トイ カワ ホプニペ コモンネ
モム カワ ホプニペ モコンネ
アヨロ タ カムイ シンタ
ラン ワ クス アンペ モコンナ
アフ ワ アフ
―――アイヌの子守唄



「薬叉」

 背後からかかった抑えた声音に、雷蔵はゆるやかな動作で振り返った。そこには流した涙の痕跡は欠片も見当たらず、何事もなかったかのような、いつもの顔があるのみだった。
 さざめく人垣を掻きわけ、一人の男が大股で息を切らしながら歩み出る。
 不知火だった。

「……御頭は」

 その短い問いを、苦痛を堪える暗い表情で、喉の奥から押し出す。
 雷蔵は首だけで里の方を見やり、瞼を落とした。

「道は塞いだよ」

 その言葉の意味するところは。
 不知火の面が強張り、大きな体躯が微かに慄いた。
 今ここに逃げ延びていなければ、居場所は一つしかない。

「貴様」

 しかし怒号を発したのは、不知火ではなかった。
 見つめる群衆の中から、一人の壮年の男が踊り出る。全身を煤と血と汗にまみれさせた男の顔面は、怒りに染まりなおどす黒かった。

「何者か知らねえが、よもや俺たちの御頭を見殺しにしたというのか!」

   「何ということを」「ただじゃおかねえ」憤りが集う者達に瞬く間に伝播する。
 おかしなものだ、と傍らで眺める美吉は思った。そういう彼らとて、棟梁が残っているというのに先に逃げたのではないのか。雷蔵と美吉が逃げる時には、すでに地下通路の周辺に影梟衆の者はいなかった。通路の入り口が邸の下敷きになるのも時間の問題であると悟って、誘導していた者たちも見切りをつけて避難したのだろうに。その己らを棚上げにして雷蔵を責めるのは筋違いなような気がした。それとも、知りながら先に逃げた後ろめたさを誤魔化したいがための無責任な責任転嫁なのか。
 それでも共鳴し相乗して膨れ上がった殺気が肌を貫く。この凄絶さは人数のせいばかりでない。彼らがいかに里を深く愛し、どれほど棟梁を心から崇敬しているかを、否応なく見せつけた。
 それらに対して、雷蔵は関心のない横顔を見せるだけだった。凪いだ面を殺伐とした風が撫でる。まさに一触即発の空気だった。

「やめろ!」

 今にも爆ぜかねぬ緊張を断ったのは、意外にも不知火の一喝だった。

「御頭たちを置いて逃げたのは俺たちだって同罪じゃねえのか」

 認めたくない、心を抉る一言を、はっきりと指摘した。
 誰もが意表を突かれ、水を打ったようにシンと静まる。
 成り行きを静観していた美吉もまた「おや」と軽く瞠目して、集団を押し留めた男を眺めやった。
 不知火は雷蔵から視線を逸らさず、唇を開いた。

「御頭が道を潰せと言ったんだな」

 一句ずつ切るようにゆっくりと、確認する。
 雷蔵は双眸を伏せた。

―――ああ」

 空気が重く凍りつく。里は織田軍に包囲され、後続部隊も投入されている。彼らの棟梁がいくら鬼神のごとく強かろうとも、多勢に無勢であり、里に残った者の命運は一縷の希望さえ挟む余地もなく確定していた。
 不知火は息を吸い、一拍の後、「畜生」と小さく吐き捨て固く瞳を閉じた。きつく寄せられた眉間に苦渋の影が深く落ちる。その唇が小さく動いた。御頭、となぞったようにも見えた。
 何かを必死に堪えるように握った拳は震え、赤い雫が滴り落ちる。
 今にも泣くのではないかと、雷蔵はぼんやり思っていたが、意に反して不知火は肩を大きく浮かせ、詰めていた息をゆるゆると吐いた。
 そこで以前虎一太が言っていたことを思い出す。『彼の死に涙するは恥辱と知れ』。それは彼らの血に魂に強く刻み込まれた、呪いにも似た禁戒なのだと。
不知火は毅然と顎を上げた。そこには予想していたような、朱鷺次の時と同じ憎悪や怒りの色はなかった。
 代わりに背後から呻きが上がった。周囲の視線がそこを向き、剣呑と尖った空気が声なき悲しみに彩られる。
 悲嘆の元を辿れば、他の皆と同様、身体中を黒く汚し髪を乱しながら、地に蹲る千之助の姿があった。

