あの山に光るは 月か星か螢か
螢ならお手にとろ お月様なら拝みあぎゅう
おろろん おろろんばい

―――福岡の子守唄



 雪が森々と降る。音もなく、気配もなく。まるで自分たちの存在のよう。今は辺りを一面に白く覆い存在を主張しても、停留は一時のことに過ぎず、時の流れに従って儚く溶け去る。
 雷蔵は白銀を瞳に映すともなく映しながら、ふと唇を開いた。

「口を差し挟む気はないけど―――少し、厳しすぎやしないかい」

 声の向けられた先は、背後だった。一間を挟んだ向こう廊下、戸襖の陰に、虎一太が背を預けて、腕を組んでいた。気まずくて室に入り辛かったのか、それとも他に思うところがあったのか。雷蔵は雪景色から左手に瞳を据える。傷はいずれ癒えるが、失われた視力は永久に戻らない。目には目を、というにはいささか重い。

結目(けじめ)だからな。片目ならば失ってもどうにかなる」

 瞳は伏せたまま、虎一太は息を零す。これは彼なりの断罪であり、慈悲でもあった。本来、命令違反者はその場で手討ちにしてもおかしくはない。しかし今回は事が事である。囲い女がいると噂される別邸の敷地内に許可なく侵入したからという私的理由で、里の実力者にして貢献者を問答無用に斬り捨てる愚を犯すわけにはいかない。とはいえ、命に逆らったことについてそれなりの処罰もなければ他に示しがつかない。おまけに彼は雷蔵に刃を向けた。それだけならば不知火も同様であるが、手傷を負わせたとなれば話は違う。棟梁として、示さねばならぬ態度というものがあった。

 それでももし失うのが片腕や片脚ならば、今後の弊害が大きい。慣れるのにも時間がかかる。万一今すぐに戦闘となっても、即戦力にならないのでは後々困る。しかし片目ならば不利は最小に抑えられる。確かに死角は生ずるが、遠近などの距離感覚にさえ慣れれば動くのに支障はなく、狭まった視界に順応するのに時はかからない。もともと視界だけに頼るような訓練はしていないから問題はないだろう。

 その代わり、残る目にかかる負担は倍増し、いずれ両目とも光を失う可能性は大いにあった。それに、死角が増えたことにより危険度も増す。しかしそれだけのことを犯したのだから、報いとしては妥当のところであると虎一太は判断した。
 戸口からようやく姿を表わした男を、雷蔵は縁側に座し、片膝を抱えた体勢で迎えた。

「大丈夫なのかい」

 もたらされた連絡のことを指している。伝達役はかなり急いでいるようだったから、緊急の報だったのではなかったのだろうか。

「ああ」

 世話をかけたな、と言葉少なに言い、虎一太は腰を落ち着けた。

「で? そろそろ教えて欲しいんだけど」

 雷蔵がちらりと横目で見やれば、重い溜息と共に答えがもたらされる。

「龍二は―――龍二郎は俺の弟だ」

 雷蔵の双眸が僅かに見開かれる。素直に事実に驚いていたが、一瞬だけ過ぎった勘が当たっていたことにも驚いていた。

「これまた随分と毛色の異なった兄弟だね」

 成程、直感的に似ていると思ったのは気の所為ではなかったか、と雷蔵は得心する。
 それにしても息子といい弟といい、とことん柄が違うものである。虎一太を譬えるなら、その異名通りの朧月であるが、龍二郎は氷輪のようであった。鋭く冴えわたる細月。

「弟といっても二月違いの年子だからな。母親も違う」
「腹違いかい」

 虎一太がゆったりとした仕草で頷いた。

「正確には俺は妾腹(めかけばら)で、向こうが本腹(ほんばら)だ」
「ん?」

 今度こそはっきりと怪訝を声にした。確か影梟衆頭は代々世襲である。となれば、頭を継いだのは正妻の子の龍二郎ではなく、庶子の虎一太ということになる。
 だがこれならば、虎一太が名に『一』を持ちながら『虎』であるのに対し、龍二郎が『龍』でありながらも『二』である理由も頷ける。一般的な通念と慣習からすれば、『龍』は長に、『虎』は幼につけるのが常だ。

「親父殿としては保険のつもりだったのだろう。二ヶ月遅れて本妻が産むのが男女どちらでも都合がつくように俺を名付けたのだと思う。とはいえ、藤浮家は世襲ではあっても嫡流か否かという縛りは実はほとんどない」

 つまり、と雷蔵が言いかえる。

「正妻の子であろうが妾の子であろうがあるいは血の繋がらぬ養子であろうが、同等に資格を有する、と」
「その通りだ。ついでに長男か次男かという点も不問だ。もちろん待遇は全くの平等ではなかったが、少なくとも藤浮の氏姓さえ継いでいる限り機会は等しく与えられた」

