一体何が起きたかは判然としない。
 ただ別邸の内にいた雷蔵は、その時異様な気配が辺りに充満するのを察知した。妙な胸騒ぎと鳴り響く警鐘。何かが急速に膨れ上がるような感覚があったかと思えば、一挙に破裂し、爆発音が轟いた。
 迷わず表に飛び出すと、雪を吹き飛ばす勢いで、火柱が竜巻のごとく巻き上っていた。
 時をおかず、俄かに地を揺るがして湧いた雄叫び。
 突如として現われた軍影に、忍びたちは慄きながらも、敵襲を察して臨戦態勢に入ろうとする。
 一方で異常な勢いで巡る炎が里の者を追い立てていた。

(この火)

 あちらこちらから襲いかかる火焔に独特な違和感がある。これは術の気配だ。
 何者かが火を操っている。
 逃げる者と交戦する者が交錯して入り乱れ、里内は嵐のような騒ぎになっていた。
 耐えきれず崩れ落ちる建物と、舞い散る火の粉に、悲鳴や怒号が喧々囂々交じる。
 こうなっては忌憚や差障りなどと言っていられない。状況を把握しようと里中を駆けていた雷蔵は、やにわに横合いから迫った殺気を捉えて、素早く屈んだ。
 頭上を空振りした刀に一瞥を向けることもなく、凶手の小手に回し蹴りを放った。うっ、と呻いて怯んだ戦鎧の懐に一瞬で肉薄し、腰の脇差を掴むや、抜刀と同時に切り裂いた。断末魔を上げる暇さえなく絶命した男を見下ろし、雷蔵は眉を顰める。この鎧、どこかで―――
 ハッとして顔を上げ、敵の姿を探す。彼らが背に取りつけた旗印に、かすかに瞠目した。
 五弁の花を重ねた、木瓜。
 これは織田の陣紋だ。
 飛んできた矢を無造作に払い除け、雷蔵は地を蹴った。目に付いた織田軍の武士を一刀の下に斬り伏せながら、炎を避けて、戦闘不能な里人を逃す。

(どうしてこれほど近くまで迫っていたことに気づかなかった)

 解せぬ謎を繰り返し唱える。
 虎一太はかなり慎重に信長の動きを注視していたはずだ。
 心中で思索する内に、ある可能性に至る。
 ―――目晦ましの術か。
 敵方にはこの大雪を降らせた桁外れの術師がいる。兵士を隠形させて密かに近づけさせたことは充分ありえた。
 だがそのわりに一見して兵数が少なく、心持ち足並みが鈍重なのは、山深くに積もった雪に梃子摺ったためだろう。特に雪山は雪崩の危険があるから大群を一息に投入することはできない。降雪をあえて止めなかったことが効を奏したようだ。
 しかしこの状況では、あまり喜んでもいられない。
 何といっても厄介なのはこの炎である。
 雷蔵は懐にある巻物を衣の上から強く抑えた。この火を消すには相応の呪力が要るが、今の雷蔵にはそこまで〈秘伝〉を操る力が戻っていない。〈気涸れ〉は未だに尾を引いていた。
 ほかに術を止めるには術師を討つしかないが、術師自身がこの戦場に居るとは限らなかった。むしろ外の、安全で見晴らしの良いところから仕掛けてきているだろう。
 かくなる上は、少しでも里人を避難させるしかない。
 泣き叫ぶ子どもを倒壊しかかる家屋から救い出し、母親に預けた雷蔵は、背後から腕を取ろうとする気配に素早く反応した。
 間を取って振り返った先に、見慣れた顔を見つけた。

「薬叉?」

 不知火だった。彼は片手に刀を下げ、全身を煤と返り血で染め、汗を張りつかせながら、軽く息を上がらせている。悪鬼の形相だったが、見開いた目には理性の光があった。唇が「何でここに」と動く。
 そういえば前もこんなことがあったなと、雷蔵は眼裏の奥で、重なる過去の光景を見た。

