「完全な闇の中と言うのも奇妙なものでな。段々自分がどこにいるのか、天地さえもが曖昧に感じられてくる。ついでに何もすることがないとなると、ただ坐してぼんやりするしかない。そのうちに色んなことを考え込んでしまう」

 虎一太は雷蔵にそう語った。その大らかな口ぶりからはそれほどの苦労も大変さも伝わって来ない。

「己の心を映す間だと言ったけど?」
「ああ、そうらしい。だが実は俺もよくは知らんのだ」
「何で?」
「丸一日そこで眠りこけていたからな」

 さすがに雷蔵が呆れた。

「寝てたのかい」

 能天気というべきなのか、豪胆というべきなのか。
 虎一太は言い訳するように答えた。

「それまでの苦行の連続で疲れていてな。暗くなると睡魔には勝てなかった。だが龍二はずっと禅を組んでいたようだ」

 龍二郎が闇の中でひたすら何を思っていたか、虎一太は今でも知らない。ただ己の心と向き合っていたことは間違いない。自問し悩んだ時に、彼我の間の仕掛けが作動する。龍二郎は己の心が造り出す幻を目の当たりにした。そしてそこで選択を迫られた。




 龍二郎は凍える清水を掬い傷口を漱いだ。暮れゆく山の中は静けさに押し包まれ、大気はきんと霜が張ったように冷たい。凍てついた川水に手を浸せば無数の細針に突かれるように痺れ、すぐさま指先が悴んでくる。硬質な風が肌を刺す。春だというのに、冬に後戻りしたかのような寒さであった。
 白い息を見つめながら龍二郎はふと追想した。ここで虎一太とともに山頂を目指したのは十七年も昔のことだ。川の流速に、時の過ぎゆく早さを重ね合わせる。
 あの最後の試練、彼我の間で、龍二郎は『夢』を見た。それは、棟梁となって影梟衆を率いる己の姿。現ならざる夢。願望が見せた幻想であった。
 一郎太から「己の心を映す」と言われていたことで、知らず意識してしまったのか。今思えば恐らくそれが一郎太の狙いでもあったのだろう。あるいはあの間には予め幻術が施されていたのかもしれない。いずれにせよ、龍二郎は罠にかかったのだ。しかし幻想を見ている間、龍二郎にはそれが罠であることはおろか、幻であるという自覚さえなかった。

 『夢』の中で龍二郎は森の中を急いでいた。後ろには同胞が一人つき従っている。それは現実に龍二郎と親しく付き合いのある者だった。更に自分たちの後から追手が迫ってきていた。
 疾走の最中に、同胞が不自然に横転した。急ぎ足を止め助け起こすと、仕掛けに嵌まり足の腱を負傷していた。
 これ以上の走行は叶わない。肩を貸していては追いつかれてしまう。任務を取るか仲間を取るか、選択を迫られていた。
 同胞は龍二郎を頭と呼んだ。自分のことは捨て、先へ行けと。龍二郎は逡巡した。任務最優先は忍びの絶対原則だ。情に流されて破滅することを忍びは最も忌む。だから徹底した非情の理があった。

 そして、龍二郎は踵を返した。同胞に背を向け駆け出す。迷っている時間はない。だから即座に合理的に割り切った。
 だが暗い木立の最中でもう一人の自分が問う。それで良かったのかと。本当に正しかったのか。影梟衆の理念はどうなるのか。仲間を見捨てて義を謳うか。部下一人守れぬ頭とは一体何なのか。

(迷うな。これで良い)

 拳を堅く握り込むことで迷いを断とうとする。

(詮無いことだ。忍びなれば、命を賭して使命を果たすべし―――それが心得。だからこれは間違いではない)

 しかし疑心はやがて人の形となって龍二郎の行く手を阻んだ。

『本当にそう割り切れるのか?』

 己と瓜二つの姿をした者が立ちはだかっていた。
 “それ”は嘲笑うように龍二郎を見ている。
 立ち止まった龍二郎は、目を大きく開けながら、己の血の流れる音を聞いていた。地底を這う熱泥のようでありながら、凍えるほど冷たい。

