「なんですかこれは!」

 妙な抑揚のある声が、悲鳴を上げて裏返った。
 虎一太は障子の表側に凭れて庭を眺めながら、部屋の中で青くなっているだろう男にのんびりと応じる。

「悪いが客人たってのご要望でな。至急頼む」
「頼むっていいますけどね、御頭。いくら薬といっても、ありえません。これじゃあ三途の川行きですよ」

 自殺願望でもあるんですか、と問いつつも、手は素早く作業に取りかかっている。

「それくらいでなければ効かないと本人が言うのだからしょうがない」
「どんな身体の造りしてんですか。本当に人間ですか。この間ご依頼された眠り香にしたって軽く致死量だったし」
「それでもケロリとしていたんだ」

 白い上衣に身を包む薬師は戦々恐々と目録を嘗めるように何度も見直している。しかし一方で感心したようにも顎を撫でている。

「分量はともかくとして、この配合と調合法は……成程、葛根と浄心華(じょうしんげ)の組み合わせときたか。うーむ確かにこれなら大木仙(たいぼくせん)の副作用が相殺されて、更に石赤(せきせき)の相助効果が望める……」

 ブツブツと一人で何やら思索の迷走を始めている。この薬師は仕事熱心で研究熱心なのはいいが、一度のめり込むと外部の音を一切受け付けなくなるという大変面倒臭い性質なので、虎一太はすかさず水を差した。

「できるか?」
「そりゃできますけど……一体何者なんです、そのお客人というのは」

 こんな調合、並の薬師じゃ普通思いつきもしませんよ、と言った後に、彼はあっと口を塞いだ。公にされぬ客人、それも棟梁直々の関係となれば、曰くない人物であるはずがない。その程度のことは、察してあえて問わずにいるのが部下の弁えである。しかし薬師の瞳は半好奇心を露わに障子に映る影を窺っている。
 ややしてから、虎一太は自らも答えに悩むように唸った。

「真偽は知らんが、何でも薬草から毒草まですべて自らの身を以て治験し会得したという話だ」
「どこの神農様ですか」

 薬師は呆れ返った。神農?と小首を傾げてから、ああと虎一太は瞬く。
 神農といえば(から)の古い神の名である。太古の昔、大陸が世になった時に現われ、人間に農業と薬草の知識を伝えたとかの地では信じられている。何でもすべての薬草を自ら舐めて試したという伝説で、最も古く最も権威ある本草の経典『神農本草経』はその神に因んで名づけられた。
 そう言われてみれば似ているが、こちらは実在の人間である。人間離れはしているが。
 そうこうしているうちにやがて辺りに異様な匂いが漂い始めた。堪らず眉を顰めていると、「できましたよ」と室内から碗が差しだされた。

「随分早いな」

 きつい香りにやや身を引くようにしながら、虎一太は意外そうに呟く。

「どれも常備のもので賄える(ほう)でしたから。その神農様は千里眼も持ちあわせてるんですか? まるでうちに揃えてある品を知っているみたいだ」

 感心を通り越して不機嫌そうな薬師の声に、棟梁たる男は何の言葉も返さず、異臭を放つ薬湯を受け取った。






 その湯気とともに異臭を立ち上らせる碗を顔色一つ変えることなく飲み干し、雷蔵は一息ついた。

「よしよし、ちゃんと指定通りだね」

 身を清めたからか、心持ち顔色もすっきりしている。

「戦々恐々としながら調合していたぞ」

 薬師の様子を思い返しながら虎一太が言えば、

「薬に携わる者ならそうだろうね。ぱっと見は無茶な処方だっただろうし」

 雷蔵は薬湯碗を床に置いた。虎一太は釈然としない面持ちで空になった碗を一瞥する。

「要するに分量次第では一応効くということか?」
「物にもよるけど、まあ組み合わせ次第かな」

 物によってはやはり効かぬのか、と虎一太が眉根を寄せる。そうなれば身体を壊した時の薬はどうするのだろう。門外漢には全くの謎である。

「前置きはこんなところで、そろそろ本題といこうか。言い訳はまとまったのかい」

 鋭い切り込みだった。話題を切り替える口調は変わらず軽やかだったが、視線は真っすぐ、胡坐を組む旧い盟友を射抜ている。
 虎一太は一旦目線を床に落とし、一呼吸置いてから、静かに口を開いた。