「父上、母上……!」

 込み上げるものに喉を詰まらせる少年に、周りの人々も堪え切れず顔を背け、あるいは眼を閉じる。けれども誰一人、泣き崩れる者はいなかった。
 一時天を仰いだ不知火が、ふうと呼吸を整えて踵を返す。側の者達が、千之助に歩み寄る不知火を前に道を開けた。
 傍らに膝つき、不知火は嗚咽を堪えて震える肩に、片手で静かに触れた。

「若」

 いつになく静かな呼びかけを受け、千之助の面が上がる。慟哭を表に出さぬようにか、必死に歯を食い縛って歪む表情は痛ましいほどだった。

「不知火……父上が、叔父上までもがいなくなってしまった! 一体どうすればいい。残された僕たちはどうすれば―――っ」
「若!」

 抑えながらも強い語気に、ビクリと千之助の両肩が震える。
 不知火は、置いた手にぐっと力を込めた。

「しっかりしろ。いいか、影梟衆の忍びはたとえ親兄弟が死のうと、朋友恋人が殺されようと、あるいは伴侶や我が子が命を落とそうとも、絶対に嘆いたりしちゃあいけねェ。どれだけ悲しかろうと、心の中で哭いて、面は平然としてなけりゃいけねえんだ。特に、上に立って衆を率いる者ならば」 「っ、」

 引きつけを起こすように千之助は咽喉を鳴らし、唖然と不知火を見上げ続けている。
 不知火は一旦瞑目し、それから立ちあがった。再び雷蔵を振りかえる。

「薬叉。俺たち影梟衆では新たな棟梁を正式に定める時、その場に会する最高位の忍びが承認し、『外』の上忍がこれを言祝ぐのが習わしだ」

 何を言い出すのかと、誰もが訝った。確かに虎一太が棟梁に就任した時、風早の里外で執り行った式には京里忍城の隠洽を招き祝辞をもらった。これは影梟衆が内部で完結する組織でなく、広く外部に存在を認めてもらうための決まり事でもあったが、いつしか権威と箔を与えられる行為として重要視されるようになっていた。
 それを知ってはいるが、雷蔵もまた不知火の意図がつかめず疑問気に続きを待つ。

「……今この中で、最も格上でありかつ他衆なのは、“名持ち”の上忍のてめえになる」

 「不知火!」と、一同の中から咎め立ての声が上がる。群衆が互いに顔を見合わせてどよめき、困惑と不安を綯い交ぜにした混乱が広がった。今このような時にと、嫌悪にも近い戸惑いの色があった。大体にして言祝ぎならともかく、承認まで余所の忍びに委任するなど前例がない。しかもほとんどの者が、いま初めて雷蔵の存在を認知したのである。
 懐疑と非難の視線を一身に浴びながらも、しかし傲然と佇む不知火に意思を翻す様子はなかった。

「不知火、貴様そのような重大なこと、勝手に……!」
「こんな時だからこそ、今すぐに新しいまとめ役が必要なんだ」
「だからといって、こんな素性知れぬ者に言祝ぎのみならず神聖な承認の儀まで委ねるとはどういうつもりだ。ふざけるのも大概にしろ」
「ふざけてなんかいねぇ。俺は至って本気だぜ。こいつはかの京里忍城に名高かった薬叉の雷蔵だ。不足はないだろ」
「その男がかの薬叉であるという証は何だ!」

 喰ってかからんと詰め寄った男の肩越しに、不意に挙手する者があった。

「僭越ながら、それは私も保証します」

 おずおずと発言したのは薬師の蝉太夫だ。相貌は疲労の色濃いが、眼光はしっかりとしている。一斉に向けられた幾対もの強烈な眼差しに一瞬怯みかけるも、頬についた煤を緊張ごと拭うように袖でしきりに擦り、ぐっと顎を上げる。

「あんな常識外れの薬術、そこら辺の忍びに成し得るものでは到底ありません。それに御頭はその人を高く買っていらした」

 そう告げる最中に、雷蔵と目が合った蝉太夫は気まずげに慌てて視線を逸らした。勘違いをしていたことに恥じ入っているのかもしれぬし、薬師として伝説的でもある本人を前に恐れ入っているのかもしれなかった。

