雷蔵は膝を上げ、不知火に知らされた場所へ爪先を向ける。城の内部の地図はあらかた脳に入っている。
 駆け抜けながら、右手側の襖紙を次々と刃で一文字に斬り裂いていく。任務終了の合図だ。人伝の伝令が間に合わずとも、これを目にすれば仲間たちは自ずと退却を悟る。
 やがて奥まった一角に至った時、煙の向こうに、先を行く複数の影を捉えた。中でも長身のものが纏う独特の忍び装束と気配は見間違いようもない。
 気配に気づいた虎一太が振り返り、僅かに瞠目する。

「薬叉、何故ここに?」

 言葉少なに問うのは迅速さを尊ぶ忍びの習性だ。この区画は雷蔵や彼の率いる隊の担当ではない。言下の質問の意図を正確に捉えつつ、雷蔵はまず残っている顔ぶれを確認する。虎一太が率いるのは十三人中五人のはずだ。しかし今は彼を入れて三人。

「さっき不知火に会った。乾組が罠にはまったらしいと聞いてね」

 虎一太は物思うような表情をしたが、すぐさま頷き、再び廊下を駆け始める。二人は並走しながら会話を続けた。

「それで不知火は」
「彼にはとりあえず家譜を預けて先に出てもらったよ」

 襖紙を斬りながらの科白に、虎一太は一瞥を向けた。

「見つけたのか」
「たまたま運良くね」

 下の階に繋がる階を見つけるや、段を無視して一跳びで着地する。火煙は上に立ち上ることを考慮し、下の階に最初に火をつけただけあって、すでに大分炎が回っていた。眩しいほどの光と熱気が天井を、柱を嘗めている。さすがに敵もこの時点になると時遅しを悟ったか、すっかり姿を消していた。
 火の粉を避けるようにして崩れかかる木材をかいくぐる。時が最早残されていないことを、虎一太も悟った。あまり長居をすれば、彼らも脱出の機を失う。
 煙を吸わぬよう無言で駆け抜け、辿りついたところには、入口を籠目の鉄格子に遮られた室があった。煙の充満する内側には見知った顔ぶれが苦しげに蹲っている。

「朱鷺次!」

 短く刈り揃えた頭が、虎一太の声に反応して持ち上がる。煤けた精悍な面が虎一太に向けられ、「棟梁」と掠れた声を発した。

「面目、ねぇ……」
「しゃべるな!」

 虎一太は牢に駆け寄った。しかし鉄製の格子は熱気に焙られ、すでにまともに触れることができなくなっていた。牢には刃物に拠る傷が幾重にも刻まれている。なんとか中から斬り抜けようとしたのだろう。
 牢は堅固で頑丈だった。籠目状になっているだけでなく、分厚さも硬さも重さも半端なく、床にしっかり食い込んでいる。どれだけ怪力でもこの重さとこの熱さで持ち上げることは叶わぬだろうし、どれだけの手錬でも両断することは不可能だと、一目して明らかだった。

「与市さん」

 虎一太の隣で、雷蔵がすっと膝をついて中に呼びかけた。

「……雷蔵か」

 静かに応じたのは、壮年の上忍だった。煙に咳き込みながら、のっそりと格子に近寄る。

「お前が来たのは不幸中の幸いってやつかね」

 太く笑いながら、沈着な瞳に鋭い眼光を宿す。

「お前、アレを携えているか」
「ええ。でも量はありません」
「構わん。使えるだけ使え」

 雷蔵は言われるままに懐から小さな水差しのような入れ物を取り出した。口を閉じている蓋を取り、おもむろに格子の上に垂らす。と、触れた所の鉄が見る間にドロリと溶けていく。虎一太は驚きながらその光景を見ていた。
 やがてすべてを使いきったころには、格子の中央に、大きいとも小さいともつかぬ穴が開いていた。
 それでも人ひとりが通るには遥かに足りない。猫ほどの大きさだった。しかし与市は「上出来だ」と口角を上げた。

「こいつ一本なら十分通る」

 そう言って、穴から差し出してきたのは刀の柄。
 雷蔵はそれを無言で受け取った。虎一太もやはり言葉なくそれを見つめていた。それは宝刀だった。

「確かに」

 宝刀を諸手で戴きながら、雷蔵は与市に視線を当てた。

「……最期に何か残すことは」

 この科白に動揺したのは虎一太だった。

「まだ諦めるのは早い。何か方法があるかもしれない」

 虎一太が咄嗟にそう反駁する。与市の目が―――覚悟をした者の目が、その姿を映した。

「お若いな、影梟衆の。だが俺たちゃ忍びだ。忍びなら今何が一番大事なのか、言わずとも分かるだろう」
「……」
「ったくなぁ、らしくもなくドジ踏んじまったよ」

 与市は皮肉交じりの表情で、己の不格好を揶揄した。その後ろで、堪えるような呻き声が上がる。
 非情の忍びであっても、人間だ。その生を歩むほかに道がなかっただけで、喜怒哀楽を持つ人間には違いないのだった。
 与市が小さな折り紙を指にはさみ、穴から外へ差し出す。

