こんもり盛り茂る森の中で、美吉は派手にくしゃみした。
 呻きながら鼻をすすってるうちに、幾度目か分からぬ欠伸を盛大に漏らす。

「ふわ~、はあ」

 最後のは嘆息である。視界を流れて行く深緑をぼんやり追いながら、あーかったりい、とごちた。
 行けども行けども果ての見えぬ路。しかし身体は移動しているのに、その足は自ら動いておらず、むしろ胡坐をかいて黄色い毛氈の上にあった。

「なあ、まだ着かねえの」
「まだだ」
「全くどんだけ遠いんだよ。かれこれ六日も歩いてるって言うのに」
「歩いているのは主に儂だ」
「いいじゃん。俺たち一心同体みたいなもんなんだからさ」

 美吉は欠伸を噛み殺しながら、手持無沙汰に伸びすぎた前髪を弄ぶ。その態度に会話相手が一瞬逆毛立ったようだったが、発言主が無視を決め込んでいるのを認めると、舌打ちを漏らした。

「まあそうかりかりすんなって。禿げるぞ~禿げたら毛皮にもならんぞ~」
「うるさいわ、このロクデナシ駄目男めが」

 黄と黒の色彩美しい毛が、再び逆立つ。
 会話だけ取れば微笑ましいやりとりだが、構図が何やらおかしい。
 立派な毛並みに、並の成獣よりも更に大きな体躯を持つ虎が、背に人間を乗せて山中を闊歩している。おまけに人の言葉で会話をし、果ては舌打ちまでする虎。それを牛馬よろしく乗り物にする法師。手には二本分の錫状を横一文字にして持ち、膝には一抱えもある荷袋を抱えている。
 すべてにおいて珍妙な光景だった。

「しようがないだろ。こっちの方が断然速いんだもん」

 荷に顎を乗せ、猫背になりながら言う姿は、どう大目に斟酌しても「立派」とは程遠い。

「全く言い訳になっとらん」

 のそのそと急な坂道を登り、険しい岩の段も悠々飛び越えながら、虎はぷりぷり憤っている。虎なだけに、それなりに迫力があって恐ろしげではある。
 しかし背に乗る男はといえば、怯えるどころか、依然怠惰に頬杖をつくばかり。

「それにさ……〈天ノ巻〉を追うには、この方が効率いいだろ?」

 同じ調子で吐かれた科白に、虎は今度は反駁することなく、ややしてから「まあな」と溜息交じりに相槌を打った。
 〈天義書〉の継承者が謎の失踪を遂げてから数えてもう七日。それを追いかけるように昼夜強行して、丁度安芸を越え備後に入ったところだった。徒人には困難な獣道を通っているので、山賊も関所もない分、楽で速い。

「それにしても、これでまだ追い付けないとなると、こりゃ相当大急ぎで駆けたか、瀬戸内を爆進したかのどっちかだな。一体何だってんだろうなぁ」
「さてな。それより、呼びかけてもずっと微弱であった気に、ようやく応えがあったぞ」
「ということは」
「無事の(しるし)であろう。これで場所がより特定しやすくなった」
「どんくらいだ?」
「まだ遠い。国一つや二つは隔てていよう」

 今は三谿の北側を行っている。

「この先というと備中、備後……播磨か?」

 美吉は一人ごち、唇を撫でる。よし、と意気を入れた。

「頼んだぞ、ミケ」
「丸投げか、虎遣いの荒い主め。それとその名もどうにかならんか」
「だってミケはミケだし」

 虎が今度は大仰に嘆息してみせた。そもそもこの男の感性に期待した時点ですべてが間違いだったのだ。いくら猫の類で毛色が三色だからといって、まさか三毛猫と同程度の命名されるとは夢にも思わなかった。前代未聞だ。“歴代”でも一、二位を争う悪名である。しかし一度決定された名は取り消しがきかない。そういう決まりだった。

