それは選定を受ける一年前のことである。影梟衆はさる国の豪族から依頼を受けた。豪族の擁する領主の跡取り息子が政敵から狙われており、息子の保護と政敵の失脚を願うものだった。
 遂行に際し、虎一太は万一に備え、丁度背恰好の近い千之助を跡取り息子の影武者に据えることにした。当時まだ十歳であったが、千之助は忍びの技を徹底的に叩き込まれており、経験を積ませる機会としても、うってつけとみなされたのである。
 ところがその道中に、依頼主自らが裏切りを働いた。影梟衆は敵方の刺客の待ち伏せに遭い、混戦の最中に千之助は跡取り息子を連れ、慣れぬ山の中に落ち逃れた。二人が再び姿を現したのはその二日後のこと、予め申し合わせていた落ち合いの場にであった。千之助は満身創痍であったが、息子の方は服装こそ汚れていたものの全く健やかだった。千之助は己の知る限りの知識を総動員して、敵の追尾の目を逃れながら、跡取り息子を護りつつ、生還したのである。

 依頼を終え、里へ戻った後、虎一太は千之助の次期選定について評議にかけた。
 長老衆や周りの幹部たちは当初、虎一太の意向に反対だった。年齢を考えれば当然である。何より唯一の子息だ。試練を受ける機会は一度きりで、ここで認められなければ永久に資格を失う。更には命を落とす可能性だってあった。
 だが虎一太は渋る彼らを説き伏せ、半ば強引に了承させた。元より次期選定は元服前の男児が対象である―――後々不要な争いを起こさぬために設けられた制限だ―――から、資格に問題はない。鉄は熱いうちに打つべしのたとえのごとく、こういうことは早ければ早い方がいいと主張したのである。千之助が本当に試練に耐えうるか幹部たちは極めて懐疑的であったが、虎一太には必ず大丈夫だという確信のようなものがあったらしい。

 当時藤浮家には千之助以外の子どもがいなかったが、次期棟梁選抜には必ず複数名で望ませなければならぬ決まりであったため、元服前の里の子でこれはと思われる者を一人選出して、試練は行われた。三つの試練の内容は最後の一つを除き、基本的に毎回変えられている。どのような課題にするかは当代棟梁の判断にゆだねられるが、総じて言えるのはいずれも苛刻極まりないということだ。誰もがこれは無理だと首を振った。しかし結果は千之助の手に落ちてきた。

 最後の試練、〈彼我の間〉で、千之助は火の海に立つ父の幻を視た。
 どこかの座敷牢のようなところに閉じ込められ炎に飲まれる姿に対し、躊躇い苦しみぬいた末についに背を向け、走った。涙を堪え、決して振り返らず。己を責める己の声に、それでも托された想いを果たさねばならぬと、歯を食いしばって己の心の闇に打ち克った。
 この答えを聞いた時の虎一太はひどく満足気だった。評定の衆たちも、驚きと感心が綯い交ぜになった表情で互いに顔を見合わせていたが、さすがに認めざるを得なかったようだ。
 以来みな、千之助に期待の眼差しを向けてくる。
 それが息苦しかった。父や、その前の棟梁たちも、このような気持ちだったのだろうか。

「確かに〈陽炎〉だけをとっていえば、お前はお前の父に及ばないかもしれん。だが潜在的な能力までもが否定されるわけでもない。我らと同列に比べるにはお前はまだ幼すぎる」

 龍二郎はおもむろに腰の巾着から小さな器を取り出すと、千之助に渡した。怪我の薬のようだ。千之助は申し訳ない気持ちで、少量を取って疼き始めている傷口にそっと塗り込んだ。よく効く薬らしく、ほどなくしてずくずくとした痛みが少しずつ解れて来た。
 鍛錬は厳しく、毎度全身に大小の打撲裂傷を負う。その頻度が一向に減ることがないのが、千之助には己の未熟さ、進歩のなさのようで、臍を噛む思いだった。

「何よりお前はあの試練を潜り抜けた。お前を次期と認めたのは、棟梁の我が子可愛さからではない。我らが、血縁のみの無才の者をこの影梟衆の命運を握る棟梁に認めるほど愚かだと思うか」

 気休めは言わぬ人柄だ。だからきっとその言葉は本心であろう。

「驕りは禁物だが、過ぎた謙遜は卑屈であって美徳とは言わない。己の歩んでいるのが上り坂なのか下り坂なのかも判別できぬ奴はいずれ野垂れ死ぬか足を踏み外して谷底に堕ちるだけだ」

