今日は下準備に費やし、明朝早くに出発すると予め言っていた雷蔵は、日が明けてから町へ必要な品を買い集めに出た。もちろん浅葱もついてくる。明日に備えてゆっくり休んでいいと言ったのだが、ついていくと言って聞かなかったのだ。
 町といっても、このような辺鄙な山の麓ではお粗末なものだ。ただし宿場町であるだけに、これから山越えをする旅人に備えた品々はそれなりにある。
 雷蔵は草履の替えと携帯できる食糧、晒などの救急用具などを補充した。あとこれはおまけだが、山神への供え物となる饅頭なども少々。
 そうしてあらかた揃えたところで、そろそろ宿に戻るかと浅葱を探した。途中でどこかへふらりと消えたきり戻ってこない。
 そう離れてはいなかったはずだがと訝っていると、不意に遠くで怒鳴り合うような声がした。
 何やら不穏な騒々しさに予感を覚えて足を向けてみれば、果たして探していた姿がそこにあった。
 少年が一人、誰かの邸の垣根の前で人相の悪い男二人に絡まれている。道行く人がそれを遠巻きに眺めていた。
 男らはそれぞれ四十がらみといったところか、一人は肥り肉、一人は中背だががっちりとした体つきをしている。どちらも細い吊り目をギラつかせており、いかにも柄が悪い。

「いい加減に白状しろや、この泥棒が!」

 がたいの良い方が浅葱の腕を掴み、罵声を浴びせかけていた。
 しかし浅葱も負けたものではない。激昂する大人を前にむしろいっそ冷え冷えと冷めきった目をしている。

「いい加減にしてほしいのはこっちだよ。やってないものはやってないってのにさ。おっさん達、いい歳してこんな子どもにいちゃもんとか、恥ずかしくないわけ?」
「んだと―――

 強面が歪んだ。

「調子に乗るんじゃねえぞ、小僧!!」

 掴んだ腕を容赦なく振る。口は一端でもまだ脆弱で華奢な身体は、軽く飛んで垣根に打ち付けられた。浅葱が顔を顰めるのが分かった。死んでも呻きを上げるものかとばかりに唇を噛んでいる。なかなか見上げた矜持だ。
 暴力が振るわれても、周囲で止めようとする者はいない。誰もが横目で怯えたように見ながらも、知らぬ顔をしてこそこそと通り過ぎていく。

「躾がなってねえようだなあ」

 太った方がここぞとばかりに拳を鳴らす。「世の中ってもんを教えてやろう」
 浅葱はぺっと唾を吐き捨て、鼻であざ笑った。

「あんたらみたいな世の中の落ちこぼれの下種野郎が躾なんて笑わせるね」

 こちらも相当懲りない。むしろ挑発して何ぼとばかりに負けん気を発揮するものだから火に油だ。
 みるみると顔を紅くした屈強の男が意味を成さぬ罵声を発して腕を振り上げた。上腕に筋肉が盛り上がり筋が走る。
 鉄拳が振り下ろされ、いい音が響いた。

―――ぎゃあ!!!」

 一拍おいて痛みを訴えて叫んだのは、男の方だった。手首を抑えて飛び跳ねる。

「な、何だてめえ!?」

 驚きと動揺で慌てふためきながら、太った男が叫ぶ。
 誰何の先にいた雷蔵は、顔の前に掲げていた重い鉄鍋を、まるで笠のように片手で軽く上げ小首を傾げた。

「傷一つなし。良い品だね」
「何ふざけてやがる!」
「いや、急に殴りかかられたものだからつい条件反射で」

 そういう雷蔵の方が、男たちにしてみれば“急に”目前に現れたようにしか見えなかった。背後に庇われた形の浅葱もぽかんとしている。彼は雷蔵の本性―――正確には元職業を知っているから、それほど意外ではないはずだが、しかし改めて目の当たりにすると度肝を抜かれるらしい。

「連れが何かしたかな」
「連れ?」

 どう見ても年端行かぬ少年にしか見えない奇妙な二人連れを前に、無頼漢は訝しげに眉を顰め、互い顔を見合った。

「このクソ餓鬼はてめえの連れだっていうんか」
「まあ一応、今のところ便宜上は」

 何とも珍妙な返しに丸々と太った方が一瞬鼻白むが、すぐさま気を取り直して脅し顔をした。

「てめえの連れのせいでこっちはえらいことになってるんだ。責任取れよ」
「それと俺の手もだ。骨が折れたかもしれねえ」
「何だって!? おい、どう落とし前つけてくれんだよ、えぇ?」

