「三日前、お前が身に携えていたものだ。手当てをするために他の物と共に一旦別室に置いてあったはずが、いつの間にかお前の傍らに戻っていた」

 そう告げる手にあるのは古めかしい巻物。紫紐の先には翡翠の房飾りが揺れ、灰緑色の裂は一見素っ気ない無地のようで、薄っすらとだが細かい龍花唐草紋様があしらわれている。
 たまたま朝一で様子を見に来て、枕元でこの巻物を発見した虎一太は、誰かに見咎められる前に素早く隠した。直感的にそうせねばならぬと思ったのである。

「答えたくなければ答えなくともいいが、これはもしや―――

 隠洽が、京里忍城が長年来守り続けてきたものではないか。
 その存在は、虎一太も伝え聞いたことがある。誰ともなく、それは忍びの間で密かな噂として大昔から語り継がれていた。
 ところが、その噂がここ最近急に表立って耳にするようになった。それも、内容にはそれとなく誇張めいた表現が使われ、おまけに国々の大名たちがこぞって狙っているとの話にまで拡大していた。
 明らかに現実味のない、むしろ眉唾的な伝説だと言うのに、その存在は実しやかに囁かれ、どうしたことか妄言と一蹴する理性的な大名は少ない。
 てっきり信長はその数少ない現実主義派だと思っていたが―――
 雷蔵は無表情に虎一太が差し出すそれを見つめている。

「誰か、中を開いたかい?」

 ようやくポツリと口を開いたと思えば、それは投げかけられた質問に対して是でも否でもない返事だった。
 虎一太は気分を害することなく「いいや」と答えた。
 雷蔵の手が伸び、巻物を受け取る。

「良かったね。もしもうっかり開いていたら今頃五体バラバラになっていたところだよ」
「は?」
「何せ俺も継いだばかりでまだ上手く制御できないんだ」

 物騒なことをさり気なくさらりと口にしてみせた雷蔵は、再び謎めいた科白を言って、両手で包むようにそれを持ち瞼を伏せた。何かを念じるようにしばらくそうしていたかと思うと、紫の組み紐―――これもよく見ると意向を凝らした編み目で、複雑な綾紋を描いている―――に手をかけ解いた。
 無造作にするすると開かれる。そこに現われたのは、ぼろぼろに擦り切れた白紙ばかりだった。

「何も書かれてないようだが?」
「今はね」
「今は?」

 鬼が出るか蛇が出るかと構えていただけについ拍子抜けする虎一太に対し、「見た方が早い」と雷蔵はおもむろにその白い紙の上に手を翳した。
 その手がすいと横へ流れる。
 虎一太は目を瞠った。
 翳した掌が過ぎた所から、文字が次々と浮かび上がってきたのである。
 中から滾々と滲みだすように現われた墨字が、先程まで真っ白だった紙面を埋め尽くすのはあっという間のことだった。

「これは……」

 最早言うべき言葉も見つからず、虎一太はひたすら凝視する。
 再び、雷蔵が手を元の方に滑らせると、今度はさっきとは真逆に、文字が掌の内に吸い込まれていくように消えてゆく。
 あまりの不可思議な光景に、狐にでも化かされている気分になる。
 巻物を元通り巻いて紐で閉じると、すっかり絶句している虎一太へ雷蔵は言った。

「さっきまでは全解放状態だった。『中身』が巻物に戻っている時に他者が持ち主の許しなく開けば、守りの術が発動して不届き者を引き裂く―――そういう風な仕組みらしいよ」

 今更ながら、臓腑がひやりとする話だった。
 虎一太とて好奇心がなかったとは言わないが、事の重大さを考えて、あえて中を覗くなどという不義は働かなかった。自分の判断の正しさに、彼は心底安堵した。

「ということは、やはり」
「そう。君が考えている通りのものだ」

 〈秘伝〉。
 その名称を唱えかけたところで、にわかに旋毛のあたりの違和感に気づいた虎一太は勢いよく上を仰いだ。
 何時の間にどこから取り出したのか、すかさず手裏剣を投げつける。
 ガタンという鼠と言うには重い物音とともに、天井裏の気配が慌ただしく逃げ去った。

「不知火!」

 虎一太の一喝が後を追うが、手遅れだった。
 つい重々しい溜息がその唇から零れおちる。
 頭痛を堪える風に目頭を押さえ、「すまない」と唸った。やり切れなさと、深い慙愧が滲み出る。
 雷蔵は気のない素振りで肩を竦めた。

