里一大きい棟梁の邸は、まだ屋根が落ちることなく姿を保っていた。
 しかし内部は炎に焙られて、充満した煙で全く見えない。

「雲居。いるか、雲居!」

 虎一太は首に巻いた布を口許まで上げながら、迷わず中に踏み込む。あちらこちらを巡り、声を張り上げた。
 人の気配がしない。やはり逃げたのか。
 そう思い、一旦外に出ようとした時だった。

「あなた……」

 柱が爆ぜる音の合間に、かすかな人声を鼓膜が拾い上げた。
 ハッと視線を巡らせ、出所を探る。虎一太の視界の端に影が掠めた。柱の陰から煙を掻きわけて現われた雲居に、虎一太はホッと安堵しながらも緊張した複雑な心境で、駆け寄った。

「何故逃げなかった」
「わ、私は」

 ごほごほと咳き込む雲居の肩を抱き寄せるようにして、縁側に出る。外気によって少し呼吸が楽になった。

「私は棟梁の妻ですもの、己一人、先に逃げるなど」

 必死に頤を上げ、震える小声で言い募る。瞳は、煙のためかその他の原因か、赤く潤んでいた。しかし小さな白面は、何かを怯えるように青ざめている。
 虎一太は目を伏せ、嘆息をした。

「分かった、すまなかったな……無事で良かった」
「あなた」

 見上げてくる雲居が嬉しげに涙ぐむのを、苦笑して見やる。

「さあ行くぞ。あとは俺とお前だけだ」
「他の者達は?」
「安心しろ、皆もう避難した」

 奇妙な間があった。
 引いていた腕がにわかに止まり、虎一太は手を離して「雲居?」と振り見た。
 立ち止まって俯いた雲居がぽつりと呟く。

「あなたさまは、何故こちらに?」
「途中に出会った者に聞いたのだ。お前がもしやまだ邸にいるのではないかと。やはり戻って来て正解だった」

 さあ早く、と足を踏み出した虎一太の背に、どんっと何かが軽くぶつかった。

―――

 鳩尾から鋭い切っ先が覗いている。銀に煌めく、鋼。

「雲……」

 無機質で冷たい感触が、ずるりと抜ける。抜けた所を抑えると、ぬるりとした感触があった。鮮血に手が染まる。
 膝をつき、傷口を押さえながら、虎一太は身を返した。
 真っ赤に濡れた刃を両手に握った雲居が、呆然としたように佇んでいる。目を大きく見張り、蒼褪めた顔で。

「私は、こんな時でも誰より後回しなのね」

 張りついた表情。動かぬ瞳はどろりと漆黒に濁って、涙を零す。
 その刹那、虎一太はすべてを悟った。
 「お前なのか」と動かした唇は声にならず、代わりに血を吐き出した。
 どくどくと、脈打ちながら溢れ落ちる血。息が上がり喉が鳴った。

「だって、私、私は……あなたのためだったのよ、あなたが、喜ぶと思って。喜んで、褒めて欲しくて」

 『私を見て欲しくて』。
 支離滅裂な言葉の羅列は、壊れてしまった心の叫び。

「雲居、お前は」
「あなた……あぁああ―――!!」

 雲居の手から、ガランと高音を立てて刀が落ちる。虎一太を見下ろし、血にべったりと濡れた己の両手を見やり、頭を掻き毟って悲鳴を上げた。絹を引き裂くような慟哭。剥いた黒瞳はしきりに揺れ、焦点が合わない。
 泣き叫び悶える雲居の肩が、燻されて脆くなった柱に当たる。その頭上で、みしりと不穏な音がした。グラリと雲居の上に影がかかる。
 虎一太は咄嗟に身を躍らせ、腕を伸ばす。
 掴んだ肩を抱え懐に庇う。背中を重量のあるものが強かに叩きつけ、脊髄から脳天に衝撃が突き抜ける。骨を響かせる痛みにぐうと呻きが漏れた。辺りを埋め尽くす煙臭さに大きく咳き込む。

「雲居、怪我は……」

 腕の中を案じ、眼球を刺す痛みを堪えて瞼をこじ開けた虎一太は、小さく息を飲んだ。
 雲居は事切れていた。折れて鋭利になった木片の断面が、柔らかな胸の膨らみから覗いている。
 両目は開き、唇は幸せそうな笑みを刻んだまま。

 あなたは、私のもの―――永遠に。

「……」

 虎一太は緩く息を吐いた。首をゆっくり巡らす。奇跡的に瓦礫には押しつぶされずにすんだ。しかし四肢は動かなかった。背の上には屋根を支えていた太梁が圧し掛かり、右足は膝下から感覚がなかった。確認はできないが、潰れたのかもしれなかった。
 視界が揺れ、身体から力が抜けていく。ごぼりと喉の奥から血が溢れ、唇の端から顎へ伝った。刺し傷から、血が流れて止まらない。
 忍びの刀、特に身体能力に劣るくの一の刃には毒が塗ってあることが多い。
 助からないことは虎一太自身が一番よく知っていた。
 激痛と呼吸困難の中、ふと可笑しくなった。

(よもや、こうして死ぬことになるとはな)