「確かに、俺にも見覚えがある」

 十年前の往来で雷蔵の顔を憶えていた者たちも遠慮がちに蝉太夫に続いた。
 予想外の流れに、怒り心頭で食ってかかっていた男もついに口を籠らせた。
 思わぬ後援に勢いを得た不知火は再度の反駁が出る前に雷蔵に向き直る。

「我ら影梟衆の新棟梁はここにいる藤浮が嫡男、千之助だ。承認と、元服名を」

 本来の手順も作法もすべてを飛ばした承認の儀。だが虎一太は初めから千之助を後継者に目していた。千之助はたった一人の候補者として、すでに選定の課題を乗り越え、虎一太から一子相伝の奥義を伝授されている途中でもあった。異論を唱える者などいようはずもなく、またそれを許さぬ不知火の気迫を感じ取ってか、各々固唾を飲んで真摯に見守っている。
 当の千之助だけが、己のことだというのにぽかんと放心して、やりとりを見つめている。
 不知火の眼差しは揺らがず、睨めつけるがごとく雷蔵を射ている。強い覚悟を秘めた瞳だった。
 雷蔵もまたその視線から目を背けず、真っ直ぐに返した。

「俺はすでに忍びの世から身を退いている」
「それでも」

 それでも、と不知火は重く繰り返した。どこか苦しげに、懸命な響きを含んで。

「てめえが一番適任なんだ。御頭が、唯一対等と認めたてめえだけが」

 いつの間にか周りは静粛な空気に包まれていた。
 唯一の部外である美吉だけがあくまで傍観者に徹し、邪魔をせぬよう離れたところから見つめている。
 応えまでの沈黙は、永遠に続くかと思えるほどに感じられた。実際のところはきっと短くも長くもないものだっただろう。
 雷蔵は小さく溜息をついた。
 両膝をついたままの千之助の前に立ち、そして跪く。目線を近くにし、静かに問いかけた。

「千之助殿。君に遺志を受ける覚悟はあるかい」

 千之助はすぐには答えなかった。代わりにぐっと唇を結び、ごしごしと腕で乱暴に顔を拭う。そして徐に袂から何かを取り出すと、雷蔵の前に差し出した。
 まだ大人になりきらぬ手の平に乗っていたのは、見覚えのある器だった。

「最後に叔父から預かったものです。貴方に返します」

 二つの小さな薬入れ。
 龍二郎は、己も戦おうとした千之助を押し留め、代わりに里の未来を託した。癒えぬ傷を抱え、まだ慣れぬ隻眼にもかかわらず、身一つで大勢の敵兵の前に立ち塞がった。里に辿り着いた千之助は、男たちに身体を抱えられるようにして、無理矢理抜け道へと誘われた。炎に、敵に、毅然と立ち向かう叔父の最後の姿を、彼は閉じた眼裏に焼き付ける。父も叔父も、誰よりも影梟衆を第一に想い命を全うする強い男だった。

「今まで多くの者が里のために殉じました。私が生き延びたことにもしも意味があるのなら。託された意志を引き継ぐ責任と資格があるというのなら」

 千之助は首を垂れた。

「すべてを賭して、里にこの身を捧げたく存じます」

 そこには、元服もまだ済まぬ少年の姿はない。
 心を決めた、一人の人間の威風だった。

「御父上は確か七代目だったね」

 小さく呟き、雷蔵は面を伏せる千之助の頭頂部に、そっと掌を掲げた。

「……京里忍城の薬叉の名において、(ここ)に藤浮千之助を影梟衆が八代目棟梁と認める。この場に立ち会ったすべての者が見届け人だ。以後は千鶴と名を改め、初志を忘れず、信念を失わず、先達の教えをその身に刻み、己が忍びたる道を貫かれんことを」
―――謹んで、拝受いたします」

 千之助―――否、千鶴は凛と透る声音で応えた。
 不知火が片腕を胸に当てて片膝を土につける。恭順を示す最敬礼だった。
 その瞬間、波が広がるように、音を立てて全員が跪拝した。
 新たな棟梁の誕生だった。
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