『己で言い聞かせなければ自らを保っておけぬような者が、何を根拠に間違っていないと言いきれる?』
「……黙れ」
『仲間を見捨てることは義に悖ることではないのか。そのようなことで皆を束ねる資格があると本気で思って―――
「黙れ!!」

 己の映し身へ小太刀を抜く。白刃の輝きに後押しされるように、龍二郎は両手で振りかぶった。
 嘲りを浮かべている己は、凶刃を前にしても余裕の態度を崩さずに笑っている。それが目につき非常に忌々しかった。

「消えろ!」

 唐竹割りに振り下ろすと、小太刀はその真中を引き割いた。しかしそこに肉の手ごたえはない。まるで霧を斬ったようにいかほども抵抗感なく、そして刀の透った軌跡も残らない。

(くそ!)

 どうなっている。これは一体何だと言うのだ。

『迷いがあるのだろう』

 幻影がにやにやと笑う。

『迷いのある者に誰がついてくる』

 言葉を発するたびに斬った。それでも声は止まない。

『もしも道を違えた時、お前を信じ従う者達はなおお前を頭と認めるかな』

 薙ぎ、裂き、払い、突き―――龍二郎は型など考えず闇雲に小太刀を振った。
 聞くな。消せ。疑うな。迷うな。
 身体の底から雄叫びを挙げた。
 にわかに正面から光が差した。
 強い輝きに瞳を閉じる。
 だが身体の動きは止まらない。
 その腕を後ろから誰かが制する。

「放せ! 消えろ!」

 耳元で誰かが喚いている。

「龍二郎! しっかりしろ」

 やがて鼓膜に届いた声に、龍二郎ははっと我に返った。
 気づいた時、自分は腰の刀を抜き放ち、誰かに斬りかかろうとする格好のまま、大人二人がかりで抑えられていた。
 森の中にいたのではなかったのか。追手は。あの幻影は?
 何が起こったのか、混乱に凝った頭では考えられない。
 羽交い締めにされたまま、はあはあと肩を上下させる。

「落ち着け龍二郎。お前は虚構を見ていたのだ」

 不意にかかった声に、ようやく顔を上げる。燭台を持った一郎太が厳かな表情でそこに立っていた。

「虚構……?」

 ぼんやり鸚鵡返しその単語を舌の上に転がす。五感の感じ取るすべてが鈍かった。
 では今まで見ていたあれはみな―――
 手から力が抜け、だらりと垂れる。小太刀が落ちる音が遠くで虚しく響いた。

「言ったであろう。この部屋は己の心を映すと」

 灯りに半分を照らされる一郎太の面が淡々と告げる。解放された龍二郎は床に両膝をつき、項垂れるようにして、仄かに浮かび上がる木目を見つめていた。
 すべてはまやかし。
 一郎太は外に控えている配下に顎をしゃくる。

「虎一太も呼べ」

 それから放心している龍二郎に、〈儀の間〉へ来るよう言い置いた。〈儀の間〉は屋敷奥に位置する会議に使われる一間だ。

「最終試問を行う」

 一郎太の声が、洞に吹き込む寒風のごとく響いた。
 そしてほどなく、〈儀の間〉に集った幹部連中と、中央に並んで座する虎一太と龍二郎を前に、上座に胡坐した一郎太の姿があった。

「二人ともこの試練によく耐えた」

 一郎太は開口一番、まず二人を労った。簡素な言葉だったが、込められた重みと暖かな眼差しに、それまでの苦労が報われるような、胸のすく思いがした。そういえば一郎太は、厳しくはあっても機嫌を曲げたり怒鳴り散らすようなことをしたことは終ぞなかった。もちろん誤ちを犯せば叱りはするが、怒りはしない。常日頃より穏やかで大らかな人物だった。余程の事がないかぎり声を荒げることは滅多にない。だからこそ皆に慕われていた。

