それまで広範囲に取り囲んでいた火が、蝋燭を吹き消すかのように、一斉に霧散する。

―――なっ!」

 愕然と口を広げる少年の耳に、獣の咆哮が轟き、その視界を巨大な影が遮った。

「雷蔵!」

 呼び声とともに黄金の軌跡が熱風を斬り裂き、少年の身体を、咄嗟に身を呈した青年ごと横合いから薙ぎ飛ばした。
 走った激痛に、少年が呻きを上げた。左の肩口が鋭い爪に抉られ、真っ赤な血を噴き出す。青年が何かを叫ぶ。名のようであったがよく聞こえない。ただ何があっても変わらず落ち着いていた優面が今は焦りと動揺に彩られている。その青年の背中もまた厚手の衣ごとざっくりと裂け、少年以上に重傷であるにも関わらず、すぐさま己の主を助け起こした。
 一方、躍動する大虎の背から、人影が離脱し、跪いたままの雷蔵の前に降り立つ。
 途端に雷蔵の身体の自由を縛っていた鋼の糸が粉砕した。

「生きてるか?」

 肥後国の山中で別れたきりの相棒が、背を向けて佇んでいた。両手で印を組んだまま、少年らと対峙する。
 雷蔵は感激するでも安堵するでもなく、側に立った雲水の背を億劫気に見上げた。そして一言、

「遅い」
「え? わ、悪い……って俺が謝ることなのか?」

 美吉は訳が分からず首だけで振り返って訝った。何だか今、理不尽に責められた気がする。
しかし久方ぶりの相方を一目見てすぐに眉を顰める。雷蔵の身から、いつもの気の波動が微弱にしか感じられなかったからだ。

「お前、まだ〈気涸れ〉が―――
「地の継承者」

 傷口を抑えながら、青年に支え起こされた少年が、食い縛った歯の奥から唸った。美吉はハッとして首を戻す。
 脂汗を浮かべ、きつく皺寄せられた少年の眼元は、美吉越しに雷蔵を強く射ていた。

「そうか、あんた知ってたね」

 危機的状況にもかかわらず始終落ち着き払っていた雷蔵の態度。もちろん性格によるものも十二分にあるが、攻撃に対しひたすら避け続けるだけで、打開策も講じずあえて膠着状態を維持し続けたのは、美吉が近くに来ていることを察していたからでもある。継承者同士は側に近寄ると互いに分かるという。器である巻物が共鳴するらしい。
 雷蔵は彼が来るのを待っていたのだ。炎に巻かれかけた時でさえ抵抗しなかったのは死に面して諦めていたのではなく、助かる見込みあってのことだった。
 そうと知って、少年はくっと自嘲めいた表情を作った。

「『天地は引き合う』。僕としたことが抜かったな」

 正体不明の外敵を前に顔を戻した美吉がやや眉を顰める。

「誰だ、お前?」

 見た目通りのいたいけな少年でないことは先刻承知だが、地義書の存在を知っているとなると、いよいよ徒者ではない。
 美吉は瞼を下ろすようにして、左の瞳に意識を集中させた。普段は厭わしさから封じている呪眼でも、得体の知れぬ敵を知るために使うのはやぶさかではない。慎重に調節しながら力を込めた。途端に奔流のごとく脳裏に押し寄せる映像。

「チィッ」

 危険を感じ取ったか、少年は舌打ちして即座に眉間に剣印を構えた。ざわりと動いた気配に慌てた美吉が透視を中断して咄嗟に印を結ぶ。
 結果、少年の術は発動されることなく立ち消えた。辛うじて動いた風の刃も、標的に届く前に、飛び込んできた虎の咆哮の前に跳ね付けられた。