 客観的に己の力を知ること。忍びに求められる意識の一つだ。いわんや、千之助はいずれ頭になる人間である。
 小声で不甲斐なさを謝ると、龍二郎は嘆息ともつかぬ鼻息をつき、不意に何かに反応するとさっと踵を返した。同時に、気づくか気づかぬかという曖昧な気配を感じて目を向ければ、岩裏に人が立っていた。龍二郎は素早く岩を飛び越えその人物に寄る。どうも女のようだが、このようなところにわざわざ現われるということは、色めいた関係というわけではあるまい。龍二郎の様子も事務的で、何か報告を聞いているようだった。推察するに、女は恐らく偵察のくノ一で、龍二郎に何事か申しつけられ動いているのだろう。
 ほどなくして女は短く龍二郎に頭を下げると、瞬く間に消えた。話は終わったらしい。
 戻って来た龍二郎に「何かあったんですか」と伺ったが、返ってくる返事はなく、やや硬い面持ちで沈思していた。元々寡黙な人柄だが、今回の沈黙はそれとはまた別の原因のようだ。
何となくいつもと様子が違う気がする。
 そういえば今日の叔父はいつになく饒舌だった。いつもは寡黙で、必要なこと以外は口にしない。そのことが珍しく、叔父なりに叱咤激励してくれているのかと思うと、少し気分が浮上した。
 普段こうした心の在り方を教え諭すのは大体父の役目だった。
 千之助の心に重く圧し掛かるもの。それは己の到らなさと同時に、次期棟梁であるという事実だった。到底そんな大それた役が務まるとは思えないし、何より常に泰然と構えて皆の尊敬を集めている父を見ていて、己の器を比べてしまうのだ。
 次期の選定を受けた後、千之助はそんな不安を虎一太に吐露したことがある。

「長とはいずれも孤独なものだ」

 その時、いつものごとく茫洋とした口調で父は言った。

「唯一無二の頂に到ることで、その他の者は皆総じて一線を引いて下がる。肩を並べ、腹を割って心根を打ち明けられる相手はいなくなる。たとえ親兄弟であろうと、肉親であると同時に部下だからな」

 確かに実子の千之助でさえ、父であり棟梁である虎一太に、家族の情以上に一里の者として畏敬の念を抱いている。

「寂しくはならないのですか」
「言っただろう。そういうものなのだと」

 頭に手を置かれる。千之助は頭上高くにある、穏やかに微笑むその面を見上げた。

「それでも誰かがやらねばならぬ仕事だからな」
「父上はどうやって孤独に耐えてきたのですか」
「そうだなぁ」

 虎一太は顎を撫で、一度遠くを眺めるように視線をやってから、

「秘訣は友を作ることだったな」
「友?」

 きょとんとした千之助に虎一太は軽快に笑う。存外単純だろう?と。

「俺はかつてかけがえのない友を失った。けれど代わりに別の友を得た」

 その時の千之助には、どちらともが誰を指しているのか皆目見当がつかなかった。今では、一方は分かった。

「ほとんど会うことはなくとも、在るというだけで気持ちは幾分軽くなる。お前も、そういう存在を作るといい」

 ゆったりとしたその台詞を、千之助は今でも心に刻みつけている。
 ピィと声がした。見上げて左腕を挙げれば、羽ばたきの音とともに馴染んだ重みが降りてくる。

「琥珀」

 羽根を広げた大鷲に微笑む。これが今の千之助の『友』だ。
 種族同士の喧嘩で敗れたのか、傷だらけで山中で蠢いていたところを拾って手当てしたのがきっかけだった。今ではこうして懐いてくれている。美しい飴色の瞳が気に入って、琥珀の名を与えた。けれど飼っているというわけではない。琥珀は己の餌は己で獲るし、寝床も自分で確保する。賢い生き物だ。
 けれどその琥珀が、いつになく落ち着きがなかった。忙しなく羽根を震わせては腕の上で足踏みをする。衣を隔てているとはいえ、爪が食い込んで僅かな痛みを生じた。何かに殺気立っている。

「琥珀?」

 こんなことは初めてだ。千之助は怪訝そうに覗きこんだ。

―――!」

 物思いに更けていた龍二郎が、唐突にどこへともなく素早く顎を上げた。筋肉が収縮し、瞬時に緊迫した沈黙を身に纏う。
 遅れて、千之助もいくつもの気配を感じて身を固くした。琥珀が飛び立つ。首を巡らすよりも早く音もなく声もなく駆けだした龍二郎の背を追う。彼らが稽古場として使用していたのは、里をぐるりと囲む山並みのうち、東側の山腹に広がる岩岳だった。身を低くし、凸凹と転がる荒削りな岩の陰に隠れるようにひた走った。
 そして―――

「!」

 彼らの眼の前に、黒い光が飛び込んできた。
 身体を覆う重い具足、天を衝く槍、掲げられた火筒。
 普通ならばいるはずのない群が、たった一つの音さえも立てぬとばかりに、静かに進軍している。
 そしてはためく旗印は―――

(木瓜紋―――織田!)