「龍二郎」
「はい」

 正妻の子として上位の左側に端坐した龍二郎に、一郎太は問いかけた。

「嘘偽りなく、事実のみを答えなさい。〈彼我の間〉でお前は何をし、何を見、そして何を思った?」
「……私は―――

 龍二郎は己の経験したものを語った。坐禅を組んで精神統一をしているうちに、幻を見ていたこと、そこでは己が棟梁となっていたこと、部下を犠牲にして使命を取ったこと、迷った果てに己の姿をした幻影に責められたこと、その幻影に斬りかかったこと―――
 どこが審議査定の基準になるかなど分からない。だからただ事実を述べる。
 一郎太は話の最中も、そして話終わってからもしばらく、じっと瞑目していた。
 やがて何かを心得たように頷くと、今度は虎一太の方を向いた。

「では虎一太。お前はどうだ」

 虎一太はどこか言い辛そうに視線を泳がせていた。「ええっと」と歯切れ悪く言葉を探している。

「話では、呼びに行った時、お前は寝ていたそうだが」

 その一言に、虎一太が観念した風に眉を落とした。
 しかし、隣の龍二郎は衝撃を隠せずにいた。
 ―――寝ていたと?
 自分が闇に塗りつぶされた中で気を張りつめさせ、必死でもがいていたというのに、壁の向こうで虎一太は呑気にも眠り呆けていたというのか。

「すみません……」

 言い訳はしなかったが、疲れのせいでつい、と言った風情であった。
 ところが一郎太は別段咎めることもなく、

「謝る必要などない。自由にして良いと言ったのだからな」
「はぁ」

 それでも虎一太は居心地が悪そうだ。

「だが夢は見ただろう」
「そういえば」
「何を見た」

 その時だけ、虎一太が茫洋とした顔に何とも言えぬ色を浮かべて龍二郎を見た。

「実は、龍二とよく似た内容でした」

 龍二郎は驚いて虎一太を振り見る。

「ただとった行動は若干違います」
「それは?」
「俺は―――部下を背負って逃げました」

 虎一太は遠くを望むように、見た映像を脳裏回顧した。




 それは夢と言うにはあまりにも鮮やかで、あまりに生々しい光景だった。
 ぴったりとついてくる部下。更にその後ろに迫る追手の気配。ピリピリとした緊張感と、僅かな高揚感。
 しかし罠に足を取られた部下を振りかえった瞬間、突き付けられた選択肢を即座に脳内から吹き飛ばした。
 迷わずにその腕を掴み、肩口に引き上げる。ずしりと背や腕にかかる重みさえ、真実のようだった。
 死なせてなるものかと、共に生きて戻るのだと、そればかり考えていた。本来は見捨てるべきなのだと分かってはいても、最後まで諦められなかった。全力を尽くすまでやってみなければ可能か不可能かなど分からない。最初から限界を設けるのは嫌だった。
 しかしやがて敵に追い付かれそうになったところで、にわかに視界が開け、目の前に吊り橋が現われた。橋を一目散に駆け抜けたのだ。

「大急ぎで吊り縄を落としてぎりぎり難を逃れました。でもその後は、足元から地面が消えて、真っ暗闇に落ちて行って―――よく覚えていません」

 ふむ、と一郎太は小さく息をついた。
 水を打ったように沈黙が流れる。
 背後では幹部たちがひそひそと言葉を交していた。
 一郎太はただじっと目を閉じている。
 あまりに微動だにしないものだから眠っているのではないかとさえ思えた。

―――相分かった」

 組んだ腕を解き、一郎太はようやく重く唇を開いた。
 鋭い眼光で、二人の後継者候補をそれぞれ見据える。

「これより評定に入る。決定は明日下すことになる。それまで二人ともゆっくり休みなさい」

 虎一太と龍二郎は一瞬だけ互いに目を合わせ、是と応えて頭を下げた。
前へ 目次へ 次へ