「〈護法〉を使役しながら同時に奥義を使えるのか?」

 無茶苦茶だ、と少年が半ば唖然とする。血の気とともに余裕も失われていた。
 雷蔵は少年の焦燥を肌で感じ取っていた。無理もないと思う。もう一つの〈秘伝〉の見参というだけではない。美吉に潜在する呪力の強大さに本能的な恐怖を感じているのだ。
 〈秘伝〉にはそれぞれ護りの神獣が宿っている。〈秘伝〉の管理者と言い換えても良い。彼らは〈秘伝〉を継承者以外の手から護るために強力な力を与えられた『法』だった。〈秘伝〉のすべての内容を、継承者の身から器たる巻物に戻すと、この〈護法〉を解放することができる。美吉の地ノ巻ならば大虎。雷蔵の天ノ巻ならば龍の姿を象る。
 ただし〈護法〉を解放している間は〈秘伝〉の奥義を併用することは叶わない。〈護法〉の神獣は、強力である分、使役し続けるにも相当な呪力を消耗するからだ。理論上できないわけではないが、実質上はほぼ不可能だ。そのため通常は〈護法〉を使役するか〈秘伝〉の奥義を使用するかのどちらかに限定される。
 ところが美吉の場合は双方を難なく両立させてみせる。身の内に神を封じる彼の力は計測不能だ。出所が神力であるせいか、底が見えず、よって〈気涸れ〉することもない。おまけに宿る神霊は火と金を司っており、地義書の継承者として相性は抜群だった。だからこそ紫香は美吉を次代に選んだとも言える。情緒に左右されやすく不安定であるという部分さえ差し引けば、美吉は至高の〈秘伝〉の使い手なのである。恐らく歴代でも最高の継承者であろう。
 だから少年も、美吉を前に、出方に惑っていた。火の気は完全に制圧され、土の気も動かない。風は動かせそうだが、地の〈護法〉の存在のためさしたる攻撃の手段となりえない。 
 少年の動揺を見逃さず、雷蔵は声を放った。

「『mu-ninja.gif(1273 byte) do-ninja.gif(1286 byte) u-ninja.gif(1216 byte) re-ninja.gif(1263 byte)( も ど れ )』」

 瞬間、少年の手の内の〈秘伝〉の書が消えたかと思うと、代わりに雷蔵の掲げた手の中に収まっていた。〈秘伝〉はたとえ手元を離れても所有者が呼べば瞬時に戻ってくるよう呪いが施されている。
 少年が頬を歪めた。が、ややしてから吐息を零し、苦々しげに、あるいは忌々しげに唇を片端上げた。多量の出血のためか顔色が青白いが、余裕を取り戻した双眸は異様にぎらついている。

「やれやれ、天地の〈秘伝〉を相手するとなっちゃあ、さすがに分が悪いや。今日のところは一旦退くとするよ」
「おい、待てよ。お前一体……」
「ああ来た来た」

 美吉が少年の聞き捨てならぬ科白を追及しようとした矢先に、後方から金属の擦れ合う音がいくつも近づいてくるのに気づいた。
 肩越しに振り向いた二人の瞳に映った先には、武装した兵が押し寄せていた。

「御方様の当面の目的は果たせたからよしとするかな。ひとまずこれで影梟衆もおしまいだ」

 含みのある言い回しに、雷蔵は微かに眉を顰めた。
 嘲弄に唇を歪める少年を抱え、青年が高く跳んだ。血が舞う。
 美吉が後を追って首を上げると、彼らの身はすでに木上にあった。
 高いところから傲岸に見下ろしつつ、少年が言う。

「“彼”も可哀想にね。あんたを助けたばかりに、自分の身を滅ぼすんだから」

 憐み深く嗤う姿が、徐々にすうっと透き通り、周囲に溶けていく。

「またね」

 姿が見えなくなっても、しばらくはクスクスという余韻が耳の中に残った。
 「一体何だったんだ」と美吉が呆然とぼやく。だが背後に押し寄せる気配に、はたと意識を切り替えた。ピィッと指笛を吹く。と、それまで控えていた虎が地を蹴る。失速せぬまま駆け、美吉に衝突する寸前でその体躯が縮まり、閉じた巻物の姿となって彼の手の中に収まった。神獣の姿をあまり他人に見せるべきものではないという判断だ。
 美吉は闘うことはできる。しかし雷蔵の方は万全の状態とはいかない。この状況下で、多数勢の兵と一戦交えるか、それとも逃げるが吉か。

