隣家人(りんがじん)と 我家人(ががじん)
(ごん)することを (もん)すれば
旅僧(りょそー)(せッ)すと 言すなり
草と()う字の 上とって
山に山を 重ぬべし
山に山を 重ぬべし

―――鹿児島の子守唄



「じゃあこれ、あと干すのお願いね」
「はぁい」

 慣れた足取りでパタパタと洗濯桶を持ち去る女中の後姿を見送り、雲居はふうと一息をついた。春というのに水はひどく冷たい。洗い物をした指先は悴んで赤くなっている。息を吹きかけるが、感覚が麻痺しているためあまり大差なかった。
 頭に被った笠には不断なく粉雪が降り注ぎ、薄い層をなしている。首を巡らせば、辺りは堆く積もった雪で一帯真白であった。
 影梟衆の里は大きくない。限られた人数の中では、たとえ棟梁の妻とはいえども労を惜しむことはできない。むしろ里で最高位の女である自分こそ率先して動き、献身し、里の女の見本となり、女たちを導くべきだというのが、雲居の持論だった。そうすることが夫の助けとなると硬く信じていた。
 再びほうっと息をついた。呼気が白くかたどられる。
 そういえば最近、夫とあまり話をしていない。
 ここのところ何やら大事な仕事が立て込んでいるらしく、昼夜問わず不規則に出入りを繰り返している所為だ。家に戻ったと思うのも束の間、すぐにまた外出してしまい、顔を合わせたくとも間が合わない。特に今は、時間の合間を見ては例の「別邸」に足を運んでいる―――当人曰く「ご機嫌伺い」だそうだ―――から、尚更である。雲居自身も積極的に勧めた手前、不満など言おうはずもない。
 ―――ないのだが。

「仕様がないわよね……」

 心の声が自然と口をついてポロリと落ちる。
 表向きは妾を囲っているという話になっているが、その実は秘密裏に里内に匿うための方便。人目を欺く為、あえて噂を野放しにしているということは、虎一太を含めた当事者から聞かされ、誤解は解けている。だからこそ雲居も迷うことなく、協力しようと思ったのである。

「本当に……」

 勝手口へ向かって歩いていた足が、角の向こうのひそひそ話を捉えて固まる。
 こういう時の女の勘というものは残酷なまでに鋭い。皆まで聞かずとも、話題に大方予想がついてしまう。そしてそれは往々にして予想通りなのだ。悪いものだからこそ、勘はより鋭敏に働くのだろうか。
 嫌だと思っていても息を殺して耳を澄ませてしまう。

「御頭ってば、最近あまりお屋敷で見かけないわね」
「ようやくお帰りにと思っても、休む間もなくまた出て行かれるものねぇ。慌ただしいったら」
「でも聞いた? 噂では、時間さえあれば“例のところ”には足繁く通っているらしいわよ」
「例のところ?」
「ほら、あの」

 首を傾げる女に、潜め声ながらも興奮気味に一人が言う。別邸よ、と。

「何でも、仕事がなければ大抵アチラに居るって」

 ええともわあともつかぬ甲高い声音があがり、誰かが「シィッ」と諌める。

「でもそうなると、奥様はいてもたってもいられないでしょうね」
「表向き明るく振舞われてるけど、あの方ちょっと嫉妬深いところあるものね」
「わぁ、じゃあ裏ではドロドロってこと?」

 明るく残酷なことを口にする彼女たちに悪気はないのだろう。
 しかしその軽い気持ちでの言葉は、雲居の心に氷雪よりも冷たく突き刺さった。
 無意識に胸元を探るように手を触れながら、寒さのためとは違う青白い顔でその場を離れる。
 ともすれば叫びだしたくなりそうなほどの葛藤を必死で押しとどめながら、井戸まで急ぎ足で戻った。両手で木枠を掴む。雪に晒された木肌はひやりと冷たく湿っている。息が上がっていた。白くなった指先で縋りつきながら、中を覗き込む。
 暗い筒の底には凍えるほど冷たい水が凝っている。
 このうちに身を浸せば、心まで凍らせてくれるだろうか。
 虎一太との婚姻は、当人達の意思とは関係ないところでいつの間にか取り決められていたことだった。けれど雲居はそれを一度として不満に思ったことはなかった。むしろ彼の妻になれることを誇りにさえ思っていた。
 雲居は里でも有力な家柄の長女だ。幼い頃から次期棟梁の嫁候補と目されており、そういう意識の下で教育された、いわば許嫁のようなものでもあった。それ故に定められた婚姻に対して抵抗はなかった。早いうちから自覚も芽生えていたというのも、ひとつある。

 何より虎一太は、当時若くして棟梁の座を継いでいたし、人格者として里の人望厚く、容姿も凛々しくあったから、周りは雲居を羨しがった。雲居にとってもまた、憧れていた相手と結ばれることに天にも昇る心地であった。
 そういう意味では婚姻は自分の意思であるといえるだろう。棟梁の妻という重責はあったものの、己の人生を恨んだことは一度としてない。
 それに虎一太は優しい男だ。夫としても人としても尊敬できる。雲居への態度も、常に適度な配慮と尊敬を忘れない。
 しかしその穏やかで慎ましい距離感は、しばしば雲居をもどかしくさせた。
 大切にされてはいるだろう。けれどもどこか一線を引かれ、唯一無二の伴侶として見られていないような気がするのだ。
 もっと愛されていると感じたい。そういう身の焦がれるような欲望のために、妬心が膨れ上がるのを止められない。
 くノ一や他の里娘と親しげに話しているのさえ嫌だった。不安からくる不快感。
 想い焦がれるあまりに、胸が張り裂けそうなほど苦しい。
 浅ましいとは分かっていても。