 痛みを堪えて頬を引き攣らせる相方に、太っちょは威を得たとばかりに雷蔵に食ってかかる。

「手については正当防衛だからね。俺には急に殴りかかられる理由に身に覚えがない。何なら若衆頭でも呼んで検断してもらっても構わないよ。たくさん目撃者もいることだし」

 こうした小さな町や村落などでは領主の支配がなかなか届かないことから、地域の人々が自分たちで調整し、秩序を保つ仕組みがある。特に犯罪について捜査し裁断を下すことを検断と言った。そして治安維持を行う自警団のような組織の中心的な構成員は若い男衆であり、彼らを取りまとめるのが若衆頭だ。こうした旅人の落とす金で収入の多くをまかなっているような小さな集落であれば、身内と旅人の揉め事にもそこそこ現実的な判断を下す。目撃者の大半が余所者ならば猶更だ。
 遠巻きに道行く人々がちらちらと目を向けている。さすがに不利を悟ったか、がたいの良い男が肥えた横腹をどつく。それでハッとなり、太った男が慌てて向き直った。

「それはそれとして、てめえの連れの餓鬼の落とし前はどうする気だ。責任ありませんじゃ済まさねえぞ」
「そう、それだ。そもそも彼は一体何やったのかな?」
「乙名様の橙を盗みやがったんだよ」
「言いがかりだっての」

 すかさず言い返した浅葱をちらりと見やり、

「橙?」

 雷蔵は再び首を傾げた。橙と言えば、あの橙だろうが。
 そしてふと傍らを見上げる。そういえば彼らが言い争っているのは立派な屋敷の前である。その垣根から、低木が覗いていた。橙にしては背が低いが、枝ぶりからしてこれがそうなのだろう。
 その緑枝には今、実は一つもない。

「いいか、これはなあ、ただの実じゃねえんだよ。御社に献上するための大切な供物なんだ」

 口角から唾泡を飛ばして力説しているのはがたいのいい方だ。
 そのわりには随分と不用心なところに生えているものだ。橙は本来小高めの木で、大人が背伸びしたところで到底手の届く高さではないのだが、この橙の木は恐らくまだ成長途中なのであろう。おかげでその気になれば誰でも実を盗れる。

「それが見たら、昨日までここに生ってたはずの最後の一つがないときた」

 というのが肥満体の方。なかなか息のあった掛け合いである。
 示された先を見る。一見そうとは分からない。つまり真実か否かを判じる術がない。

「確かなのかい?」
「てめえ、オレ達が嘘言っているとでもいうのか?」
「いや、一つだけ残っているっていうのが妙な気がして」

 理由に察しはついているが、この流れではそちらへ誤魔化した方が面倒が少なそうだと判断し、あえて問いかける。
 果たして太った男が小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、優越を滲ませた卑らしい笑みを浮かべた。

「全部採りゃあしねえんだよ。採り尽くしちまったら、次に実が成らねえだろ」

 「なるほど」と相槌を打つ裏側でざっくりと推測をする。
 大方、彼らは橙の管理を任されていたが、誤ってすべてをもいだか何かしてしまったのだろう。二人とも勘違いしているようだが、橙のような植物の場合、次の収穫を左右するのは枝の剪定であって、実の有無はあまり関係が無い。一つだけ実を残すのは、多くの場合が木守(きまもり)、つまり捧げものとしてだ。自然の神への感謝の念を示し、鳥や虫に裾分けするのである。特に橙は持ちがよく、もがなければそのまま2、3年は落ちないし、季節によって色づいたり緑に戻ったりする。回青橙ともいわれる所以である。その様から「代々」と名付けられたのだ。
 要は慣習にすぎず、現実には採り尽したところで実害はない。ただ、それでもなお屋敷の主が律義に一つ実を残すことにこだわっているとなれば、話は大事である。乙名は惣村の首長格であり、もとを糺せば村の祭祀を執り行う宮座の頭だから、信心深くあっても不思議ではない。おまけに橙は子孫繁栄を意味する縁起ものだ。神社(かみやしろ)への奉納品であるならばなおさら拙い。
 強気で恫喝しているが、男たちは相当に顔色が悪い。実が無いことに気づき、慌てて誰かに罪を被せようとしたところ、丁度ふらふらしていた浅葱に目をつけたといったところか。
 狭い田舎町である。勝手知ったる住民になすりつけるよりは面倒がないと、他所者の浅葱に白羽の矢が立ったのかもしれない。
 また随分と奇怪な輩に絡まれたものだと思いながら、雷蔵は実が生っていたらしい枝に手を伸ばす。
 その後ろで再び騒がしさが増した。

