長い昔語りの終わりに、雷蔵はつと口を開いた。

「君は忍び頭にはなりたくなかったのかい」

 虎一太は「さあ」と、他人事のごとく小首を傾げる。

「なりたいなりたくない以前の問題だったような気がする。当時の俺にはまだ棟梁という存在に確たる概念を持っていなかったからな。ただ漠然と、きっと選ばれるのは龍二で、自分は蔵方なり何なりになれればいいと思っていた」

 今現在、棟梁として聞え高い実績を誇る者の科白とは到底思えない。
 けれども、虎一太の言い分も無理からぬことだ。元服すれば一人前と見なされるとはいえ、実際にはたかが十数歳やそこらの子供。信念や理念を抱けという方が難しい。況や、隠れ里の命運を背負うなど。

「未だに俺で良かったのかと疑うことがある。何とかやってはきているが、本当は龍二の方が俺より上手く皆を導けていたのではないかとな」

 笑いながら言うその表情には、言うほど苦悩や自虐は見受けられなかった。一つの可能性として思うことを口にしただけ、というところだろう。

「もしもの話をしたところで詮無いことだね」

 雷蔵は左手を軽く振り、諦めた風に琵琶を横に置いた。やはり弾くには傷が痛むらしい。

「実際に選ばれたのは君で、いま頭を張ってるのも君だ。そして現実に、影梟衆の名声は変わらず衰えていないし、里の人々も棟梁殿に全幅の信頼を置いている―――それが動かぬ事実だろ」

 積み上げてきた結果は、今ここにあるすべてのものに実証されている。

「どうであれ、やっぱり君は向いていたんだと思うよ」

 瞳を落としてしみじみ笑った雷蔵に対し、虎一太は不思議そうにしている。

「何故そう思う?」
「何となくかな。何にせよ俺としては君が棟梁で助かったよ。でなければ色々と世話になることもなかったし」

 「ついでに迷惑をかけられることもなかっただろうけど」と皮肉を添えることも忘れない。それでも棟梁がこの男でなければ、影梟衆とのこうした付き合いはありえなかっただろう。京里忍城を落ち、手負いで影梟衆の里に辿りついた雷蔵を訳も聞かずに匿ったのは、虎一太の義侠心の為せる裁量だった。この点で比べれば、龍二郎はきっと融通の利かない人柄であろうから、万一にも里に累が及ぶ危険の方を避けようとしたに違いない。尤も、そういう結目の堅さは上役としては正しい姿勢ではある。
ざっくばらんな物言いに、虎一太は珍しく朗笑した。

「いいな。お前のそういう竹を割ったようなところが羨ましい」
「なんだか褒められている気がしないなぁ」

 雷蔵が釈然としない面持ちで首を傾げる。

「いいや。心底感心しているんだ、これでも」

 仄かな微笑に替えて、虎一太は実感を込めるように瞳を細めた。混じりけのない、深い響きだった。

「君でも弱気になるもんなんだね」

 悩みなんてなさそうなのに。
 あまりな言われようにも、男はやはり気を害することなく、肩を竦める。

「情けないところを見せてしまったな」
「今更なような気もするけど」
「弱音ついでに、もう一つ内緒話をしてもいいか?」

 冗談めかした小声に、雷蔵は溜息を交え淡白に返す。

「酔狂だね。……何だい?」

 なおざりな態度にもめげずに虎一太は、

「ここだけの話、今でも忍びとしての己の生に鬱屈が全くないわけではないんだ」

 随分と穏やかな告白だった。口ぶりからはあまり言葉通りの屈託は感じられぬものの、これまでの話を鑑みれば意外なことでもないと雷蔵は思う。
 影梟衆は忍びの中では異端だ。通常冷酷非道も辞さずに志を達成するのが忍びの性とされる中で、影梟衆は悪に徹しきらない。その仁義の縛りが足枷となって苦難を強いることもしばしばだろう。
 算術を極めたかったと語った虎一太。確かに彼は影梟衆の棟梁の器であったが、その他の生き方もできたはずの人物であった。

 ―――お前ほど忍びに向いていて、誰よりも向いていない奴はいない。

 つと佐介の言葉が脳裏をよぎった。

「それでも決して厭わしいわけではない。里を愛しているし、恐らく俺はこの後も忍びとして生き、死ぬだろう。そのことに迷いなどない。―――ただ一つ、心残りがあってな」

 秘密をこっそり打ち明かすように、虎一太の瞳が、茶目気を帯びた。

「お前は己の死を想うことはあるか」

 前触れのない俄かな問いかけであったが、唐突な感じではなかった。答えを求めるというより、語りかけるに近い静かな語調のためだったかもしれない。
 だから雷蔵も、軽く逡巡をしてから答えた。