 そうやってより相応しく優れた者を頭に据えることで、藤浮一族は棟梁家として幾星霜を永らえてきたのだ。

「だが、当時の俺は、正直棟梁の座というものにさほど魅力を感じなくてな」

 気恥ずかしい内緒話を吐露するように、苦笑しながら虎一太は言う。しかしその横顔はどこか懐かしげで、穏やかなものであった。

「叶うなら忍び頭より算術の道を極めたかった。実際、俺はあまり修行に熱心ではなかったし、幻術も忍術も龍二の方が上だったしな。それに龍二は俺とは違って、棟梁となることを目標としていた。だから俺は次期が龍二に決まればいいと思っていたよ。しかし機会が同等に与えられるということは、拒否することもできないということだ。望むと望まざるとに関わらず、俺は龍二と継嗣を競わざるをえなかった」

 虎一太の話では、どちらがより棟梁に相応しいかを決めるために、三つの試練を受けなければならないのだという。

「最初の試練は、千尋の渓谷に綱を渡し、その中央で一昼夜立ち続けるというものだった」

 雷蔵はそれはなかなか、と呟いた。義を志にする影梟衆は異色かつ特殊である。ゆえに軍団を率いる棟梁の選出も生半可なものではない。そう小耳には挟んでいたが、実態は聞きしに勝る壮絶さである。丸一日ということは当然、食事は愚か用を足すこともできない。疲れても座ることは叶わぬし、眠れば死が待っている。少しでも気を抜けば谷底へまっさかさまだ。その場で直立不動で昼夜ひたすら立ち続けるのであるから、要されるのは半端な忍耐心ではない。そこを見られるのだ。忍び衆の頭とは、常に重い責任の上に立たされている。その一挙一動を内外から休む間もなく見られている。まさしく綱を渡るような緊張感の中に在って、一歩でも踏み外せば、己ばかりか仲間をも巻き込んで奈落の底に転落する。その重圧にどれほど逃げず耐えうるか。

「乗り気でないからと言って、己の生まで諦めるわけにはいかない。龍二ともども耐えきり、第一関門は通過した。この次に待っていたのは、目隠しをしての山の(ぎょう)だった」




 心身を極限にまですり減らし疲労困憊であった二人に、無残にも次の課題は与えられる。わずかに休息時間と食事が与えられたのち、すぐさま山へ連れて来られた。装備など一切ない。ただ視界を塞がれた。
 目隠しをしたままで、夜明けまでに山頂にたどり着くこと。それが第二の課題だった。山は日頃修行に使われる場であり、虎一太達にとっては庭のようなものである。しかしさすがに目隠しをしてとなれば、いくら慣れ親しんだ庭でも思い通りというわけにはいかない。どこに危険が潜んでいるとも限らぬし、方角だって量りようがない。

 しかし、虎一太は否やを訴える立場にはなかった。試練は藤浮の名を持つ男児の宿命である。当人がどれだけ拒もうとも、否応なしに課される。それは棟梁選定に不正や偏りが出ることを避けるための決まりだった。候補者の任意で棄権や譲り合いを認めてしまえば、器でない人間が棟梁となる可能性があるからである。

 目隠しをしての山登りは想像以上の困難を極めた。今が何刻なのか、今自分がどこにいるのかさえ分からなくなってくる。目隠しは密かに外すことができぬよう、封印が施されてあった。
 道行は当然難航した。ただでさえ疲弊しているのに、休みたくとも夜明けまで時はなく、山頂までどれほどかかるかも知れない。重い身体を引き摺るようにして、木の位置や土の形を確かめながら踏み入っていた虎一太は己の集中力に限界が来ていることを感じていた。そして不注意にも足を踏み外した。急な勾配を落ちて行く中、もう駄目かと思った。受け身もままならぬまま、全身を無様に打ちつけ気を失った。

 しかし、次に目を覚ました時、虎一太は己が生きていることを実感した。強かに転落したというのに、無意識に頭を庇っていたせいか目隠しは取れていなかった。柔らかな感触が背中の下にあった。湿った土と黴の匂いで、自分は厚く堆積した腐葉土の上に落ちたのだと知れた。落下中に負った打ち身は全身に渡っていたが、奇跡的に骨も折れていなかった。

 虎一太はゆっくりと起き上がると、己の立ち位置を確認しようとした。遠くにさらさらという川のせせらぎが聞こえた。にわかに喉の渇きを覚え、水の匂いに誘われるように音源を目指した。足裏に伝わるのが土から凹凸のある小石に替わった。爪先に冷たさが触れる。手を伸ばせば水の流れが指の合間をすり抜ける。渇きを癒し、顔を灌ぐと、川沿いに歩き始めた。岩を辿る風にしていくうちに、洞窟らしきものを発見した。虎一太はその入り口際に身を落ち着けることにした。こういう時の対処法は、まず慌てずに、体力を温存しながら動けるまで回復するのを待つ。急がば回れの格言の通りである。慌てた所で先程の二の舞になる。

