あすはこの山 かりがある
ここらは狭まし 子は多し
逃げよとすれば 子が惜しゅし
助けたまえよ 山の神
―――宮崎の子守唄





 重い物音に、物見(うかみ)役は警戒した面を上げた。

「どうした?」
「いま何か聞えた」

 櫓の中で、もう一人の物見が怪訝そうに振り返る。
 まだ明るいうちだ。仲間ならば指定の合図を送ってくるが、それがない。敵襲か、と気持ち緊張しながら外を注視する。
 妙だった。里の外には各所にそれと知れずに鳴子が仕掛けられている。侵入者が来れば大抵分かるはずだ。逆に言えば、それらに引っかからずに辿りつける手錬が、このような所で手を抜かるとも思えなかった。
 慎重に物音の出所を見つめていると、新緑を掻きわけるように影が躍り出た。

「何者だ……?」

 眉を顰めながら、さっと得物を構える。影梟衆の装束ではない。外敵の可能性に彼は呼び子を鳴らそうとしたが、すぐにおかしさに気づいた。
 現われた人影の足取りはあまりに不安定で、何より全身から濃い血の香りが漂っていた。
 やがて門に辿り着くと、力尽きたか木の扉に凭れかかるようにしてズルリと崩れ落ちる。
 只ならぬ様子に、物見は高さのある櫓から直接門の外へ飛び降りて、側へ駆け寄った。後ろから「気をつけろ」と仲間の注意が飛ぶ。

「おい、大丈夫か!?」

 警戒しつつ間近で目を凝らすと、暗色の忍装束の上からでも分かるほど傷だらけであった。その上思いのほか小柄な体つきをしている。

「子ども?」

 その肩を引いて仰向かせれば、手にべったりと赤黒い液体がついた。どろりとしていて凝固しかかっている。相当の出血量であり、時間もかなり経過しているようだ。
 現われた面はまだ幼い。

―――おい、しっかりしろ!! 何があった!」

 閉じられていた青白い瞼がピクリと震える。
 薄っすらと開いた瞳が朦朧と彼をとらえ、再び力を失う。

「おい、おい!?」

 揺さぶろうにも、あまりの傷の深さに躊躇われた。
 物見は慌てて「開門!」と大声で叫んだ。
 間髪入れず重々しい響きを上げて開かれた門から、数人の門番が飛び出す。

「どうした?」
「何事だ」
「分からん。ただ酷い怪我だ」

 物見の男は硬い面持ちで傷の様子を見た。出血はすでに止まりかかっているが、失った血は多いと見られる。顔色があまりに悪い。何より衰弱がひどかった。

「しかし、許しなく勝手に氏素性の知れぬ者を里に入れるわけにはいかぬ。どうする?」
「御頭を呼んでくる」

 門番のうち一人が素早く身を返して駆け出す。里奥の棟梁屋敷へ飛び込むや、緊急の事態を告げた。
 ただならぬ空気を受けて、虎一太はすぐさま里門へと急いだ。
 そして物見役に抱えられている者を見て、仰天する。
 薬叉?と、声なき声で呟いた。
 側に寄って確認する。血と土に汚れていたが、間違いなかった。
 何事かと逸る気持ちを抑え、控えている者達に務めて冷静に指示を飛ばす。

「邸に運ぶ。誰か薬師の翁を呼んできてくれ。このことはくれぐれも他言無用だ」

 思わぬ招かざる客に門際は密かに騒然となった。

 それは、今より十年前のこと―――




 はらり、はらりと雪が躍る。
 粉のような、白い欠片が。
 儚い風花は、まるで桜吹雪にも似て―――
 雷蔵は天から舞い落ちる雪を見つめながら、眼裏に翻る花びらの残像を追うように追想する。




 目を開いて最初に視界に飛び込んできたのは見事な枝ぶりの桜だった。
 しばらく夢の続きだと思い込んで眺めていたが、やがて意識が冴え周囲に向ける余裕ができると、ゆっくりと全体を見渡した。質素ではあるが、大きな屋敷の庭のようだと、他人事のごとく判断する。
 そこでようやく身体中を痛みが苛み、至る所を包帯で巻かれていることに気づいた。雷蔵は柔らかで厚みのある布団の上に寝かされていたようだった。

「目が覚めたか」

 にわかにした声につられ、逆側を見ると、安堵した様子の面があった。
 思いもよらぬ見知った顔に、反応までたっぷり二呼吸かかった。

「……棟梁殿?」

 そこにいたのは、以前浅からぬ縁を結んだ盟友だった。
 首を動かした拍子に、額の上に圧し掛かっていた僅かな重みが滑り落ちた。
 虎一太の手がそれを拾い上げる。濡れた手拭だった。