「大丈夫、大丈夫……」

 呪文のようにつぶやき、浅くなりがちな呼吸を宥める。

「噂は嘘なのよ。里人の目を眩ますための方便なんだから」

 極秘事項だ。囁きであっても、万一誰かに聞き咎められては大変なことになる―――
 わかってはいても、声に出して言い聞かせねばどうしても落ち着かなかった。

「あの人はお務めを果たしているだけ。あの人がやることに間違いなんてない」
「本当に?」

 びくりと雲居の肩が震えた。さっと背筋が寒くなる。

「……!」

 振り返った先にいた人物に、雲居の唇が戦慄く。顔が真っ青に染まった。
 深草色の小袖に、綾文様の帯。年の頃は十五前後の、くっきりした目鼻立ちと白い肌がハッとするような美しい娘だった。濡れたように艶やかな黒髪を浅黄の頭巾で覆っている。
 こんな娘が里にいただろうか。そう広くはない里のこと、雲居は大体の里人の顔を覚えているつもりだったが、狼狽するあまり娘の顔に記憶が追いつかない。
 否、そんなことよりも。
 ―――今の独り言を聞かれた。
 ハッとして左右を見回す。
 すると“彼女”はクスリと笑った。

「安心なさい。私しか聞いていないから」

 雲居は再びその人物に釘づけになる。ゆっくりと近づいてくる足に、思わず後ずされば、肩に井戸の柱がぶつかった。

「でも、貴女は本当に、このままでいいと思っているの?」

 目上であり頭の妻である雲居に対しての不遜な態度。そのことを咎め立てするどころか、気に留めることができぬほど、雲居は動揺していた。辛うじて働いた頭の一部は「誤魔化せ」と命じていた。

「い、言っている意味が分からないわ」

 これ以上下がれないというのに、できるかぎり距離を置きたくて後退しようとあがき、支えを求めるように柱に背を押しつけた。
 逃げ出したいのに、側に寄るその影に身体が竦んでいた。

「しらばっくれずとも結構。私もすべてを知っているのだから」

 目と鼻の先で足を留めた人物は、口角をうっそりと上げた。

「あなたの知らないことも、全部、ね」
「……何のこと?」
「『里の者には妾と勘違いさせておいて、素性を欺き外敵から一時的に庇護している』―――なるほど、確かにそれは真実かもしれないわね」

 いつの間にか、雲居はその声に聞き入っていた。

「けれど、匿われているのが本当にどこぞの深窓の姫君か何かと、本気でそう思っているの」

 いや―――と唇が皮肉気に笑む。

「むしろ、『女』だと信じているのかとお尋ねするべきかしら」
「え?」
「あの屋敷にいる者―――あれは、疫病神」

 疫病神。
 その語彙が、強い印象と不気味さを伴って響いた。

「どういうことなの」

 雲居の声が震える。一体この者は何を伝えようというのか。

「影梟衆を―――貴女の大切な里と、愛しい夫を滅ぼす、災厄の根源」

 ゆったりと告げた面で双眸が鋭く光る。

「このままではいずれきっと、里に大きな禍を呼び込む」
「何で、あなたが」
「知っているかって? この目で見たもの」

 鼻が当たるほど近くに迫った瞳から、雲居は魅入られたように視線を外せない。声色に意識が吸い寄せられる。雪の中に佇んでいたにも関わらず、身体に一欠片の雪も付着していないことの奇妙さにも意識が向かない。

「里を、御頭を助けたくはない?」
「助け、る?」
「そう」

 妖しく甘美な響きだった。

「貴女が少し協力してくれるだけでいい。それだけですべて丸く収まる」
「協力……」

 夢見心地に雲居は耳に入る言葉を鸚鵡返しに唱える。酒を飲んでもいないのに思考が酩酊しぼんやりとする。

「御頭はあの者に騙されてるの。情の厚さに付け込まれて、危ない橋を渡ろうとしている。貴女が救ってさしあげなければ」
「私が?」
「ええ。他でもない、“貴女”が」

 凄艶に唇を上げ、ゆっくり、重く囁いた。

「貴女の心一つで、すべてが上手く行く。そうすれば御頭は必ずや貴女に感謝し、貴女だけを見つめるようになる」

 巧妙に主旨がずらされていることに、雲居は気づかなかった。ただただ甘く優しい言葉を紡ぐ口唇のみを見つめる。傷ついてじくじくと血を流す心に、耳触りの良い文句が心地よく沁み込んで、痛みを麻痺させる。それは雲居が欲していた言霊だった。
 ―――あの人が、喜んでくれる。見つめてくれる。私だけを?

「何をすれば……いいの?」

 とろんと、恍惚とした様子で、雲居は訊き返していた。
 耳元に吐息がかかる。白く冷たい指先が、項に伸びる。

「とても簡単なことよ―――

 井戸の端に、主のいない蜘蛛の糸が煌めいていた。
前へ 目次へ 次へ