「『尾張の大うつけ』から依頼があった」

 声色低く告げられた事実に、僅かに雷蔵の表情に刃の閃きにも似た鋭光が走った。さっと眇められた双眸には、顔を上げた虎一太の姿が映っている。

 『尾張の大うつけ』。その渾名の指す者は一人しかいない。
 虎一太は一旦言葉を止め、懐から折りたたまれた料紙を取り出す。差し出されたそれを、雷蔵は受け取り、開いた。

「一月ほど前のことだ。その書状が口合いを通してこの里に送られてきた」

 その科白を片耳で聞きながら、紙面に染み込んだ荒々しい墨字に目を滑らせる。

 ―――山賀の残党で薬叉と呼ばれし忍びの者を捕え、彼の者が持つ京里忍城伝来の〈秘伝の書〉を奪うべし。これが叶わぬ際は殺せ―――

 概要はそんなところだった。
 文の終わりには「信長」の署名と、「麟」を捩った花押、そして「天下布武」の朱印がある。

「本物かい?」
「ああ。口合いによれば、書状を携えていたのは饗談の者だという」

 饗談は信長が使う忍びの称である。

「ふうん」

 雷蔵は再び書状に瞳を落とした。縦幅九寸五分、横幅一尺四寸八分の料紙は、上質な楮紙を使った折紙だ。あくまで私的な書状ということだろう。
 だが書面から感じられるのは、禁制にも似た高圧的な命令調子だった。

「〈秘伝〉を、ね」

 ぽつりと呟き、押し黙る。信長と〈秘伝〉。懐かしくも因縁深い符号だ。縁はまだ切れていなかったということか。
 その様子を窺いつつ、虎一太は続けた。

「どういった経緯かは知らんが、御方はお前が密かに生き延びているという話を耳に入れたらしい。その上で手持ちの饗談ではなく、影梟衆(おれたち)に仕事が回ってきた。恐らく最近俺たちがお前と接触したのを、何らかの形で知られたのだろう」

 確かにここのところ雷蔵は派手に動く機会が多かった。そのうちのどこかに、たまたま信長の子飼いの者が潜んでいたということだろうか。油断も隙もないことである。

「で、君はその話を受けたの?」

 なんとなく“らしくなさ”を感じ、雷蔵は紙を元通り折りたたみながら、改めて確認する。

「当然、最初は断った。堅気相手は対象外だとな。だが」

 書状を受け取り懐に戻す虎一太の表情に、薄らと暗い翳りが差す。

「従わなければ里を潰すと脅してきた」

 隠れ里は、忍びにとって心臓だ。各所へ血を巡らし四肢を動かすための指令部である。しかし忍びの里は、往々にして俗世から隔てられたところにあっても、全く隠されているわけではない。影梟衆もまた例外ではなかった。もちろん防衛設備はそれなりに整ってはいるが、京里忍城のように特殊な術で外敵の侵入を阻んでいる方が珍しいのだ。
 おまけに相手はあの織田信長。戦乱の寵児とも呼べる戦巧者で、その勢いは今や留まるところを知らない。

「最早これは依頼などというものではない。一方的な恐喝だ」

 低く告げる虎一太の面は、苦渋の色に満ちていた。影梟衆の棟梁として、このような依頼は断じて受け入れるべきではない。けれど、強大な勢力を誇った京里忍城さえも為す術がなかった信長相手に、影梟衆が生き延びるための道は一つしか残されていない。
 是と答えるほかなかった。
 情けないことだ、と沈鬱に自責して顔を背ける虎一太を、雷蔵は「無理もない」と宥めた。

「理解できるよ。京里忍城も結局は彼の手に落ちた。そして君には里を守る責務がある。ただ解せないのは、それが分かっている上で何故君が俺を生かして置いているのかってことなんだけど」

 最大の疑問はそれだった。もし依頼に―――命令に従うというのならば、雷蔵を下した時点で殺すなり〈秘伝〉を奪うなりしているべきだ。なのに虎一太は殺すどころか、こうして密かに匿っている。