「おい、一体どうなってるんだこれは! 何でいきなり織田軍が攻めてきやがった。くそ、何が起こってるんだ」

 動転しているのか興奮して捲し立てる不知火に、雷蔵は冷静に対した。

「恐らく、何者かが俺のことを織田方に密告したんだろう」
「何だって? 何の話だ」
「織田は影梟衆を潰したかったんだよ。京里忍城の残党である俺は恰好の口実ってわけ」

 虎一太が受けた依頼や取引のことはざっくりと省く。必要な説明ではなかったし、不知火には骨子が伝わればいい。

「裏切り者がいたってことか? 一体、誰が」

 不知火は狼狽していた。信じられぬと、揺れる瞳が訴えている。

「俺と接触していて、妾などという噂が虚偽であることを承知しているのは、三人だ。君と、棟梁殿の奥方と、そして弟御。この中で俺の正体を知り、なおかつ織田との確執を探りえた人物となれば、限られてくる」

 最初から承知の上である虎一太や、裏事情を知りようのない千之助は省く。
 不知火は奥州の拠点の監督役についており、隠れ里の移動は織田とのいざこざが原因である。また龍二郎は虎一太が隠し事をしていることに感づいていた。密かに探りを入れていた可能性は十分にあった。

「俺や龍のアニキが織田側に密告(チク)ッたっていうのか!?」

 今にも掴みかからんばかりの剣幕で吼えた不知火に、雷蔵は「あくまで可能性だ」と言い置いた。だがそうは言いながら、雷蔵は不知火ではありえないと直感的に確信していた。不知火は頭は良くないが、決して虎一太や里を裏切る真似だけはしない。

「今は犯人捜しに割く時間はない。ただ警戒だけは怠るな。それより、棟梁殿は?」
「御頭は雪に埋もれた脱出路の確認で、外出中だ」

 計ったように間が悪い。だがその近さならば里の危機を察知してすぐに戻ってくるだろう。

「とにかく里人の避難が先だ」
「分かってる。いま若衆を総動員して抜け道から脱出させているところだ」
「俺がいたあの邸だね」

 不知火が愕然と瞬いた。何故お前が在り処を知っている、といったところか。

「地下の座敷牢で地中に通じる道を見た。すでに道行で会った何人かには、そちらに逃げるよう指示してる。あそこには結界を張ってあるから、しばらくは持つはずだ。君は誘導に回れ」
「てめえの指図なんざ聞く義理はねえ。俺は奴らと闘う」
「君は奥州の里を任されているんだろ。澪引き役の君がいなくなっては、逃げ延びた者たちが行き場を失う」

 正論で詰められ、不知火は悔しげに唇を噛んで唸る。

「関わってしまった以上、こちらのことは俺も何とかする。君は君のすべきことをしろ。―――棟梁殿ならそう言うと思うよ」
「畜生っ!」

 歯軋りをして、不知火は吼えるように天を振り仰いだ。そして双眸で強く雷蔵を射抜く。だが燃え立つ眼光とは裏腹に、その奥には縋るような色が宿っていた。

―――もし皆を見捨てたりしたら承知しねえ」
「全力を尽くそう」

 淡く微笑い、互いに踵を返した。
 途中、戦闘で地上に散乱した苦無をいくつか拾い上げて帯に差した。薬も忍ばせてはいるが、敵味方混戦状態では香の類は使えない。
 薄い空気に呼吸を調整する。炎の回りが早すぎる。最早墨守は不可能だ。この里は捨てるしかあるまい。長く留まっていれば、火の気に中てられてしまう。
 人のざわめきがある方を目指す。織田軍と、圧倒的少数の忍びが衝突している。
 さすがというべきか、少数精鋭というだけあり影梟衆は一人一人の技量が優れて高い。手傷を負った者も少なくないが、並みいる兵たちをよく食い止めている。命を狙って襲いかかって来た時点で、影梟衆にとっては“堅気”ではない。躊躇いなく容赦のない迎撃を加えている。正攻法の訓練しか受けていない武士たちには荷が勝ちすぎる相手だろう。だが一方で、絶え間なく上がる鉄砲の音が、優劣をつけ難しくしていた。
 音が鳴り、何人かが斃れた。殺傷力の高い飛び道具は、忍びたちを圧倒せしめるに充分な威力を発揮する。
 雷蔵はその鉄砲隊に向かって走駆した。
 間をすり抜けるように一陣の疾風が吹き抜けたかと思えば、遅れて赤い血飛沫が舞う。一瞬の間の手際に、影梟衆の忍びたちさえ目を丸くしている。

