ずしりとした重さを掌に感じながら柄を握り込み、精神を集中させる。目は閉じない。どんなことがあっても、決して眼を閉ざしてはならない―――それは徹底して叩き込まれた心得だ。ただし目のみに頼っているという意味ではない。万一視覚が封じられる事態に陥っても対処できるように、常に五感を均等に研ぎ澄ませている。
 踵を浮かし爪先を滑らせる。そのまま円を描くように草を捌き、音を立てず流れるように歩を踏む。一見舞の型にも似た足運びだが、それは舞の雅さとは程遠い、もっと血腥い目的を持っている。無作為なようで計算つくされた動きは、いわゆる酔拳に通じるかもしれない。けれども生み出される効果は似て非なる。
 一挙一動ごとに、その身体の輪郭がゆらりと空気に溶けた。
 呼吸を一定に保つ。間を図る。
 相手から放たれる気の波を受けながら時機を探った。
 誘うように小太刀の先を揺らめかせる。構え方は決まっていない。剣術の試合ではないのだ。確かに特定の型に固定すれば、やがて手馴れて動きやすくなるかもしれないが、その分敵に出方を読まれやすくなる。彼らは武士ではなく、目的達成を第一とする忍びだ。どのような体勢からでも臨機応変に攻撃できる技術こそが求められた。
 自分の動きに合わせ相手も動く。じりじりと焼けつくような焦燥感と、先制を急かす脅迫観念を押えつけた。
 不意に不可視の波が大きく撓んだ。
 今だ、と緩めた膝の筋を一気に引き絞った。身を一旦沈め、溜めた力を爆ぜさせて飛ぶ。疾風に舞う柳葉を思い描きながら、太刀を繰り出した。
 
 だが、左から切上げた刃先が届く前に、そこにあったはず姿が掻き消えた。
 誘いだと気づき慌てて下がろうとするが、その時には相手の間合いに深く踏み込み過ぎていた。後頭部目掛けて投じられた苦無は辛うじて避けたものの、間髪入れずに放たれた次手を防ぐ余裕まではなかった。
 逃られない。
 己めがけて振り下ろされる得物をただ凝視する。
 一瞬の後に、白刃は右肩の上紙一重の位置で静止されていた。
 止まっていた呼吸が戻り、切れ切れに息継ぎをする。肩口に触れている凶器のせいで肩で息をすることが叶わず、呼吸を覚えての赤子のように無様に喘いだ。気づけば大量の汗を吸った内着が背中に張り付いていた。

「常にあらゆる罠の可能性を念頭に置け。浅慮で動けば命はないぞ」
「はい……」

 すいと突き付けられていた刀が引く。千之助は悄然と俯いた。
 片や佇む方は、汗一つ浮かばぬ眉間を微動だにせず、冷厳な隻眼で彼を見下ろしている。片目を覆う包帯は未だに血が薄らと滲んでさえいるのに、露ほども不具合を感じている様子はない。
 虎一太の手が空かぬ時は、この龍二郎が代わりに千之助の稽古相手となるのがお決まりとなっていた。
 唯一の跡取り息子である千之助は、次期棟梁としての素養だけでなく、藤浮一族の秘伝の技を会得せねばならない。しかし現棟梁である虎一太は常に多忙で、時間の勝手がなかなかつかない。おかげで、回数だけをとれば、虎一太よりも龍二郎に教えを受ける方がずっと多いくらいだった。
 叔父は厳しい人だ。けれども彼の指摘や指導は的を射ていた。龍二郎は間違いなく里で最も優れた忍だろう。千之助は、どちらかといえば龍二郎からは技を、そして虎一太からは心の訓練を受けているような気がしている。

「想定外など戦いの上では言い訳にならぬ。だが心していれば大抵のことは対処できる」

 生と死の瀬戸際、ほぼ瞬間の判断力と勘のみが頼りの修羅場で、相手の取りうる行動の先の先まで思いを巡らせて戦う余裕など皆無に等しい。けれども父も叔父も、歴代の幹部たちもみなそうして生き延びてきたのだ。

「『陽炎』は本来、敵の読みと五感を狂わせ、錯覚を利用して撃つことを真髄とする術。だが、いくら相手の目を眩まそうと、こちらから先に打って出ては結局動きを読まれ、その意義を失う。腕が未熟であればなおさらのことだ」
「申し訳ありません」

 千之助は恥じ入って更に項垂れる。たとえば虎一太ほどの使い手となれば、型通りに後の先や後の後を狙わずとも、先手から『陽炎』で打って出て功を成すことも可能であろう。が、千之助にはとうていまだ無理な高等技術だ。
 未熟。半人前。それ以上に千之助の気を重く暗澹とさせるのは、己への不信感だった。

