音を鳴らして教えてくれるんだけど、探し当てた物が正しい時には別の音色が鳴るんだ」

 雷蔵は己の知る鈴を使った結界を思い出した。確かにあれも、実際は地中に埋まっているが、境界に触れる者があれば術師にだけは警告の音が聞こえる。
 つまり浅葱は、神鈴の霊音を頼りに歩いていたというわけだ。
 そこでふと思い至る。浅葱が鈴を村までの道標にしているということは、鈴の導く“失せ物”、つまり探し物とは、何も“物”に限らないということにならないか。
 つまり雷蔵が少年に目をつけられたのも偶然ではなく、彼が探していた人物の条件にたまたま合致したのが雷蔵であったとすれば―――
 
 ―――ようやく見つけたんだ。

 浅葱は雷蔵を見てそう言った。探していたのだと。そしてあの時、確かに鈴の音を聞いた。妙に大きく響いたそれは、どこか現実味のない、不思議な音色だった。
 では、浅葱は一体いかなる人物を探して雷蔵に行きついたのだろうか。
 日が落ち、野宿の場で火の番をしながら、雷蔵はそのことに思索を巡らせた。何も映さず吸い込むような深い黒瞳に、朱金の光が射している。
 浅葱は焚火を挟んだ向かいで、こちらに背を向け掛け布に潜っている。
 彼が自分を選んだ理由。雷蔵でなければならないのは何故か。他の人々と異なる点は何だ。
 〈秘伝〉ではないだろう。浅葱は、雷蔵が忍びであると知ってから初めて〈秘伝〉を取り引きに持ちかけてきたのであり、雷蔵こそが継承者本人であるとは知らない。では腕っ節の強さかといえば、それも浅葱の反応からするとピンとこない。

 とすると、残るは一つ。呪力だ。

 木の焼ける匂いと煙と共に、金粉がぱちぱちと弾けて舞う。そういえば龍弦琵琶を奏でる時、徒人の目には映らぬが、このような燐粉がしばしば舞い散ることがある。秘術の内容によって、火の粉のような金であったり、天の河のような銀であったりする。
 浅葱は、力ある人間―――それも、比較的強い異能を持つ者を探しているのかもしれない。
 だとすれば、その理由は何なのか。呪力が必要とされるのは、どんな事態なのか―――  ふと気配が動くのを感じて、雷蔵は炎に落としていた目を上げた。
 いつの間にか浅葱が身を起こしていた。
 眠っていなかったことには特に驚かない。忍びは人の寝入りを呼吸から読みとる術を知っている。横になっても浅葱が眠らずにずっと考え事をしていたことには気づいていた。
 山に入って以来、浅葱はいつもより口数が少なく、またどことなく塞ぎ込む瞬間があった。しかしどれにも雷蔵は知らぬふりをしていた。自分には関係のないことだ。浅葱が言いたければ言うだろうし、言わないものをわざわざ訊くつもりもない。
 そして今、思いつめた表情でひたとこちらを見つめる浅葱に、素知らぬ顔で首を傾げてみせる。

「どうしたんだい?」
「……」

 結局、先に視線を逸らしたのは浅葱の方だった。揺れる火がその面に影を作る。
 口を開きかけながらも、どの言葉を舌で象ればよいのか分からないとばかりに、空振りする。
 が、何度か惑いを経て、ようやく意を決した目で再び雷蔵を射抜く。そこに僅かな畏れが揺れているのを、雷蔵は見た。

「あんた、本当は何者?」

 その問いは随分と唐突に放たれた。
 雷蔵はきょとんとする。少し間をおいて、

「さて。何者と言われてもね」

 君が知る通りだよ、と答えれば、いっそ敵意(随分と懐かしい感覚だ)を籠めてなお一層強く睨めつけてきた。

―――あの橙」

 ポツリと零れた単語に、「ん?」と訊き返す。

「あれ。幻術だって言ってた」

 ああ、と雷蔵は思い出したように応じた。

「そうだよ」
「本当に?」

 今度は浅葱も目を逸らさない。しかし声音は少しばかり揺れていた。

「俺だって、“そっち”のことは知識として多少知ってる」

 そう慎重に前置く。

「俺の聞いた限り、幻術っていうのはあくまで目晦ましなんだって。幻には本来手を触れることはできないんだ」

 幻は無形。そこにあるように“見せかける”だけの術にすぎない。
 雷蔵は小さく笑った。

「視覚から瞬間的に仕掛けるものはそうだね。呪力で練った幻術は違う。(まじな)いだから、実際触れてなくとも“触れた気に”させることはできる。もちろん傍からもそう見える」
「それでも!」