 織田軍はなおのことである。兵は目を白黒させながら、頬を恐怖にひきつらせた。一人が慄きながら奇声を発して照準を向ける。その銃口へ、真っ向から突っ込んでいった。
 避けることは容易いが、後ろの誰かに当たらぬとも限らない。弾丸を見切れぬこともないが、真っ二つに断ったとしても、弾の直径と飛ぶ速さを計算すれば、自分自身に破片が当たる可能性がある。
 黒い筒の口が火花を放った瞬間、雷蔵は持っている苦無を斜めに振り払った。
 苦無ごと叩き飛ばされた鉛弾が、少し離れた地面にのめり込むのを視認した者はいなかった。
 悲鳴を上げる射手の背後に瞬時に回ってその首に腕を回す。音と感触があり、白目を向いた身体が崩れおちた。
 あまりの常人離れした身のこなしと手捌きに、戦意を挫かれた兵たちはそれぞれ火縄銃を棄てて背を向ける。そこを逃さず影梟衆の手裏剣が襲いかかった。

 辺りを見やり、目下の敵を殲滅したことを確認すると、雷蔵は残っている忍びの衆に件の別邸まで行くよう告げた。彼らは突然現われた見知らぬ助っ人に困惑していたが、敵ではないことを悟って何も言わずに頷いた。
 彼らが一人残らず駆け去るのを見送り、雷蔵もまた他に逃げていない者を捜すべく足を向ける。ずきりと傷が疼いて熱を持っていたが、気を逸らすことで痛覚を麻痺させた。
 別邸を目指す里人を援護しながら、追わんとする武士を牽制する。やがて生きている人間を目にする回数が減り、敵味方の死体ばかりが残った。殺された者も、火に巻かれた者もいた。動いている者は、逃げ遅れた者を探して忙しなく右往左往する影梟衆の若衆くらいだった。その彼らにも退避するように言う。
 炎の勢いが止まらない。このままでは呑まれてしまうのも時間の問題である。術師は里ごと灰燼に帰すつもりかもしれなかった。
 頭上に圧迫感を感じ、見上げる。ガラガラと大きな音を立てて建物が屋根ごと雪崩れ落ちてくるのを、後ろに退いて避けた。
 カタリと背後で物音がした。雷蔵が振り返るのと、「薬叉か」と声が上がるのは同時だった。

「棟梁殿」

 燃え上がる瓦礫を掻きわけるように現われた長身に声をかける。虎一太もまた、全身を煤だらけであった。やはり斬り合いをしたのか、衣に破れもある。しかし無傷であるのは分かる。