「叔父上……私は本当に、父上や叔父上のようになれるのでしょうか」

 龍二郎の視線がこちらに向けられるのを空気で感じる。
 目線を足元に落としたまま、千之助はぽつりぽつりと言った。

「いくら研鑽を積んで精進しても、先達の足元にさえ及ぶ気がいたしません」

 才が足りぬのではないか。千之助は正直そう思っている。どのようなものにも上には上がいるが、必ずその上には果てがあり、最上を極めた人々が確かにいる。だが自分にはその高みの一員になれる才能はない。
 視界を半分失って―――当人は不注意で眼を傷つけたと言ったが、里の者たちは驚き、何事かあったのではと訝っている―――間もなく、未だ隻眼での感覚に慣れぬはずの龍二郎に対してさえ、一太刀も浴びせられなかった。
 年齢差、経験値といってしまえばそれまでだが、千之助には根本的に越えられぬ壁を感じてしかたがなかった。
 彼の脳裏には、今もある光景が鮮烈に刻み込まれている。
 それは昨年のこと、紀伊国で虎一太と雷蔵が対峙した場面だ。
 実はあの場に、千之助はいた。といってもあの時は覆面をしていたし、表に出ずあくまで後方の控えに徹するというのが千之助の役割であったから、雷蔵は気づいていなかっただろう。
 あの時、千之助は何よりも己が目にしているものが俄かには信じられなかった。自分の知る中で最高の実力を持つ父。その父と互角に渡り合う者が存在するなど、思いもよらなかったのだ。おまけにそれが、傍目には少年といえる年頃の者(実際には千之助よりも二回り以上違った)だとなれば尚更である。おまけに彼と父は旧知らしく、虎一太は終始雷蔵に対し対等の関係を許していた。身内からすれば破格の扱いである。彼が今や伝説となっている薬叉の雷蔵だと知った時の衝撃は言葉では言い尽くせない。

 あの戦いをどう表現すればよいのか、千之助は未だに巧く説明できない。両者とも動きがあまりに速くて、ほとんど眼で追いきれなかったからだ。ただひどく綺麗だったということだけ印象がある。
 雷蔵の戦い方が極めて洗練されていたとか、そういうわけではない。千之助が目視できた限りで言えば、むしろ基本をまるで無視した変則的な動きで、時折大胆ともいえるほど大雑把だった。しかし隙があるようで隙がなく、大振りな一手だからといって油断すれば意表をつかれる―――そのような荒技を使う。
 片や虎一太はといえば、『陽炎』を巧みに用いながらの流麗な戦いを得意とする。敵を煙に巻いて翻弄するのである。
 全く性質を異にしながら、二人の間には不思議な意思疎通があった。ある種の予定調和とでもいうのだろうか。互いに“結果”は示し合わせていたというが、“過程”は即興ですり合わせつつ、半ばは本気で闘っていたはずだ。けれども双方の一攻一防はまるで完成された演武を思わせ、今でも思い出すたびに息をつめるような興奮が蘇ってくる。
 更に千之助を慄然とさせたのは、父の『陽炎』が破られたことだった。虎一太と実力伯仲していただけでも十分驚きであるのに、秘伝の技までもが躱されたのである。千之助は虎一太がこれまでに『陽炎』を使って仕掛けて仕留められなかった相手を見たことがなかった。そして雷蔵は最初こそ危うげであったのが、最後には確かに見切って見せたのである。

 あまりに偉大すぎる先達たちを前に、千之助は深い感動と挫折を覚えた。次元が違う。画然たる格の違いを見せつけられた。
 あんな風になりたいと思うと同時に、お前には無理だと告げる心の声が聞こえる。
 どう足掻こうとも、生まれ持っての才には敵わない。
 千之助はつい嘆息をこぼしてしまった。
 このような弱音を吐こうものなら、きっと叔父はひどく叱咤するだろう。あるいは呆れるかもしれない。
 だが予想に反し、龍二郎は淡々とした、けれど穏やかな声音で言った。

「そう思うなら一層努力し続けることだ」

 思わぬ言葉だった。千之助は隻眼を見上げた。
 龍二郎は千之助を見てはいなかった。空遠くを見据えている。

「他というのは往々にしてよく見えがちなものだ。相対的に己への評価は低くなる。だが己の弱さを知り、不足を補う努力を怠らなければ、結果は自ずと出る。己に慢心し、実力を過信して自滅する輩よりはよほどいい。それにお前は試練をすべて切りぬけたのだろう」

 そう。千之助は半年前に次期棟梁を決定する三つの試練に望み、見事承認を得た。
 歳にして十一。歴代としては異例の早さである。そうなるに到ったのは、千之助に降りかかったある事件に起因する。
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