「義を貫くのが影梟衆の教え―――といいたいところだが、残念ながら綺麗事ばかりではないんだ。信念半分、利害半分と思ってくれ」

 虎一太がやんわりと笑う。諦念気味でもあった。

「構わないよ。むしろそっちの方がこちらとしても安心する」

 利害抜きの好意は、相当の信頼関係がなければ成り立たないものだ。しかしそんな雷蔵の皮肉にも、虎一太の憂色は変わらない。斜め下へ俯く顔は冴えず、心持ち疲れているようでもあった。膝に置いたその手が拳を握る。

「前にも言ったな。〈秘伝〉などというものは俗世に関わらせない方がいい―――これは誓って本心だ。万が一にでもあんな危険な男の手に渡るべきではないし、今は堅気に生きているお前を殺すのも影梟衆の掟に反する」
「けれど、俺を殺さなければ危ういのは君らだろ」
「ああ。だからお前は戦闘中渓谷に落ちて死んだと、そう報告してある」

 雷蔵は軽く瞠目した。よもや勝手に殺されていたとは。
 虎一太は雷蔵の着ていた血染めの袖の一部を破いて、首級代わりに献上していた。死体は断崖絶壁の彼方にあるため確認はできなかったが、あの深さではまず生きていないだろう、と添えて。

「……そんな与太みたいな話、あの男が本気で信じるものかな」

 難しい面持ちの雷蔵に、

「その通りだ」

 と虎一太は慎重に頷き返した。
 虎一太の話に、案の定信長は疑念を露わにした。しかし全く可能性がないとも言い切れない。どちらにせよ死体が確認できぬ以上、真偽を確かめる手立てはない。

「初めから信用されてなどいない。あの男は密かに手の者にこちらの監視を命じていた。何とか撒きはしたが、お前に会ったあの時点では追いつかれるのも時間の問題だった」
「時間がないと言っていたのはそういうわけかい」

 雷蔵は半眼で頬杖をついた。

「全く、そんなに信用ならないなら、そもそも何で君らに依頼したのかねえ」
「饗談では歯が立たぬと思ったか、他に思惑があったか。大方、我らに恭順の意があるか否か試そうとしたこともあるのだろう。伊甲に依頼しようにも大人しく言うことを聞くとも思えぬしな」

 信長は伊賀、甲賀等忍びの衆に対し服従を強要したが、当然ながら彼らは突っぱねた。以来、両者の関係は緊張状態であり、反発意識も強い。しかしかつて忍びたちを震撼させた雷蔵と渡り合うには、相当の腕利きでなければ叶わぬし、何より風貌を見知っていなければならない。そこで影梟衆に白羽の矢が立ったというわけだ。

「それならなおさら、こんな危うい賭けに出て大丈夫なのかい?」
「だからここからが利害の部分だ。正直、唯々諾々と従ったところで、果たして俺たちの進退の安寧が保障されると思うか。お前を殺そうと殺すまいと、危険であることは変わらない。ならば考えを変えればいい。もしも俺たちの手の内に〈秘伝〉の継承者が匿われている可能性があるとすれば?」
「……なるほどね。信長は〈秘伝(おれ)〉を警戒して、そう迂闊に手出しできなくなる」
「御名答だ」

 確かに信念半分、利害半分である。

「道理で。不知火を外に出したのも実は確信犯?」
「任務自体は偶然だが、全く考えがなかったと言えば嘘になる」

 言葉尻に何ともいえない含み笑いを聞きとり、雷蔵は「だろうね」と得心顔になった。

「けれど忘れちゃいけないよ。あの男はそれでも京里忍城を襲ったんだ」

 〈秘伝〉の存在を承知の上で、攻め込んだ。
 運が悪かったのは、当時、京里忍城は最も無防備な状態にあったことだ。隠洽はすでに〈秘伝〉のほとんどを雷蔵に伝授して弱っていたし、雷蔵もまた、まだ完全に己の物にしきれていない段階だった。そこへ予期せぬ奇襲。里には非戦闘員も多くおり、たちまちに浮足立ち、混乱の嵐に陥った。そんな中、洽から〈秘伝〉を守って逃げるよう命じられた雷蔵は、殺戮される仲間に背を向けて一人里を脱出したのだ。