「無事のようだな」
「互いにね」

 降りかかる火の粉と木片を避けながら傍らに立つ。

「何故さっさと逃げなかった。邸の地下通路には気づいていただろう」

 少し咎めるような語気に、軽く笑い返す。

「まあ成り行きかな。―――おっと」

 吹きあがった火柱に、顔を背ける。熱風が頬を撫でた。

「生きている人は皆ほぼ脱出したと思う。不知火が誘導している。俺たちも早く離脱した方がいい」

 そうか、と言ったきり、半身を翻した虎一太を雷蔵は訝しげに振り返る。

「棟梁殿?」
「先に行け」

 虎一太は短く告げる。炎の巻き起こす風に煽られて、ざんばらの髪が揺れる。

「俺はもう少し見回って、逃げ遅れた者がいないか確認していく」
「今からかい」

 雷蔵の目が細められる。

「この火はただの火じゃない。屋敷に張った結界もそろそろ限界だ―――これ以上すれば逃げられない」

 虎一太は微笑った。いつものように茫洋と、仄かな月暈のように。

「俺は影梟衆の頭だ。最後まで里に責任がある」

 お前は先に行け、と横を向いたまま言った。

「お前まで引き摺りこんでしまったのは俺の責だ。この上、影梟衆のことまで背負わせるわけにはいかぬ」
「この状況で今更どうこう言っている場合じゃないだろ」

 それでも虎一太は頑なに譲らなかった。

「薬叉、『力』はまだ残っているか」

 その意味するところを察して、怪訝に思いながらも「少しなら」と答える。

「ならばお前に頼みたい仕事がある」
「仕事?」
「ああ。抜け道に至ったら、邸ごと崩して入口を塞いでくれ。道も、二度と辿れぬよう完全に潰して欲しい」
―――死ぬ気かい」

 雷蔵は物思うようにその姿を見つめ、声を低めた。

「そんなつもりではない。確認し終えたら適当に逃げる。一人ならどうとでもなるさ」
「それなら二人でも大差ないだろ。むしろ手が多い分、早く終わる」
「なんだ、信用してないのか?」
「君は詐欺師だからね」

 茶化すような軽い物言いを、雷蔵は呆れた様子で鋭く切り捨てる。

「分かっているはずだ。上に立つ者は一より百を取らねばならない。―――君の命は天秤にかけられない」

 今の影梟衆にはまだ絶対的な指導者が必要だ。こんな事態だからこそ特にである。頭を失った手足はあまりに脆い。
 何を感じたか虎一太はしみじみと視線を返した。

「やれやれ、本当に変わったな」

 そうぼやく。かつての雷蔵であれば虎一太の身や影梟衆を案じたりなどすることはなかっただろう。

「だからこそ言うんだ」
「棟―――

 虎一太の笑みを目にし、雷蔵はふと口を噤んだ。

「俺にとって、お前は憧れだった」
「?」

 こんな時にいきなり何をと雷蔵の眉が訝しげに顰められる。

「俺の持ち得なかったものをすべて手にしていた」

 卓越した能力も、超然たる精神も。
 そして自由も。

「お前が羨ましかった―――俺にはあまりにも、捨てられないものが多すぎたからな」

 逸らした先で自嘲気味に苦笑し、虎一太は一つ瞬いてから目を戻した。視線を真っ直ぐに投じる。

「だから、これは俺の詰まらぬ意地だ。仁義を信義とする影梟衆の矜持にかけて、“徒人”のお前を俺たちの命運の道連れにはしない」

 雷蔵には虎一太の理屈が理解できない。表情にいつにない微かな困惑の色を帯びる。

「それに見てみたくもある。自由を手にした忍び(おまえ)が、この先何を見つけるのか」

 京里忍城を落ち延びて以来、この十年間で雷蔵は確かに変わった。まるで失っていた何かを取り戻そうとするかのように。
 忍びは所詮忍び。死ぬまでそれ以外の者にはなれぬという。ならば彼はどうだろうか、と。やはり柵からは逃れられぬのか、それともその他の生き方ができるのか。その行きつく先を虎一太は見たかった。証明してもらいたいのだ。
 自分の代わりに。

「お前は生き延びろ」

 願いと思いを込めた、強い言霊だった。
 心凪いだ、穏やかな瞳を、雷蔵は見つめ返した。この眸を知っている。強い信念を以って“覚悟”を決めた者はみなこうした眸をする。あの日、牢の中の与市も、そして炎の中に継承の儀を終えた洽もそうだった。

―――……」

 唇を結んだまま、やがて瞼を伏せ、静かに息をつく。
 心を決めた人間には、どんな説得も無効だ。

「つくづく難儀な男だね。―――馬鹿につける薬ばかりは、俺にも手に負えない」

 どんな名医も匙を投げる、死んでも治らない病だ。

「すまないな」

 幾度目ともしれぬ謝罪と苦笑を、虎一太は唇に上らせた。
 その彼とは相対する方へ、雷蔵は身体を向ける。

貸し(ツケ)とくよ」

 擦れ違いながら言う。それは、借りはいつか返せという意味だったのだろうか。

「ああ」

 応じる声音は微笑を含んでいた。
 互いに(さき)だけを目指す。振り向くことはなかった。
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