 まさか敵ではなく、最も側にあった身内の手でこの時を迎えることになろうとは。
 腕の中の、まだ温かさを残す柔らかい身体を見下ろす。微笑みを浮かべる死に顔は、狂気に苦しみ、泣いているようでもあった。そっと瞼を閉じてやる。
 雲居の気持ちに気づいてやれなかった。これほどにまで思いつめていたなどとは、想像もしなかった。たとえ誰かが唆したのだとしても、雲居本人に付け入ることのできるきっかけが―――自らが生んだ心の闇があったことは間違いない。
 どんなことも大抵は上手くこなしてきた虎一太であったが、昔からどうも女心ばかりはとんと疎かった。元々の性格もあるが、雲居との婚姻もどちらかといえば義務であったし、男女の情というものを理屈では知っていても、それを実感することは殆どなかったのである。
 棟梁として、それなりに上手くやってきたつもりだ。様々な局面を、持ち前の手腕で乗り切って来た自信もある。
 だが、どうやら他人に愛情を伝えるのは、どうにも不器用だったらしい。少なくとも雲居には伝わらなかった。
 雲居は玻璃だった。脆く壊れやすい、繊細な絹糸を張り詰めた娘であった。初めて会った時、紅潮して見上げてくる面を一目見て、そのことを悟っていた。だからそっと、傷つけないように接してきたつもりだった。

『本当に恐ろしいのは、知らぬ間に壊れていく者だ』

 どうやら、また思い違ってしまったらしい。彼女の心は、すでに罅割れていたというのに。
 憐れな雲居。そして愚かな―――自分。
 死ぬなら戦いの中でだろうと漠然と思っていただけに、意外すぎる結果に苦く笑うしかない。彼の人生は、最初から最後まで予想と反対のことばかりであった。
 視界が少しずつ狭く、暗くなる。身体が芯から固く、冷たくなっていくようだった。
 様々な人の顔が脳裏に鮮やかに浮かんで消える。
 後に残す者たちへの心配はなかった。心残りであったことはほぼ終えた。次代への布石は打ち込んである。自分がいなくなってもきっと立ち行くだろう。
 だからだろうか、不思議と静かな気持ちだった。痛みも気づけば遠くへ引いている。
 人はそれを様々に形容する。ある者は黒い恐怖だと言い、ある者は白い安らぎだと言う。
 しかし虎一太は、ひたひたと忍び寄る満ち潮のようだと思った。
 虚無という名の海。暖かくも、冷たくもない。
 音もなく、匂いもなく、姿も形も影もすべてを残さず。

 ―――結局、借りを返すことも、“先”を見届けることも、叶わなんだか。

 一つ笑みを零し、瞳を閉じた。穏やかな気持ちで、深い波間へ身をゆだねる。

 ―――ああ、そうだな。もしも一つ叶うならば―――

 最後に泡沫のように浮かんだ思いは、闇に沈んで、儚く溶けた。






 土と黴の匂いが充満する闇の中、ふと何かに呼び止められるように来た路を振り返った。

「雷蔵?」

 急に足を止めた相方を訝り、美吉が目を向ける。

―――いや」

 雷蔵は首を軽く振り、何でもないと答えると、すぐさま半身を戻して「行こう」と美吉を促した。
 彼らの通り過ぎたところから、固められた土が崩れ落ち、瞬く間に道は地中に覆われた。





 穴からやにわに腕が伸び、淵を掴んだ。周りで小さく悲鳴が上がった。
 地面に開いた窮屈な孔から頭を覗かせた美吉は、地上の新鮮な空気を思い切り肺に取りこんだ。大きく息を吐く。よっこいしょとばかりに乗り上がり身軽に飛び出れば、続いて雷蔵が姿を見せた。
 ざわめきが二人を取り囲む。
 通路の出口は、影梟衆の隠れ里の裏手の山にあったらしい。冬でも常緑を保つ草木が場を隠し、側には段丘状になった絶壁がある。待ち伏せされる危険の少ない場所だった。西側に位置しているところも、東側から攻め来た織田の手が及ばずに済んだ理由だろう。
 標高の高い山腹から、たった今逃げて来た里の様子が眼下に見下ろせた。この光景はいつぞや紀伊の家老屋敷で通った地下坑道によく似ている。抜け道は比較的新しく、最近できたものだと分かる。虎一太はあれを参考にこの抜け道を作ったのかもしれなかった。
 抜け穴の周辺には、逃げて来た多くの人が途方に暮れたように群がっていた。抜け道から出て来た見慣れぬ二人組を、遠巻きに疑わしげに見つめている。
 だが雷蔵は彼らの存在を顧みることなく、岬になっている所へ足を向け、脱出してきたばかりの里の方に立つ。
 隠れ里の位置は遠く離れ、こじんまりとして映った。
 黒ずんだ集団が犇めいており、消えぬ火が里中に点々と輝きを灯し、各所から黒煙が立ち上っているのが見える。
 その光景を、雷蔵は淡々と瞳に映す。だから言ったのに、と心の中で呟きながら。
 滅びゆく里。焼け落ち、すべてが灰燼と帰して、何もかもが失われ、消えゆく。
 一つ残らず。

 何も言わず眺めつづけている相棒を怪しみ、その表情を盗み見た美吉は、ぎょっとし慌てて目を背けた。見てはいけないものを見てしまったかのように、気まずそうな顔をする。
 雷蔵はじっと里に視線を注いでいた。昼間のように明るく里を包む輝きが、静かにその面を照らす。
 その片方の瞳から、透き通った雫が、音もなく頬を伝い落ちる。
 光を内に宿し、ただ一筋。

―――特別(おまけ)だよ、棟梁殿)

 それは返礼だったのか、憐みだったのか。
 それを見極めるには、雷蔵の心にはあまりにも何もなさすぎた。だがあるいは、忍びの道の外を望みながらも忍びの道に殉じ、歴史に名を刻むことなく闇に消えゆく愚かな男に、敬意を表したのかもしれない。
 すべてを飲みこむ炎を、彼は静かに見つめ続けていた。
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