「いいじゃないか。雷蔵のを見てみろよ。あっちの方が幾分悲惨だぞ」
「どっちもどっちじゃな」

 思えばアレも気の毒な話だ。当代の継承者たちは揃いも揃って絶望的なまでに感性が崩壊している。諦めるしかない。

「さっさと死んで次代に替わってしまえ」

 腹立ちまぎれに呪詛を吐き捨てる虎に、

「残念だが当分はご期待に添えそうにもないな。ってことで俺そろそろ疲れたから寝るわ」
「だらだらしてるだけで何もしとらんくせに何が疲れただ」
「分かってないなぁ。だらだらするんだって気力を使うんだよ。第一、お前を叩き起こして、ぶっつづけで使ってるから結構お疲れなの、俺は。その分働け」
「おのれ、自分の都合で呼んでおいてその言い草。動物虐待だぞ」
「今更今更」

 美吉はあっさり言い返し、「んじゃあとよろしく」と、布団代わりの毛並みを叩いた。






 雷蔵は閉じていた瞼を開けた。届いたかと空を仰ぐ。
 呼ばれた気がしたから“返し”てみたのだが、どうもまだ遠そうな気配だった。今更だったが、〈秘伝〉にこういう音信手段があることを初めて知った。活用すれば実に便利なものである。

「……あのう、もしもし?」

 しゃがみ込んだまま呆とゆっくり流れる雲の形を追っていた横で、おずおずした声が上がった。
 おやと目を瞬いて向ければ、周囲には当惑顔でこちらを窺っている作業衣の数人、そしてすぐ傍らには胡乱気にこちらを見下ろす男がいた。

「あんた、どちらさまで?」

 男は何故か両手を揉みつつ、胡散臭そうに眉を寄せている。

「ここは里直轄の薬草園。部外者は立ち入り禁止ですよ」
「ああ、そうなの?」
「いや、そうなのってああた……」

 そんなこと里では周知ではないかと男は鼻白み、それからはっとその手元を見た。

「こ、こらー! 無断勝手な採取は御法度! 言語道断!!」
「へえ、そうなの?」
「知らんわけなかろうが!!」

 数枚ほど千切った葉や草花を片手に、やはり全く悪びれない雷蔵に、男のこめかみがぴくぴくと脈打つ。その光景を、周りも作業を続けながら横目で見守っている。
 顔を真っ赤にして再度噴火しようとしたところで、男はふと訝しげに鼻を動かした。じいっと目の前の面を凝視する。

「ん? そういや見ない顔ですね」

 広くない里だ。どの年齢層にどんな顔ぶれがあるかは、皆互いに識っている。
 雷蔵は膝を上げて裾を叩き、はてと逡巡した。

「ああうん。最近……越してきた?もんで」
「何故微妙に疑問形?」

 男はますます怪しんで鼻の頭に皺寄せる。

「まあ何でもいい。いいですか、ここには危険なものがごろんちょ生えてるんです。素人が遊び半分に入ってほいほい草摘みする所じゃあ―――
「うわぁ! 蝉太夫殿!」

 懇々と説教を始めたところを、若々しい声が遮る。

「なんだ、坊ちゃんじゃありませんか」

 振り返った男、蝉太夫が片眉を上げる。
 園に面した渡り廊下では千之助が大袈裟に仰天していた。

「せ、せ、蝉太夫殿が何故ここに」
「在庫が足りなくなったもので、採取に来たのですよ。下品(どく)類はこちらの方が多いですし、本園の方は今年出来があまりよくありませんでしたからな。それがどうか?」
「どうかもなにも、しばらくこの園には立ち入り厳禁です! 棟梁命令ですよ」
「はあ?」

 蝉太夫は何のことだときょとんとしている。連絡が行っていないのか、あるいは行き違ったのかと、千之助は子どもだてらに眩暈のする額を抑えた。

「一体何だってんです?……って、コラァ! 人の見ていぬ間に貴様も何をやっとる!」

 話の途中で蝉太夫が振り返って怒鳴った。雷蔵が周辺で作業している者に「この葉は茎の根元から取った方が、煎じる時より消炎効果が上がる」だの「その根の汁はかぶれを起こすことがあるから素手で取ってはいけない」だの「あの草はどこそこを見分けて摘み分けるといい」などと勝手に口を挟んでいたからだ。
 雷蔵はようやく気付いたとばかりに顔を上げて、