「まだ熱は下がらぬようだな。いま白湯を持たせよう」

 表の下仕えに申しつける喉の動きを下から眺めながら、ぼんやりと口を開く。

「どうして」

 此処に?と続く声は音を伴わなかった。喉がひどく乾いて枯れている。
 一体自分はどうしたと言うのだろう。何故こんなにも頭が重く、全身が熱いのか。

「覚えていないのか?」

 虎一太が呆れた風に問い返す。

「お前自らここまで辿り着いたというのに」

 思索も覚束ぬ雷蔵の様子に、やれやれとばかりに少し困った表情をして息をつく。

「記憶が混迷しているようだな」

 重傷などで昏睡すると、覚醒直後に軽い記憶の混乱が起こるのはままあることだった。

「三日前のことだ。里の入り口で、お前が血だらけで倒れていた」
「三日前?」

 噛み含めるように口中で転がし、雷蔵の瞼が押し開かれる。
 ああ、そうか。確か命からがら逃げていた最中で―――
 徐々に瞳に輝きが戻りつつあるのを認め、虎一太は表情を改めて「何があった」と低く問いかけた。
 雷蔵の口から微かな吐息が零れおちる。

「京里忍城が陥ちた」

 「何だと」虎一太は息を飲んだ。信じがたいとばかりに大きく目を瞠る。

「どういうことだそれは」

 相手は重傷人で目覚めたばかりだというのに、思わず勢い込んで問いを重ねる。
 対する雷蔵は淡々と繰り返した。

「そのままだよ。奇襲をかけられて焼け落ちた。里はほぼ壊滅状態だ」

 真かと、半ば呆然として虎一太は呻いた。雷蔵の状態からしてそれなりの事態は想定していたが、よもや京里忍城が攻められ、こともあろうに陥落するとは―――

「しかしそんな話は聞こえてきていない」

 京里忍城のある山城国と、影梟衆の隠れ里があるこの播磨国風早は、位置関係は近いとはいえ人足で来るには相当な距離があり、相応の日数はかかる。並外れて健脚な忍びといえどもだ。雷蔵が落ち逃れて辿り着いたということは、昏睡していた日数を含めても逆算して七日以上は経っていなければならない。しかし京里忍城が焼かれたなどという一大事ならば、七日もあれば影梟衆の情報網でとうに伝わってきていておかしくないはずだ。

「奇襲を受けたのは昨日―――いや、俺が三日眠っていたのなら、四日前になるかな」

 虎一太は一瞬反応に戸惑って眉根を寄せた。
 四日前ということは、雷蔵は一日足らずで山城から播磨まで駆けて来たことになる。全身にこれほどの傷を負いながら。
 俄かには信じ難かった。いくら常人離れしているとはいえ、そんな非現実的なことがあり得るものか。
 だが雷蔵の落ち着きを見る限り、どうも譫妄の類というわけではないらしい。それに彼はそこらの忍びと違う。過去に協議を行った『間の間』が脳裏をかすめる。きっと虎一太にも予想のつかぬ何らかの方法を使ったのかもしれない。

「一体、誰に奇襲をかけられたんだ」
「織田だよ」

 その名に、虎一太の眦が険しさを帯びる。
 うつけと呼ばれた男が頭角を現し、ついには無謀とさえ言われた戦いで圧倒的強力な大名を破ってみせたところから、一気に天下の舞台へと躍り出たのは数年前のこと。誰もが知るところである。
 その恐るべき才覚と果ての見えぬ野心に、今や脅威を感じぬ者はいない。
 だがよもや彼の手が京里忍城まで及んだだけでなく、かの堅牢な里が落ちるとは―――

「だがお前たちの里には外敵を阻む結界が張ってあったはずだろう」

 相手は安静にさせなければならない重傷者だということはわかってはいても、虎一太は訊かずにはいられなかった。
 虎一太も実際に入ったことがあるから身を以て知っている。京里忍城は甲賀以上に不思議の術を得意とする忍び軍団だ。どういった技かは分からないが、京里忍城は幾重もの結界によって守られ、正しい道は里の者にしか開かれない。内部の協力なくしては辿り着くことは叶わぬ、まさしく難攻不落の隠れ里であった。
 それがどういうわけか、やすやすと突破されたなどと。
 虎一太は思い当った唯一の可能性に言葉を止めた。道は内部の者にしか開かれない、ということは。

「返り忠か」
「ああ」

 嘆息交じりに雷蔵は肯き、軽く咳き込む。一旦話を切り、「白湯を」と乞う。掠れた声音に心持ち微かな疲労の響きがにじんでいた。
 そこで虎一太もようやく気がつき、身を起こそうとするのに手を貸した。
 かなりの深手を負っていたから、わずかに身じろぐだけでも相当辛いだろうに、雷蔵は顔色にひとつも出さない。熱で多少頬が上気しているくらいである。
 身体つきや面立ちに残る幼さに気づき、ようやくその歳に思い至った。落ち着いた物腰が子どもという印象を他人に抱かせないため、つい忘れてしまいがちだが、実際はまだ少年といっていい年頃なのだ。大人びているのともませているのとも違う。ただ齢に見合わずひどく老成しており、それがあまりに自然体であるから、余計に惑わされる。
 雷蔵が手渡された碗から微温湯を口に含み、ホッと息を吐く。少し頬が和らいだようであった。