「形見にこれを。於こう……妻に、すまんが先へ行くと伝えてくれ」

 「承知」と、雷蔵は与市にも確認できるよう、それをしっかりと掌中に握った。
 与市を筆頭として、死を悟った京里忍城の忍びたちが、次々に辞世の句や里人への伝言など、最期の託を牢の外へ托す。

「棟梁」

 虎一太はハッと、開いた穴から朱鷺次を見やる。
 朱鷺次は眼球を赤く染めながら、しかし確乎たる表情で、口を開いた。

「こんなことになっちまって面目ない」
「朱鷺次」

 呆然とする虎一太の前で頭を下げ、是を聞かずに朱鷺次は続けた。

「悪いが、一足先に逝ってるぜ。不知火の野郎にも伝えてくれ。しっかり一人前になれってな」

 虎一太は返す言葉を見失っていた。ただ黙然と、朱鷺次を凝視することしかできなかった。
 仲間を、部下を失うことはこれまでにあった。しかしこんな形で、こんな風に見捨て、見殺しにするような形で切り捨てたことはなかった。それでも忍びたる己は言う。手立てはない、己の最優先にするべきことをせよ、それが本分だ、と。

「棟梁殿」

 気づけば刀を手にした雷蔵が側に立ち、袖を引いていた。

「時間がない」

 だが虎一太は棒立ちになったまま、一向にその場を動かない。否、動けなかった。そんな姿に、朱鷺次が堪えきれず、怒鳴った。

「こんのうつけが! 何呆けっと突っ立ってやがる、さっさと行け!!」
「朱鷺次……俺は」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ。てめえは俺たち影梟衆のアタマなんだ。誇り高き義忍を束ねる棟梁なんだ。こんなところで死なせるわけにゃいかねえんだよ!」

 顔を真っ赤にしながら、朱鷺次は手を火傷するのも構わず牢を掴み全霊で吼えた。虎一太の瞳が揺れる。

「行けよ、旦那。あんたも一端の頭ァ張ってく気なら、“こんな”ことでいちいち心を揺らしちゃいけねぇ。部下の思い、無駄にするもんじゃねえよ」

 ―――選択だけをとれば、お前は落第とするところだった―――
 声がする。誰にも聞えない声。遠い、過去からの訓戒。
 与市の一言で、虎一太はついに何かを吹っ切るように目を瞑り、半身を返した。

「また……いずれ会おう」
「ああ、冥府でな」

 それが、虎一太の、幼馴染であり義兄弟であった側近との最後の会話。さらばとは言わず、再会を約束するのが、せめてもの意地と、仲間への敬意だった。
 断腸の思いでその場を離れる間、背中に注がれる視線を、虎一太はずっと感じていた。




 差し迫る気配に、草むらに身を顰めていた一同は一斉に身構えた。だが見張りの者が鳥に模した忍び声を上げると、すぐさま警戒はとかれた。

「御頭!」

 闇を割って現われた人物に、草叢の中から逸早く飛び出したのは、不知火だった。安堵と歓喜の表情で虎一太たちを迎える。
 だがそこに並ぶ姿を見回し、その笑顔が強張る。

「御頭、朱鷺兄は?」
「……」

 不審に目を揺らす不知火を前に、虎一太は沈黙する。その面持ちは翳りを宿し、曇っていた。
 その様子に、不知火は頬を上げる。笑い飛ばそうとして、失敗したような、歪んだ唇の形だった。

「なんで黙ってんだよ。朱鷺兄はどうしたんだ。何とか言ってくれよ、御頭!」
「乾組は棄ててきた」

 凛然と響いた声音は、まるで真冬の切りつける風のようだった。虎一太に喰ってかかっていた不知火の動きが凍りつく。

「何……だって?」

 ぎこちない所作で、その鋭い瞳がゆっくりと横に向けられる。
 雷蔵はその目を真っ向から見返し、もう一度繰り返した。

「彼らの救出は不可能だった。だから捨て置いた」
「捨て―――

 きつく眉間に眉を寄せ、眦が吊りあがる。その目線が雷蔵の手に持つ刀に当てられた時、瞳の奥に炎が散ったようだった。

「ならなんでその刀がここにある。牢の中にあったはずのそれが」
「刀一つなら取り出す方法があったからだよ。けれど五人を救出する術はなかったし、模索する時間もなかった。宝刀と家譜を手に入れた以上、長居の用はない。だから退却するよう俺が言った」
「薬叉」

 虎一太が咎め立てするように名を呼ぶ。しかし、何ごとか言い差す彼を、雷蔵は一瞥して制した。
 一方、不知火は最早何も聞こえておらず、そして何も見えていなかった。

「てめえが決定したのか」

 腹の底から響く低い声音。

「そうだよ。俺は総括(まとめ)の役だからね」
「てめえの仲間だっていただろうが」
「優先すべきは任務だ。そんな当たり前のことも分からないのかい」

 雷蔵は冷厳に、そして明瞭に返した。相変わらず透き通るような眼差しは、無機質でどんな感情を秘めているかも読めない。
 不知火の拳が細かく震えていた。甲には骨と血管が隆起し、掌には血が滲んだ。ぎりぎりと音が聞こえてきそうなほどに歯を噛み締め、激しい憎悪を宿す双眸で雷蔵を睨みつけていた。そんな怒りと憎しみの風を黙殺し、雷蔵は不知火の横を通り過ぎて他の一同を眺めやった。