 岩陰に座り、冷たい壁に背を預けながら、張り詰め過ぎて擦り減った神経を緩ませる。全身から力という力を抜き、辺りと一体となると、いつしか不思議な感覚に包まれた。風の音、木々のざわめき、獣の息遣い―――普段は耳に入らぬ自然の音がそこには溢れていた。元々乗り気でなかった分、試練など、この深遠な自然の中では瑣末なことのように思えた。

 視界を塞がれているせいか、感覚がいつもに増して鋭敏になっていた。虎一太は自然の気配のうちに身を浸し、音を享受しながら山頂を目指した。当初の恐怖感はなくなっていた。道行の間中ずっと、不思議と穏やかな心地だった。心が落ち着いてくると、見えずとも山の姿が浮かび上がり、足が覚えている道を辿って、山頂にたどり着いた。待機していた者の中には当時棟梁であった父、一郎太もいた。龍二郎はすでに先着していた。龍二郎は触れた物の形などから慎重に正確に情景を脳裏に描きだし、そこから記憶の中の識った道を探し出したのだという。殆ど情緒のみで辿りついた虎一太と違い、実に理性的な方法だった。

 覆いが取れた瞬間、さっと輝閃が弾けた。思わず眇めた視界に飛び込んできたのは、西の空に掛かる白い残月だった。振り返れば東雲にかげろい。
身体は節々が痛み、極限にまで疲れきっていたが、不思議と心は清々しく澄み渡っていた。光風霽月。全身を覆う鈍痛と倦怠感とに包まれながら、移ろいゆく空に魅入っていた。

「虎一太」

 虎一太は振り返った。次の試練の準備にとりかかるべく、皆が麓へと爪先を向けはじめる中、父がこちらを見ていた。

「登るまでの間、何を思った」

 虎一太は少し逡巡した。

「さあ」
「さあ、とは?」
「よく覚えておりません」

 一郎太は静かに先を促した。

「最初は何かを考えていたような気がします。けれど山中で過ごすうちに、なんだかそのようなことはどうでもよくなってしまって……ただ山の息遣いだけを感じてました」
「山か」
「はい。自然の音を聞き、匂いを嗅ぎ、気配を追っているうちに、気がつけばここまで辿り着いていました」

 虎一太は転落した沢のことを思い出す。腐葉土の柔らかさ。川のせせらぎと水の冷たさ。休息を得た洞窟のうちで、静寂に耳を澄ませば、痛みも疲れも癒された。
 「どうでもよくなった」と告げるとき、虎一太は口にするかやめるか少し迷った。試練を蔑ろにしているわけではない。しかしそれが偽りのない心であったし、誤魔化してもしようのないことだと思った。龍二郎とは違い、自分はそこまで棟梁になりたいわけではなかった。
 しかし、一郎太から叱責は飛んでこなかった。ただ「そうか」と答えたのみで、踵を返してしまった。その時龍二郎がこちらを見ていることに気付いた。きっと今の話を聞いて呆れただろう、と虎一太は思った。あるいは軽蔑したかもしれない。その程度の覚悟で忍び頭となるつもりかと。表情のない龍二郎からはその心中を量ることはできなかった。

 最後の試練は、〈彼我(ひが)の間〉で行われた。
 〈彼我の間〉は棟梁邸の内部にありながら、普段は封印されている、いわゆる開かずの間であった。その存在を知る者も少なく、次期棟梁の選定時のみ開かれる。その特殊なところは、室内六方すべてが墨で黒り塗り潰されていることである。天井も襖も桟も板の間もすべて黒。外からの光が入る隙間もない。締め切れば、そこには完全に闇の一文字しかなかった。忍びは夜目を鍛えられるが、夜目とはその実、ごく僅かな光源を拾って視ているのである。一切の光源を排除した場では視覚は全く役に立たない。文字通り漆を幾重にも流し込み凝縮したのような漆黒の闇の中でたった一人残される。各人は室の壁に隔てられていた。この密閉された空間に丸一日閉じ込められるのである。

 最後の試練とはいっても、ただその部屋にいるだけで、特に何かしなければならぬわけではなかった。三つの関門の中では最も労が少ないといえる。「自由にしていい」と言われたとき、龍二郎などは心持ち拍子抜けした様子であった。先の二つが相当の苦行であったから、最後はどんな厳しい試練が待ち受けているものかと身構えていたのは、虎一太も同じだった。
 室に入る前、一郎太は二人に向かってこう述べた。それまでの試練では事前に声をかけることなどなかったのに、珍しいことだった。

「これが最後の試練となる。恐らくこれまでの試練よりもずっと困難なものとなるだろう。〈彼我の間〉は己の心を映しだす。思ったことが現つとなって現われる。だがお前たちが何をしようとも自由だ。心してかかれ」
「はい」

 二人の息子の粛々とした様子に一つ頷き、一郎太は「さあ入れ」と促した。
 闇との戦い。己との闘い。最終にして究極の試練が始まった。
前へ 目次へ 次へ