「美吉」

 不意に呼びかけられ、美吉は思考を中断して顔を向けた。
 じっと地響きの来る方角を見据えている雷蔵の横顔は静かだった。

「ひとつ、頼まれてくれない?」
「何だ?」
「この向こうに地下の抜け道がある。そこを崩したい」

 訝しげに顰められる美吉の眼差しにも、雷蔵は多くは語らなかった。

「俺たちが通った後にだよ。―――残念だけど、今の俺にはそれだけの力が残っていない」

 元々の力の器が大きいと、再び元通り器に力が満ちるまでに時間がかかる。だから雷蔵はなるべく力の無駄遣いはせずに来たのだが、先程の少年との闘争で、戻りかけていた分が再び失われた。
 美吉はしばらく何も言わずに目線を注いでいたが、やがて「了解」と短く応じた。
 すぐさま二人は裾を翻し、美吉は雷蔵の後ろに従って、軍勢から逃げるように走った。元の原形を辛うじて留めている屋敷は、炎こそ美吉の力で消えたが、そう長くは保ってられぬほど今にも崩れ落ちかけそうな有様だった。そこを迂回し、裏手に出る。そして恐らくは縁側だっただろう焼け落ちた板間を飛び越え、一室に踏み入る。雷蔵は膝をつき、あちらこちら焦げた畳を一枚はがす。すると下から、四角い溝の入った板間が現われた。取っ手を引けば、下には黒い空洞が広がっていた。

「これが抜け道か」

 言う間に、がちゃがちゃと忙しなく煩わしい騒音が間近に迫った。「いたぞ!」「あそこだ」「逃がすな!!」と声が飛び交う。美吉は面倒臭そうに双眸を顰めた。

「放っておけばいい。行くよ」
「おう」

 先に降りた雷蔵に、間髪入れず美吉も身を躍らせる。直後、彼の手から鍼が放たれた。細い煌めきが梁のある個所に刺さると同時に、屋敷の天井ごと落ち、入口であった一間を塞ぐ。更に暗い地下道を駆けながら、その唇から文言が紡がれる度に、通り抜けた後方の道が次々と崩れ落ちていった。







 焦げ臭さの蔓延する里内を、虎一太は疾風もかくやと駆けていた。
 倒壊した建物や、焼け残っている家屋の周辺に、人気がないことを確認する。

(この様子ならば問題はなさそうか)

 里のほとんどを見回り終えた頃だった。不意に正面に人の気配を捉えた。警戒した虎一太の目に、影梟衆の衣が入る。仲間だ。

「御頭!」

 はっとして駆け寄って来たくの一に、虎一太は「早く逃げろ」と叱咤した。今ならまだ抜け道に間に合う。
 彼女は顔をゆがませ、囁いた。

「御頭、実は奥方様が」

 思わぬところで耳にした妻の名に、虎一太の眉が微かに上がる。

「雲居がどうしたんだ」
「それが、先程からお捜ししているもののずっとお姿が見えず……お邸で女たちを逃がす指揮を取られていたと申している者がおりましたので、もしやまだお邸の方ではないかと」
―――それは確かか」

 虎一太は取り乱すことなく、まずは慎重に質した。こういった状況下では情報の行き違いや動転からの勘違いが起きやすい。それは修羅場に慣れた者であっても例外ではない。
 しかし一見たおやかなようでいて、反面強情なまでに使命感の強い雲居の性格を考えればありうる話だ。そういえば虎一太は自分の邸だけはまだ見ていないことに気づく。里で一番奥に位置する棟梁屋敷は後回しにしていた。
 すでに逃げた後かもしれない。しかし万が一ということもある。
 間に合うか。ちらりと別邸の方を気にした。間に合わせるしかない。

「分かった。邸の方は俺が見よう。お前は先に退避しろ」
「ですが」
「いいから行け。命令だ」
「は……」

 くの一は戸惑いながらも、従順に頭を下げて、虎一太の脇をすり抜ける。
 別宅の方角に向かう背を見送りながら、ふと虎一太は、今のくの一の名を思い出せないことに気づいた。確かに知っている顔だと思ったはずなのに。不思議に思いながらも、すぐに気を取り直して己の邸を目指す。
 だがそのくの一が、擦れ違う最中にふと唇に笑みを浮かべたのに、彼は気づかなかった。
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