「そして任務はまだ終了していない。品を依頼主に届けるまでが仕事だ。さあ行くよ」

 雷蔵の一声に、緊張感を漂わせながら見守っていた忍びたちが我に返り、瞬時に態勢を整える。

「待てよ!」

 俯いていた不知火の口から怒号が上がった。
 と同時に、堅く握りしめた拳が己よりも低い位置にある頭部を狙う。殺気の漲った、本気の一撃だった。
 だが渾身の拳撃は、悠々と躱されて空を切った。それどころか、瞠目する不知火の腹部に、肘鉄がめり込む。胃の中身が逆流するのを不知火は感じた。酸味が鼻腔の奥に競り上がる。がはっ、と喉の奥から空気を吐いた。更に上から重い衝撃が左肩を激打する。堪らず地に膝を付かされた。

「何を勘違いしている。そんな甘ったれた根性で忍びを名乗る気かい」
「っ!」
「これ以上任務の邪魔をするなら、たとえ盟友とはいえ容赦はしないよ」

 少年特有の涼しい声音と、項に当てられた冷たい感触から立ち上る冷気に、不知火はゾクリと身震いした。身体が竦み、全身の毛が立ち、痛みを堪える呼吸さえ忘れて、草を見つめながらただただ慄く。冷や汗がぶわりと浮かんだ。殺される。そう思った。

「そこまでにしてやってくれ」

 緊張の間に待ったをかけたのは、いつの間にか二人の横に立った虎一太であった。

「すまない薬叉。この未熟者の非礼はすべて俺の責任だ。どうか今回ばかりはこの顔に免じて許してもらえないか」
「御頭! 何でそんな奴に頭を下げ―――
「お前は黙っていろ」
「っ!」

 思わぬ強い諌めを受けて、不知火は唇を噛んだ。
 一方雷蔵はあっさり忍び刀を引き、軽く嘆息する。

「いいよ。俺も面倒事は嫌だし、こんな所で争っている場合でもない。処遇は君に任せる」

 「礼を言う」と丁寧に目を伏せる虎一太に背を向け、刀を鞘に納めながら雷蔵は再び皆に号令した。

「出発だ。夜明け前までには依頼主の元に届けなければいけない。急ぐよ」

 移動を始める一行の殿につきながら、虎一太は斜め後ろに従いむっつりと黙りこむ不知火を窺った。腹を押さえ苦しげに眉間を皺寄せている。

「大丈夫か」

 あれだけ強かにやられたのだ。相当痛むだろうに、弱音一つ言わないのは意地かもしれなかった。

「……御頭はなんであんな野郎の肩を持つんです」

 囁きでの会話だった。不知火は目を合わせず、ムスッとぶっきら棒に問う。遥か先頭にいるだろう姿を睨み据えて殺気立っている。そこには、任務前の慕うような態度は一切なかった。
 虎一太は静かに言い聞かせた。

「不知火。下忍上がりのお前と違って、薬叉は上忍だ。経験も腕も何もかも、お前とは遥かに違う」
「だからあいつが正しいって言うんですか」
「何が正しく何が正しくないかなど、誰にも決められるものではない。ただ薬叉は、忍びというものをよく心得ているんだ。―――あるいは俺よりも」

 不知火が怪訝そうに目を向けて来た。

「御頭よりも?」
「……」

 言下の更問を、虎一太は聞かなかったふりをする。
 ふとその虎一太の左腕に、傷があるのに気づいて、不知火は瞬いた。

「御頭、怪我を」

 記憶を辿る。確か城内で別れた時にはなかったはずだ。

「ああ、これは……さっき敵に追われてな」

 虎一太は微かに笑み、さりげなく左腕を抑えた。
 どこか薄ぼんやりした鈍い応答だったが、それは虎一太の常でもあったので、不知火は特に疑問も思わず、それよりも黒く渦巻く思いに心を占められ、昏い眼差しを前に向け続けた。




 ふつりと目を開けた向こうに、月が浮かんでいた。冴え冴えと白く輝く月。
 障子に身を預けて、いつの間にか眠っていたらしい。随分懐かしい夢を見たものだ、と虎一太は仄かな自嘲を口許に浮かべた。
 時の移ろいとは本当に早い。あれから十年以上も経った。変わらぬものもあれば変わったものもある。
 様々な思いを置いてけぼりにして、年月ばかり淡々と過ぎて行く。匂いも音もなく。
 合理的なまでの無情さと、儚い虚しさは、まるで忍びの業そのもののように思えた。
 感傷的な思いに浸りながら、静かに障子戸を閉めた。
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