「いいや、俺も迂闊だったし」

 そう宥められても、虎一太にしてみれば悔悟してもしきれない。いくら想定外のことばかりで注意が逸れていたとはいえ、潜む気配に気づくのが遅れたことは、棟梁としての矜持を苛む大失態だ。しかもよりにもよって、一番雷蔵との確執が根深い不知火にそれを許してしまうとは。
 早くから孤児(みなしご)となった不知火は、元服するまで藤浮の邸の離れに住まいを与えられていた。彼の両親はそれぞれ虎一太の父、一郎太の幼馴染であると同時に里一の功労者であり、棟梁を守って殉職した彼らへの恩返しに、一郎太が生前にその忘れ形見を引き取ったのである。すでに二子を持っていたため養子にはならなかったものの、虎一太の代となっても家族同然の扱いで自由に邸へ出入りさせていた。
 それが裏目に出たか。
 例の一件以来、不知火が雷蔵に対し深い禍根を抱いていることは、虎一太にとって気懸りなことの一つだった。体裁もなく闇雲に襲いかかってこなかっただけ幸いだと言えばいいのだろうか。慰めにもならなかった。

「あいつにはあとできつく灸を据えておく」
「ついでに口も厳重に縫っておいてよ」
「無論だ」

 しかし、と虎一太は話を戻して眉宇を寄せる。

「単なる噂ではなかったということか」

 雷蔵は片手で投げたり受けたりと、巻物を弄んでいる。忌憚する様子は欠片もない。

「そういうことだね。本来里長が持つものなんだけど、敵襲のドサクサに紛れて長が〈襲義〉を終了させたから、今では自動的に持ち主交代して俺が継承者」

 己の事だろうに、語る口調には何の感慨もなかった。

「隠殿は」

 遅ればせながらはたと思い至り尋ねると、雷蔵は逡巡する風に一呼吸おいてから、「さあ」とやはり淡白に返した。

「最期を看取ったわけじゃないから、確かなことは言えないけど―――多分あの翁のことだから、覚悟を決めていたんじゃないかな」

 だから洽は最後の際に雷蔵を呼び出し、〈秘伝〉の最後の継承の儀である〈襲義〉を行い、離脱の密命を下したのだろう。
 ―――次代へ托すために。

「長だけじゃなく、里の者のほとんどが絶望的だよ。あの包囲網を突破して逃れた者もいるとは思うけど、事実上、京里忍城は滅亡だろうね」
「力は使わなかったのか」

 見捨てて逃げたのかと責めるつもりではなかったが、つい咎めるような語調になってしまった虎一太に、雷蔵は何も答えず不思議な微笑みを浮かべた。それを見た虎一太はハッとなり己の失言を恥じた。事情を知らぬ者が差し出がましい口を利くべきではない。力を行使するのに障りがなかったのであれば、端から満身創痍で彼らの許まで逃げ延びてくるはずがなかった。
 滅し滅される。それは忍びの世界では常のことだ。
 それでも、何も感じないわけではない。
 無意識に哀悼の色を浮かべていた虎一太を見やり、雷蔵は微笑を苦笑に変えた。

「君がそんな顔することはないだろうに」
「とはいえ、全く知らぬ関係でもなかったからな」

 特に隠洽は父の一郎太と昵懇の仲であり、若輩の虎一太に対しても別け隔てなく声をかけてくれた。

「仕様がないねぇ、こればかりは。災難とは往々にしてそういうものだろうし、俺たちの宿命でもある」
「……」

 こんな時でさえ、雷蔵はどこまでも落ち着いていた。むしろ虎一太の方が苦しげで、すっかり立場が逆転している。
 雷蔵の表情にも口ぶりにも、悲しみを押し隠してやせ我慢をしている節はない。長年慣れ親しんだ里と人々を失ったというのに、まるで何も感じていないようでさえある。心底でどう思っているのか全く窺い知れない。
 人としては人格を疑うところである。しかし忍びとしては理想的な姿勢だ。
 だが虎一太には、そんな姿が憐れに思えた。
 年齢を考えれば、もっと動じたり、激情に流されてもいいはずだ。なのに、雷蔵は特別己を律しているわけでもなく、あるがままを受け入れている。かといって、人としての誇りがないというのでもない。