「いずれ来たるものと思っている程度で、特別深く考えたことはないね」

 これまた他人事よろしい返答に、お前らしいなと虎一太は言い、瞼を伏せた。

「最期は音もなく匂いもなく―――それが忍びの定め。死する時は気配を遺してはならぬと、そう聞いてきたし、俺もそういうものだと思っている」

 去りゆく時は密やかに、後には何も残さない。存在がなかったかのごとく、記憶も、形跡も、生きていた証さえも消し去る。最後まで日蔭者に徹することこそが闇に生きる者のさだめ。
 どさりと、遠くで雪が落ちる。いつの間にか沈々と夜が更けていた。雪の降る幽かな音さえ聞こえてきそうなほどの静けさだった。
 暗中に、積雪が霞のようにぼんやりと青白く発光している。その薄闇の先を見据えるように、虎一太は双眸を遠くへ投げていた。

「だがもしも叶うのならば―――死んだ時に、誰かに泣いて欲しいと思う」

 ほんの僅かでいい。密やかでも構わない。誰かの心の片隅に留めてもらえたなら。
 欲と言うにはささやかな、他愛のない願い。

「別に、内緒にしなければならない望みでもない気がするけど?」
「去りゆく者を悼んではならないとするのが影梟衆古来の戒めでな」

 『彼の死に涙すは恥辱と知れ』。影梟衆の民に須らく掏り込まれる教えだ。

「親父が死んだ時、里の者は一人として涙を見せなかった。それこそが死者への弔いだと、俺も龍二も、皆そう言い聞かされて育った」

 それは厳格にして厳粛な掟。殺しを生業とし、不合理の血に手を染めた者の死を、嘆いてはならないと戒める。まったく 馬鹿がつくほどに義理がたい。
 伏せられた虎一太の面が緩く影を作る。

「だから俺のコレは掟破りの願いだ。本来ならば心に思うことすら許されない。それでも望まずにはいられない」

 片掌を見下ろし独白しながら、五指を何かを掴むように柔らかく握る。

「俺が死んで、誰かが悲しみ、涙してくれるなら―――俺という人間の生きた証を刻んでくれるならば、それだけで悪くない人生だったと思えるだろう」

 「まあ叶うならばだが」と虎一太は垂れていた項を持ち上げ、明るい調子で付け加える。
 横目で見ていた雷蔵は瞳をわずかに訝しげに眇めた。

「何故それを俺に?」
「何故だろうな」

 虎一太は相変わらず輪郭のぼやけた笑みで煙に巻き、すぐにまた面を庭へ戻した。

「きっと、聞いてもらいたかったんだろう。里の者には聞かせられぬからな」

 内密に頼むぞ、と口に手障子を立て、楽しげに囁く。

「俺では聞かせ役には不適格だと思うけど」

 雷蔵の視線も表情も、分からないとばかりの色を湛えている。
 虎一太が何故このような話を自分にしたのか。
 人選としては外れもいいところだ。

「そうでもないさ」

 妙に確信を込めて、虎一太は力強く否定した。

「目下、俺と対等に話せる人間はお前くらいしかいないからな」

 他者は棟梁に傅き、粛々諾々と命令に従う。虎一太は里内で最高位となった代わりに、打算や気兼ねなく付き合える知己も、腹を割って本音で語らい合う朋友も失った。それは上に立つ者の孤独だった。
 だが雷蔵は違う。かつては同じ世界に身を置いていた者であり、そして時が時ならば、虎一太同様頭目に立って忍び衆を率いていたはずの立場だった。同時に今は、忍びでなく、影梟衆でもなく、といって一般人でもない。いわば生きた『無縁の地』。だからこそ柵に縛られず胸襟を寛げられる。
 そういえば伴天連たちにより持ちこまれ、天草で倭語に訳し出版された『伊曽保物語』なる昔話に、井戸へ胸内の秘密―――王の耳が驢馬だとかなんとか―――を吐露するというものがあった。
 勝手に井戸代わりにされた雷蔵は気持ち迷惑そうにしたが、特に不平は言わず、代わりに「やっぱり変わった男だ」と味気なく鼻を鳴らしただけだった。
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