「分かってはいる」

 雷蔵の指摘に虎一太は重々しく首肯する。
 彼とて、そのことに思い至らなかったわけではない。

「それでも、少なからず躊躇は生ずるだろう」

 虎一太はそこに賭けていた。多少なりとも抑止力に、あるいはせめて時間稼ぎになれば、と。
 「少なからずはね」雷蔵も、言葉を選びながらではあったが一応賛同した。京里忍城の時とは状況が違う。雷蔵はもう〈秘伝〉を自在に操れるし、その気になれば軍勢といえど敵ではない。尤もそれは心身が万全の状態であることが前提だが。
 それに、虎一太は最悪の事態も想定して備えを進めている。たとえ読みは外れても、心構えがあるのとないのでは、実際に奇襲に遭った時の落ち着きが違う。京里忍城はこれまで絶対に破られたことのない結界に安心し、すっかり警戒を怠っていた。だからあっけなく滅んだ。

「信長は危険な男だからな。目をつけられた時点で腹を括らねばならん。でなければこの危難から逃れることはできぬ」

 虎一太の取った道は、非常に危うい均衡の上に成り立っている。確かに、影梟衆が表向きとはいえ依頼を果たし、落ち度がなければ、信長とて外聞上すぐに制裁を加えることはできない。いくら暴虐非道で知られていようと、頂点に上り詰めんとしている今は、理由なくみだりに戦を仕掛けられない。それが戦国の世のしきたりだった。
 とはいえ、たとえ真正直に任務を遂行して信長に〈秘伝〉を献上したとしても、彼の者ならばいずれ建前を捏造して影梟衆を潰しにくるに違いない。
 その点、もしも裏で雷蔵が生きて匿われている可能性があるとすれば、信長も闇雲に襲いかかることはできず、しばらくは様子見で手を打ってこないはずだ。ただし、ここで雷蔵の生存、つまり影梟衆の裏切りが表沙汰になれば、迷わず責を追及して兵を出すだろう。この微妙な塩梅が難しいのだ。  いずれにしろあの男は必ず殲滅に来る。ならば少しでも時間の稼げる方法を選択せねばならない。そして何より、影梟衆の理念である「仁義に悖らず」を穢してはならない。これが虎一太に許されるぎりぎりの策だった。

「播磨は地理的にも京や美濃からもそう離れてはいない。いずれ里を移動せねばならないが、すべての里人をすぐに避難させるには時がいる」
「つまり信長の魔の手から逃げ伸びるために、俺を盾にし続けるってことだろ。それも、あくまで『表向き』は俺が生きているのを伏せたままで」
「そういうことだ」
「まあいいけど、それじゃあ俺はこの先ずっとその茶番に付き合わされるわけ?」

 両手を後ろに付き、勘弁してほしいと天を仰ぐ。

「まさか。目を離した隙に勝手に動き回られては困るから暫時この座敷牢に運び込んだだけで、いずれほとぼりが冷めた頃には解放するつもりだ」
「それってどれぐらい? それまでこんなところに閉じ込める気かい」
「悪いんだが、今この邸から外に出られると色々と困る。お前が確実に生きていることが信長に知られてはまずいんだ。分かっているだろう? 薬叉(おまえ)の顔は部分的に里の者に知れている」

 京里忍城時代の共同任務だけではない。雷蔵はこの里に来たこともあった。十年ほど前のことだが、記憶している者はいるだろう。

「その代わりこの邸の中ならば自由にしていてもらって構わない」
「ここって、棟梁殿の住まいかい?」
「いや。藤浮の別邸で、俺が幼少時に過ごした家だ。だが今は住む人もなく俺が所有しているだけの空き家だから、里人は寄りつかぬ。こちらも出来る限り不自由せぬよう身の回りのことはするから、しばらく辛抱してくれ。お前とて、死んだことになれば今後好都合だろう?」
「否定はしないけど、何だか取ってつけたような押しつけがましい理由だね」
「その辺りは目を瞑ってくれ」

 軽く睨めつける雷蔵に、虎一太は朗笑してようやく腰を上げた。

「それにしても、やはり少々悪いことをしたな」

 雷蔵は頬杖をつきながら、影になっている長身を見上げる。

「何が?」
「事情が事情だったとはいえ、相方殿を放って無理矢理連れて来てしまったことだ」
「何を今更」
「全くその通りなんだが。それでも心配だろう」
―――まあ、大丈夫だよ。きっと今頃こっちに向かっているころだから」
「随分はっきり言い切る。勘か?」
「かぎりなく確信に近い勘だね」

 何と言うことでもないとばかりに、雷蔵はそのまま目を明後日の方へ向けた。
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