「いや、悪かったね。傷薬用の蓬を貰いがてら、ついうっかり昔を思い出して老婆心が」
「ついうっかりじゃない! しかもちゃっかりもらうな! お前たちも渡すな!」
「でも蝉太夫様、まことに的確なご助言なので」

 戸惑いと、いささか非難めいた口調に蝉太夫は顔を赤らめ、ぐっと詰まる。『こんな知識は貴方から聞いてなかったし』と謂わんばかりの部下たちの眼差しである。
 何か言い返さんと口を開いた蝉太夫の袖を、千之助が強く引っ張った。小声で素早く囁く。

「薬草園だけでなく、この屋敷の敷地一帯は今や父上以外の許可なしに入ることはできません。見つからぬ内に出て行かないと命令違反になります」

 仁義に厚い影梟衆でも、内部の戒律は厳しい。いや、厚いからこそ厳しくせねばならないのである。蝉太夫は真っ青になった。

「お、お前たち、今すぐ引き揚げろ」
「しかしまだ採集が……」
「いいから戻るのだ! ここは本日より棟梁の命令で立ち入りが禁止されているという」
「ええー?」

 作務衣姿たちは慌てふためきながら摘んだ薬草もそのままに散った。戒律違反者は厳罰に処せられるし、棟梁の命令は絶対だ。
 ひとり残された雷蔵がぽつねんと園の真ん中に立ち頭を掻いている。

「おい、お前も」
「ああ、いいのです! あの方は父上の御客人ですので」

 再び蝉太夫の袖を引いて慌てて千之助が言を被せた。

「客? 客人って―――あ」

 あわわと、震える指を差す。

「まさか例の神農様!?」
「神農?」
「神農様?」

 千之助と雷蔵がそれぞれ鸚鵡返しに小首を傾げた。しかし当の発言者はぱくぱくと口を動かして声もない。
 やがて何やら得心したらしい雷蔵は、軽く宙空を見上げてから、薬草園から出て渡り廊下に歩み寄った。何故かひっと喉をひくつかせて飛退く蝉太夫を横目に、千之助に声をかける。

「何か用だったかな」
「昼餉をお持ちしました」
「ありがとう。丁度お腹が空いたところだったんだ。ところで、擂り潰し機ってあるかな」
「確か蔵にあったはずです。後でお届けにあがりましょうか」
「悪いね、頼むよ」

 にこりと微笑み、二人の前を通り過ぎる。と、途中で「そうだ」と立ち止まって半身を返した。

「君が薬師殿?」
「へい!」

 思わず変な返事をする蝉太夫に、雷蔵はひらひらと摘み立ての芍薬を揺らす。

「ついでの老婆心。あの薬湯、これを加えるともっと安定するよ」
「へ?」
「浄心華はいい薬草だけど、作用にどうしても個人差が出るからね。調整に苦心しているだろ」

 蝉太夫がぎょっとして両目を剥いた。

「ま、まさか飲んだだけで仙精石丹散の成分を? あああんたほんとに神農?」
「そんな経典みたいな名前じゃないけど」

 雷蔵は薄く笑い、少しだけ何か思うように視線を逸らした。そして、

―――『那由他』」

 ふとそう答えた。
 蝉太夫はぱちくりと瞬きを繰り返している。雷蔵は軽く微笑した。

「那由他だよ」

 それからすっかり呆気にとられている二人を残し、踵を返して室内に消える。
 蝉太夫はぽかんと間抜け面から、たっぷり三呼吸数えてようやく現実に返って千之助に詰め寄った。