―――大きな組織ほど、結束には綻びができやすい。わかってはいたけど、誰もが油断していたんだろうね」

 再び他人事のように淡々と言う。絶対の防御に自信があったからこそ、それが破られた時の対処などは全く考えられていなかった。その危機管理の薄さも総崩れの遠因だった。
 しかしこの間合いで、というのが虎一太の気にかかった。
 いくら冷酷無比で悪評高い信長とはいえ、理由もなく無差別に攻撃を仕掛けているわけではない。第一彼の拠点は山城ではなく尾張ではないか。
 戦にはそれなりの戦略上の目的がある。まして織田信長は、昔の噂通りのうつけではない。
 雷蔵はその問いにもあっさりと答えへの糸口を示した。

「先頃、義昭公が上洛しただろ」

 言われてみれば、足利義昭は織田の庇護を受けて先だって京の朝廷にて第十五代将軍を襲名したところだった。
 そして京里忍城は都のすぐ裏側にある。

「まさかそれに合わせたというわけか」

 虎一太が難しい顔をつくるが、地顔がぼんやりしているのでいまいち緊迫さに欠ける。

「さて、上洛と攻略、どちらの目的が主かは不明だけど」
「だとしても京里忍城はどこへ対しても表立った反発はしていなかったはずだろう。怨みを買っていたとは思えんが」
「まあね」

 雷蔵たちは、信長に限らず多くの大名たちの標的にならぬよう、あるいは脅威と見なされぬよう、極力目立つ行動は自粛し、受ける依頼を吟味し、慎重に対応していた。影梟衆だって、同じような対策を取っている。それなのにどうして。

「そもそもからして、手引きした者は間者だったのか?」

 この問いに雷蔵は頭を振り、

「京里忍城がここ百年のうち外から受け入れた人間は、俺と死んだ叔父の二人だけだよ」

 と答えた。目元に睫毛の影が落ちる。
 ご多分に漏れず、京里忍城もまた閉鎖的な里であった。規模が大きく、かつ裏社会の組織だからこそ、外部からの受け入れの規制は厳しい。命取りになるからだ。世帯数は十二分にあり、血縁同士の婚姻を繰り返すという危険もなかったことから、外から新しい人員を調達する必要もなかった。その中で、叔父がどんな経緯で受け入れられたのか、雷蔵は知らない。ただ故郷を飛び出し、放浪の末に死にかけていたところを、里長の隠洽に拾われたとだけ聞いていた。
 ひとまず、彼らを除き里の者はすべて歴々の系譜を持つ氏素性の確かな―――里の中においてはという意味だ―――地縁の輩だった。外部勢力より派遣され埋伏していた間者という線はほぼない。
 虎一太は片隅で朱鷺次のことを思い出しながら、深刻な面持ちで唸った。

「……ならば、外から何らかの接触なり働きかけがあったということか」

 組織内で内通者が自然発生することがないわけではない。だが内通とはかなりの危険を伴う行為だ。相応の保障と見返りが約束されていなければ、まずしようと思うものではない。単に個人の思いつきだけで計画するにはあまりに賭けの度合いが大きすぎる。
 元から間者として潜入していたという線はない。自発的な内通の線も薄い。となると、残るもので最も可能性が高いのは、外部から唆されたという線だ。虎一太が暗に指摘しているのはそのことだった。
 何より、相手はあの織田信長だという。百歩譲ってこれが自発的な裏切りだったとして、離反者は信長が食いつくであろう交渉材料を持っていたことになる。
 しかし現状を知る限り、信長と京里忍城の間に取引となりうる接点は見当たらない。双方に繋がりがない以上、ここで信長が名が出てくるのはいささか唐突の感があった。要するに納得がいかないのである。

「何故織田が京里忍城を狙わねばならない」
「……」

 損得勘定を抜きに戦を仕掛ける男ではないはずだ。内通者を都合してまで計画的に事を進めたということは、何かがあるという裏付けに他ならない。
 だが雷蔵は無言だった。分からないのであれば「知らぬ」と答えるはずで、沈黙はしない。
 その様子を受けて、虎一太は物思うように目を眇めた。

「思い当たる節があるようだな」

 確信を得て言い、それから嘆息する。

―――原因はこれか?」

 懐に手を入れ、何かを取り出して差し出した。
 そこにあるものを捉え、それまで水晶のごとく微動だにしなかった眼が、僅かに反応した。
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