 千之助の喉がヒュッと鳴った。岩陰にしがみ付いた手に力が籠る。全身から冷や汗が噴き出た。

―――千!」

 後頭部を力強い手で掴まれ無理矢理下げられる。
 後ろにあった岩を投げ刀が削った。
 極度の緊張のあまり喉が詰まる。
 咄嗟に千之助を助けた龍二郎が、間髪いれずに放った苦無が、岩の上に立つ人影を貫く。影はぐらりと傾げ、落ちた。
 敵の斥候。これほど近づかれていたことに千之助は気付けなかった。迂闊すぎた。
 ざわりと向こう側の軍勢が騒いだ。
 ―――気づかれた。

「何奴!」
「見つかったぞ!」
「逃すな!!」

 それぞれ口々に叫ぶや、岩を越え見る間に龍二郎と千之助に迫りくる。足場の悪い地だというのに、かなり訓練された動きだった。精鋭の兵かもしれない。
 いくら戦闘に長けた忍びとはいえ、多勢に無勢。おまけに相手は種子島(ひなわ)まで持っている。
 千之助は声なく龍二郎の指示を仰いだ。どんな事態に遭遇しても、まず声は出してはいけない。敵に要らぬ情報を与えぬためだ。
 龍二郎は忍び刀を抜き構えていた。目線は軍勢に突き付けたまま、吐息のみで鋭く言った。

「急ぎ里へ知らせろ」
「叔父上は」
「俺はここでこいつらを足止めする」
「そんな!」

 互いにしか聞こえぬほどの囁きの応酬。千之助は汗の伝う眼を大きく瞠って叔父の背を見つめた。

「二人では里まで逃れ切れぬ。一人が時間を稼ぐ間にもう一人が行くしかない。どちらが残るべきかは自明の理だろう」
「……!」

 千之助では役者不足なのだと。足止めとは、より多くの時間を稼ぐことに意義がある。
 痛い指摘をされ、千之助は自分の無力さに歯噛みする。不意にその足下に、二つの塊がころりと転がってきた。柄の描かれた漆塗りの小さな器。
 手に取ってから、はっとして顔を上げる。龍二郎は変わらず背中を向けたまま、静かに告げる。

「俺の代わりに返しておいてくれ」

 叔父上、と呼ぼうとした。その鼻腔を、キナ臭さが突く。
 寒気を感じるよりも早く、千之助は岩の狭間に隠れる黒鉄の筒を見た。あっと叫ぶより早く、無機質な口が火を吹く。
 肩の側で石が飛礫と化して弾け飛んだ。
 ほぼ同時に潰れた断末魔が上がり、潜んでいた者が煙を吐く銃口とともに倒れ、消える。

―――叔父上!」

 間一髪で千之助を射程外へ押し退け、手裏剣を飛ばした龍二郎が、脇を抱え僅かによろめいた。ほとんど動くことのない表情が、苦悶に歪んでいる。脂汗がびっしりと額に浮いていた。
 抑えた手の間から、みるみる広がる赤。
 荒い息を吐く龍二郎に千之助は咄嗟に駆け寄ろうとする。

「〈彼我の間〉でお前は何を学んだ」

 耳朶を打った言葉に、ハッと足が止まった。
 龍二郎は千之助を見向きもせず、背を向け再び刀を構えた。鮮血がぽたりと滴り落ちる。
 叔父の後ろ姿が、遠く、大きく映った。

「お前は忍びでありいずれ皆を率いる者だ。なすべきことをなせ」

 言うが早いか、龍二郎は右手で刀を構えたまま、左手の五本指に瞬時に苦無を挟み、向こうへと飛び出した。わあ、と鬨の声が響き渡る。

「叔……!」

 思わず手を伸ばしかけ、声を飲み込む。
 叔父は振り向かず、戦う。
 己の役目は。
 闇に塗りつぶされた部屋で見た幻の中で、炎に包まれる父は何と言った。

『人間はいつか死ぬものだ。それが早いか遅いかという違いでしかない。肝要なのは托された想いを次へつなげること―――忍びの誇りを忘れるな』

 ぐっと眦に力を込める。顎を引き、歯を食いしばる。
 脹脛にありたけの力を込め、千之助は里に向かって駆けだした。“あの時”と同じように。託されたものを伝えるために。
 パン、パンッと、背後で弾ける音。
 それが銃声だと知っていても、決して足を止めなかった。
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