 意に染まぬことに対し、膝を屈するのを良しとせず抗うのも、確かに矜持の証であり美しい。が、真の誇りとは、何事にも何者にも侵されぬ心の在りようだと、虎一太は思う。心を殺す忍びであるからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。
 いかなる侮辱も屈辱も恥辱も、何とも思わず平然と許容してみせる皓然たる器。濁流の中の水晶のごとく、汚濁に身を置きながら何にも染まらず、決して芯を失わぬ姿は、一層気高く、高潔でさえある。穢れの中にあるからこそ、その澄んだ輝きが際立つのだろう。
 木鶏に似たり。―――昔聞いた故事の通り、まさしく雷蔵は木鶏だった。どのような境遇を過ごせば、これほどの若さでその境地に至るのか。
 そしてやはり何のしがらみをも感じさずに、雷蔵は虎一太に礼を言うのだ。

「すっかり迷惑をかけたね」
「気にすることはない。こちらもお前には恩義がある」

 再び朱鷺次のことを思い出し、虎一太はついと視線を逸らした。
 この反応に、今度は雷蔵の方が小首を傾げる番だった。売ったつもりはないのだから気に病まずとも良いのに、と思いながらも、言ったところで無駄と踏んで結局何も言わなかった。
 それにしても咄嗟に逃げ先として選んだのが影梟衆の根城とは、我ながらよく考えたものだと彼は心中でごちる。
 京里忍城とは違い、影梟衆の隠れ里は完全に秘匿されてはいない。伊賀や甲賀同様、深山にあり、周囲に仕掛けはあるものの、その気になれば訪えないほどではない。当然ながら京里忍城も彼らの所在地は把握していた。
 おまけに仁義に厚い虎一太ならば、きっと打算抜きで匿ってくれるに違いない。
 失血で意識が混濁するなか、ほとんど反射的にそう判断したのである。自分にも生き延びようとする本能があったことに、雷蔵は己が事ながら感嘆していた。

「何にしても、今は色々考えずゆっくり傷を癒すことだ。今後のことはまた後で考えろ。行き場がなければしばらく此処に留まればいい」
「いいや。折角だけど、動けるようになったら早々にお暇するよ。手当てまでしてもらっておいて何のお返しもできないけれど」

 予想外の答えに虎一太が驚く。正気か、と問うた。

「死にかけた上に熱も高いんだぞ。数カ月は安静にしていなければならぬくらいだ。何も急ぐことはあるまい」
「そうはいかないよ」

 微笑しながら、雷蔵はあっさり申し出を棄却する。

「気持ちはありがたいけど、君らに累が及んではいけないしね」
「そう案ずることもないと思うが」

 よもや一日で風早にまで逃げて来ているとは普通常識では考えられない。敵も恐らく行く先を見失っているはずだ。当面、虎一太たちに目が向くことはあるまい。

「あの男を見くびってはいけない」

 だが雷蔵の声は真剣味を帯びて響いた。その眼差しに宿った微かな鋭さに、虎一太もふと双眸を眇める。

「それほどなのか」

 織田信長という男は。
 常識さえも覆す、化け物なのかと。

「まあ尤も、俺がこれ以上君らに借りを作りたくないってのもあるけどね」

 借りるのは主義じゃないんだ―――雷蔵は冗談ともつかぬ屈託ない口調で言った。
 決意は固そうだと知って、虎一太は諦めた風に溜息をついた。

「仕方ないな。その代わりに聞かせてもらうぞ。今後どうするつもりだ」
「ほとぼりが冷めるまで、しばらく北あたりに身を潜めているよ。折角忍び業から解放されたことだし、これを機に国中をのんびり旅して回るのもいいね」

 恐らく一生、身を隠しての放浪生活となるだろうが。
 分かった、と虎一太は頷く。

「ではせめて、入用の物があれば用意させよう」
「そうだねぇ」

 雷蔵は軽く天井を仰いでから、人差し指を立てた。

「じゃあ、行脚僧の装いを一式」


 そしてまさしくこの二日後、雷蔵は姿を消した。虎一太が部屋に訪れた時には、布団は律義に畳まれ、置き文などは一切なかった。ただ、倉庫から変装用の用具が一揃いなくなっている、と後から倉庫番に聞いた。


 あれから十年。
 因縁か、と、雪を踏みしめながら虎一太はあの時から切れずに続く奇縁に微苦笑する。
 その時背後から、手下の一人が強張った声で「御頭」と呼んだ。
 虎一太は振り返った。手下の指差す先を目にした瞬間、その表情が凍りつく。
 彼らは今、里の裏にある山に来ている。
 灰白くけぶる中、眼下遠くで煌々と輝く一点がある。
 里が赤く燃えていた。
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