「だから、俺はやってないってさっきから言ってるだろ!」

 浅葱が目尻を吊り上げ抗弁する。小柄な身体を背伸びさせながら、

「見ろよ、もし盗んだっていうなら一体どこに隠し持ってるっていうのさ?」
「そんなもん、食ったに違いねえ」
「はあ? じゃあ皮は? 種は? まさかそれも食べ尽くしたんだとか言うんじゃないよね」

 確かに苦い皮や堅い種ごと食べるというのは常識的に考えられない。まあ元々言いがかりにすぎないわけだから、浅葱の論攻めに分が悪いのは男の方だ。

「この、減らず口を!」

 ついに耐えきれなくなった身体の大きい方が拳をつくる。

「待った」

 カッとなって今にも飛びかからんとした二人の男を止めたのは、場違いに呑気な声音だった。
 のんびりして柔らかいのに、何故だか無視できぬ響きと威力を感じ、男たちの動きが思わず止まる。
 またこいつ邪魔立てを、と射殺さんばかりに忌々しげに向けられた二対の目に、雷蔵は依然として気負いのない様のまま、あっさり言ったのだった。

「あるよ」

 ホラ、と枝に伸ばしていた手の平を返して、男たちに見えるよう向ける。

「んな」
「何だって!?」

 同時に叫び瞠る二人の目に飛び込んできたのは、確かに青く色づいた丸い実。

「季節柄青色に戻っているし、小さいからね。葉影で気づかなかったんじゃない?」
「馬鹿な、確かにさっきまではなかったはずだぞ」
「ああ、確かにこの手でもいじまった―――い、いや……おいてめえ、おかしな手品するんじゃねえぞ」

 信じられぬものを目の当たりにして動揺と恫喝を向けてくる太った男に雷蔵は平然として「手品じゃないよ」と身を引いた。

「嘘だと思うなら、自分たちの目と手で確かめてみるといい」

 言うが早いか、男二人は木の側に駆けより代わる代わる触り、矯めつ眇めつ凝視した。徐々にそれが本物だと知れるにつれ、緊張していた頬から力が抜け放心状態になる。口は開きっぱなしだ。

「こりゃあ―――

 ほんとうだ、と声なき声で唖然とする。

「けど、ほら……確かに、なあ?」

 最早まともな言葉にもならぬ様子で、二人顔を見合わせては橙を見る。
 何度見てもそれは消えることなく、たしかに枝についてそこにあった。

「おい、てめえら―――

 何が何やらわからない。慌てて振り返った二人は、思わずそのままぽかんとした。
 そこには、生意気な少年の姿も、おかしな有髪僧の姿も、忽然と消えていたのだった。




 男たちの意識が逸れた隙に、雷蔵はすかさず裾を返し浅葱とともにその場を離れていた。途中で屋台の親父に拝借していた鍋を返すことも忘れない。にこやかに礼を言った雷蔵に、親父は呆然としたまま受け答えていた。
 買い物も済んだことだし、これ以上厄介なことになる前にさっさとトンズラするに越したことはない。三十六計逃げるにしかずと、逗留している旅籠を目指す。小さな町だから、その気になれば妙な二人連れの旅人が泊っている旅籠くらい、すぐに突き止められてしまうだろうが、そもそもあるはずがなかった実があったのだから、男たちもあえて手間をかけてまで他所者を追っては来まい。むしろ向こうも、あまり下手に騒げば藪蛇となることくらいは察するだろうから、このままうやむやにしたいはずである。
 ただ浅葱ばかりは、雷蔵に背を押されながらも橙の木と男たちを振り返り、しきりと後ろを気にしていた。

「ねえ、あれ」

 戸惑いながら小声で尋ねた浅葱に、雷蔵は前を見たまま静かに答えた。

「幻術だよ」
「幻術?」

 そう、と応じる雷蔵に、浅葱は物言いたげに眉を顰めている。
 しかし雷蔵はそれを黙殺し、ただ足早にそこから立ち去ることを先決させた。
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