 浅葱は荒々しく声を上げた。その己の声の大きさに一瞬気まずそうにしながら、息を吐く。

「……そうだったとしても、時がくれば必ず消えるもんだろ。元々ただの幻なんだから。ずっとそこにあったりはしない。ましてや、物理的にもぐことなんて」

 そう呟いて、片手で腰袋からそれを取り出す。
 まだ青年前の掌に乗っていたのは、青い色をした瑞々しい橙だった。
 一瞥するなり雷蔵は額に手を当てて溜息を吐いた。

「草木とはいえ生命を無駄にするものじゃないよ」

 折角丸くおさめたものを、これでは再び実がないことに気づいたあの二人組が騒ぎ出すだろう。尤も、すでに街を離れている雷蔵達には関係のない話であるが。
 そんなおどけにも誤魔化されない真剣さで、浅葱は無言で橙の皮を無造作に剥いた。中から薄色の果実が覗く。
 それを見下ろし、努めて平静を保とうとしてか淡々と言を紡いだ。

「この橙は幻影(まぼろし)なんかじゃない。正真正銘、本物の命が宿ったものだ。そして命あるものは、人も動物も植物もみんな“時の理”に縛られる。誰にもその理を無視して命を与え生長を促すことなんてできない。できるはずがないんだ」

 あるとすれば、と続ける。怯えるように。

「それは、神の御業だけだ」

 ぱちり、と薪が一際大きく鳴った。
 語尾を震わせ、ひたと畏怖を込めて凝視する少年を、雷蔵は無感動に見据えかえした。
 それから沈黙を破るように小さく微笑む。

「俺が何者か、今更怖くなった?」
「そういうわけじゃないけど……」
「大丈夫。俺は人間だよ。神でも鬼でも妖でもない」

 多分ね、と冗談めかして言えば、浅葱の緊張した空気が少し解けた。
 そこへすかさず冷や水を浴びせかけるように現実を突きつける。

「ただし、交換条件だ」
「え?」
「これ以上俺のことを聞きたいのであれば、君の秘密も話してもらわないと」

 そこで初めて浅葱の表情に不満げな色が浮かんだ。

「それは〈秘伝〉のことと交換だって―――
「〈秘伝〉についての情報は、俺が君の里で“させられるであろう”ことに対する報酬にしておくよ。その方が公正だろ」
「っ!」

 思わぬ反撃に、浅葱がクッと悔しげに口を噤む。

「前にも言ったはずだよ。詮索はしない。その代わりこちらも何も言わない。俺は俺の利害で動いているから、少なくともその間は君の不利益になることはしない。それで不服ならば、君も自分の手札を切らないとね」

 それが取り引きであり、駆け引きというものだ。
 雷蔵の意見に、浅葱は苦悩をにじませた。手札―――目的の詳細を明かすことはできない、とはいえここまで来て苦労をして見つけた“探し人”を今更手放すわけにもいかないといったところだろう。
 結局折れぬわけにはいかなくなり、浅葱は渋々と「分かったよ」と呟くと、不貞寝するように再びごろりと横になった。
 その背中を眺めながら、雷蔵は再び溜息をつきつつ、焚火を掻きまわす。
 浅葱の行動には正直、面倒なことをしてくれたものだと思った。彼の指摘通り、あの橙の実は幻術ではない。あれは、確かに雷蔵がその手で“生らせた”ものだ。

 ―――神の御業

 浅葱はそう言ったが、そんな大層なものではないと雷蔵自身は考えている。元よりそこに生るべき実の成長を―――2年ほど“早めた”だけだ。
 生き物がどのようにして育まれるか、その仕組みと原理は〈秘伝〉を内に宿す身には手に取るように分かる。ただしそれは極めて感覚的なものであり、言葉にするのは難しい。強いてたとえるならば複雑怪奇な紋様を描く織物に近い。目に見えぬ多様な光の経糸と横糸を手繰り、定められた手順と法則に従って織っていくのである。それだけに酷く精神力を消耗する。極めて緻密な作業であると同時に、己の精気をも織り込むからである。
 無論、いくら〈秘伝〉の継承者とはいえ、どんな命でも自在に容易く操れるわけではない。果実のように質量が小さく短命で自我が薄ければまだ何とかなるが、人間や動物のように個体が大きく意思を持ち寿命の長いものになるほど、かかる負担は比べものにならぬほど弥増す。
 けれど、不可能ではない。それだけの負荷に耐えられるだけの気力と呪力があれば。
 本来、不可侵なはずの理に介在しているという時点で、やはり〈秘伝〉の力は人知どころか、人としての分を越えているのだろう。
 神の領域。あるいはそうなのかもしれない。思えば思うほど人の世には無用の長物だ。開祖は何を思ってこのようなものを生みだしたのか。
 はじめ〈秘伝〉を創ったという渡来の術師を思い、雷蔵は静かに瞼を伏せた。
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