「ありゃ一体何なんですっ?」
「だから父上の客人です。しばらくこの屋敷で過ごすことになって―――
「そう言ったってタダモンじゃないでしょうありゃあ」

 すっかり興奮気味の―――これだから医術や天文や算術に優れている人間は面倒臭いのだ―――蝉太夫をなだめつつ、千之助は極限まで声を潜める。

「シィッ、お声が高いです蝉太夫殿。御客人の事は内密なのですから」
「ふむ、内密とな?」

 辺りを憚る千之助の様子に、蝉太夫も事の重大性を分かってか同じように小声で囁く。

「して、何故に内密なんです」
「蝉太夫殿、余計な詮索は僭越というものです」

 きっと形のいい眉を吊り上げた千之助の、まだ幼さを残す両頬を、蝉太夫は摘まんで伸ばした。

「全く、誰に似てこんな小生意気なお口を聞くようになられましたかな」
「ははひへふははい!」

 言葉にならぬ唸りが上がり、ぱっと手を離すと、千之助は赤くなった頬を抑えてぷりぷり憤慨した。

「ともかく! 大切な御客人なのです。無礼は許しません。第一、私だって何も父上より伺っておらず分からぬのですから」
「ほうほう、坊ちゃんもご存じないと? うーん、これはますます謎ですなぁ」
「だから、蝉太夫殿!」

 窘めようとした千之助を遮り、ハッと蝉太夫は目を見開いて声を上げた。瘧に罹ったようにぶるぶる震える。

「もしや、もしや御頭……!」
「な、なんなんです?」

 あまりのことに千之助もつい訊き返してしまう。
 蝉太夫は刮目しながら、千之助に顔を寄せ押し殺した声音で言った。

「コ、レ、ですよ」

 と、ぴんと立てられた指を千之助は困惑気に見つめながら、

「……薬指?」
「あ、しまった。こっちだった」

 つい癖で、と蝉太夫はさっと薬指を曲げ、小指を立てた。癖?と怪訝に思いつつ、なおも千之助は両眼を眇める。

「……それで?」
「だーかーらぁ、もうやだな坊ちゃんってば。お頭ってば『お囲い』をお迎えになったんじゃないかってこフグッ!!」

 千之助は物凄い勢いで蝉太夫の口を塞いだ。抗議してくる蝉太夫のことなど知ったことではない。全身から汗が吹き出した。

「何つーアホなことを!」

 自分で言うのもなんだが、まだ元服前の子どもの、それも実の息子の前で、無神経すぎる。それより何より第一にして相手は男だ。どこからそういう発想がやってくるのだろう。
 もしや蝉太夫は性別を勘違いしているのか、とそこでようやく思い至った。

「いや、だって考えてみればしっくりくるじゃないですか。元はと言えばこの邸は御頭の生まれ育った家で、お妾であった母君が囲われていた住まいだったのですよ。そこへきて里の者にも内密に人を入れ、立ち入りを禁ずるなんて、ねぇ? いささか歳に差があるような感は否めませんが、人の趣味はそれぞれっていいますからね。いやはや御頭もああ見えてなかなか、全く隅に置けないなぁもー」

 何を妄想しているのか、にやにやと口に手を当て明後日の方向へぺらぺら喋り続ける。案の定、勘違い道を突っ走っているようだ。
 本当にこの男には頭が痛くなる。気が遠くなりそうな意識を辛うじて押し留め、千之助は憤然と低い上背を伸ばし、肩を怒らせた。

「何を言ってるんです! 大体あの方は、お―――

 言いかけてから、はっと千之助は口を噤んだ。待てよ。
 脳裏に閃いた思いつきに、考えを巡らす。父の虎一太からは、何にしろ曰くある人物であるから、客人に関する情報は里の者には一切他言無用ときつく戒められていた。ということは里の者に知られると宜しくない素性なのだということになる。物事に聡い千之助は、齢十三年分の頭を懸命に働かせた。
 顎を躊躇いの汗が伝う。じっと蝉太夫の間抜け面を見た。爆弾発言の主は何か?とばかりにきょときょとしていた。
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